Rick'sCafe:Vere ac libere loquer

人類は神に創られ、その意に従うべき神の僕servus Dominiであり、神の下女ancilla Dominiである。

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日本におけるカトリック教会、特に大阪大司教区においては「信徒を中心とした教会」(レオナルド・ドゥーハン・著)に基づいているのか?それとも「今日の教会における共同責任」(スーネンス枢機卿・著)の歪曲引用などの影響なのか、目に見える「共同体」の動きにばかり目が向いているように感じるときがあります。
ここでも誤った「信徒の積極的参加」が独り歩きしています。
 
Rickの嫌いな言葉に、同じ教会の兄弟姉妹に対して嫌悪感丸出しで「あの人はお客さん気分で御ミサに来ている」などといったものがあります。裏を返せば「小教区の委員会や係りなどに参加せず御聖体だけいただきに教会へ来ている」という意味なのでしょうか?
これって一人の発言ではなく複数名から耳にしたことがありますし、またうちの教会でというよりも色んな所で…
です。
それも委員会や係などの活動においてよく働いておられるであろう方々の発言です。
 
カトリック教会というのは裾野が広く信徒は、色々な立場、色々な職業、色々な身体および精神状態、そしてそれぞれが何かしらの十字架を背負っています。
 
目に見えないだけであって、持病で苦しみながらもなんとか御ミサに与るだけで精一杯な方もおられることでしょう。
 
確かに面倒くさがって「小教区の委員会や係などに参加せず御聖体だけいただきに教会へ来ている」という方はあるかもしれませんが、そうであるか?そうでないか?は分からない部分です。
 
Rickが以前からよく書いているように、能動的な祈りは「積極的な活動」だと思います。
確かに「このお祈りを唱えたら煉獄の炎に焼かれない」とかって自分や家族のための祈りだけでは問題でしょうけど…
「祈っていても行動がなければ意味がない」と仰る方もありますが、特に他者のための祈りも「行動」ですよね。
教会が祈りで支えられているという事を常に認識しないと。。。
 
それを自分の目に見える範囲、そして自分の物差しで他者を測っての思考・言動はやはり傲慢な感じがします。
 
たとえば、ある信徒さんが「仕事で日曜日が必ず休めるとは限らないのに、何だかんだ言われるのが辛い」と愚痴をこぼされていました。これを聞いた時「なんでこの人は共同体から抑圧をされなければならないのだろう?」と思いました。
 
たまたま仕事が土曜日・日曜日にお休みの人もいるでしょうし、あえて土曜日・日曜日がお休みの職業につく人もいますが、それを「み摂理」と捉える事が出来れば他者において日曜日が仕事であることも「み摂理」と捉える事が出来るのではないでしょうか?
小教区の委員会や係なども「自分の意思」ではなく「み摂理」であり「させていただいている」と捉えれば他者を批判する発想は出ないはずですからね。
自分が「させていただいている」と捉えていれば、他者がされる目に見える「小さなこと」でも自分にとっては「大きな喜び」と感じられるのではないでしょうか?
 
※こんな事を書いていますが、決してRickは小教区での活動を軽んじているわけではありません。ただモノの見方に疑問を感じるときがある、というだけです。
 
 
 
そしてもう1つ、愚痴をこぼされた信徒さんとも話したのですが…
「仕事で毎日曜日の主日のメインミサに与ったり、活動に参加できないからといって自分を卑下する事はない」とRickは思います。
信徒の義務ですので、健康であれば「いつ」「どこ」の御ミサでもいいので与る努力は必要だと思いますし、努力がなされていれば「与れてよかったね」と思います。
次に「置かれた場所で咲く」努力…
必ずしも小教区の委員会や係の活動だけが重要なのではなく、日曜日に仕事が入るのも何かの意味があるのだと思いますし、ポイントはその時その場所をいかに「聖化」するか?ではないでしょうか。。。
 
「イエズスに倣う」事は教会にいるときだけではありません。
 
家庭においても、学校においても、町会においても、職場においても…
自分の行いによって、その場が少しでも「聖化」に近づけば素晴らしい事だと思います。
なかなか難しいのですけどね。
 
Rickは毎週日曜日のメインの主日ミサに与る事ができなくても、どこかで主日の御ミサで御聖体をいただき自分の置かれた場所で咲く努力をすれば、これは素晴らしい事だと思います。
 
これもいつも書いていることですが…
たとえば私利私欲のための出世はどうかと思いますが、自分の職業・職場において役職が上がると決裁権限が広がります。この決済において「イエズスに倣う」判断をすれば職場の「聖化」なんですよね。職場とは社会の一角ですから社会の「聖化」にも繋がる。
いつでもどこでも信徒としての「積極性」は発揮できるのです。
これは「個人主義的信仰」ではありません。
広い視野で物事を考えれば自ずと分かる事だと思います。
 
なによりも教会を「キリストの神秘体」であると捉えているか否か…
「キリストの耳」の人も「足」も「目」も「口」も色々な人が色々な役割を持って構成されているわけです。
それなのに「キリストの耳」の人が「キリストの目」の人に対して「何でお前は私のように聞くことが出来ないんだ!お前は悪い信者だ!」ってのは変ですよね。
一般社会の組織と同様に捉えていたら問題ですし…
でも民主主義で何でも変える事が出来ると思っている人がいるくらいですから(笑)
 
 
政治家・自衛官・警察官・コンビ二・病院・JRなど24時間365日稼動している職場がありますが…
シフト勤務の都合で毎週日曜日のメインの主日ミサに与る事が出来ない人は悪い人なのでしょうか?
信徒はすべて日曜日の午前中に休みを取ることが出来る職業でなければならないのでしょうか?
日曜日に確実に休みを取れる職業についている、またはそれを選んだら「素晴らしい信徒」なのでしょうか?
 
 
違いますよね。。。
 
 
キリストの耳は、キリストの目を悪く言わない。。。
 
※実際、教会は日曜日だけではありません。それ以外の日に関わる事が出来る人もそれは「み摂理」ですね。
※これは一般信徒同士の問題であって、聖職者による明らかに聖座に背く発言や行為などには信徒として「反対」を述べましょう! 

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「どうすれば、ミサが楽しくなるかなぁ?」
 
これは以前、侍者をしていた息子達に投げかけられた補佐司教さまからの言葉。
 
この時、息子は「え、楽しいって?」と思ったそうで…
 
 
先日の「待降節第1主日」の「聖書と典礼」でも御受難会の国井師が、ミラノの枢機卿さまの言葉を引用したりして御ミサについて書かれ「若者」対象ではありましたが、補佐司教さまの仰った「楽しい」と同根であろう発想に感じました。
「もっと楽しい」が「ミサの喜びの体験」?
 
まあ「子供」や「学生」そして「若者」のことを考えての事だと思うのですが…
 
どうも補佐司教さまや国井師の感覚だと…
●子供達は侍者を大人たちから「やらされている」
●子供達は御ミサを「つまらない」と思っている
●若者達も御ミサを「つまらない」と思っている
●青年は教会の「古さ」のせいで離れていく
といった理屈、そう捉えてらっしゃるのかな?とか思います。
 
だから「楽しい」になるのかと。。。
 
フォークミサってのも「きっと若者は楽しいだろう」からの発想ではないかな?
ただ70年代や80年代頭の若者が「楽しんだ」かどうだか分かりませんが、日本のフォークってのは「流行りモノ」であって、今でも喜んでいるのは結構高齢層になっているのではないかな?
それとこの世代って「手作りの」って感じが好きなんだよね。
「手作りの」が「人民による」とリンクする感じもあるし…
「手作りの御ミサ」を目指したのかな?
 
Rickの世代になると日本のフォークはそれこそ「古い」ものですね。
うちの子供たちはアコースティックギターでのロック「アンプラグド」やケルト系の民俗音楽などは聴きますが、ストロークとアルペジオによる日本のフォークは…笑いの対象です。
ファッションや音楽は20年周期くらいかなぁ、リバイバルするけど…
それでも一部からの支持を得る程度ですね。
あと「手作り感」って個人的には好きではないなぁ、それよりもプロの仕事にあこがれます。
 
大阪教区の「子供と共にささげるミサ」って、大人による子供を利用した「階級闘争」が根底にあるようですね。
大阪教区の「新生計画」や「子供ミサ」の冊子において、子供が教会において被抑圧者であったかのように書かれています。子供は教会の中で「小さくされてきた」そうですよ。
 
「子供」っていくつまでをさすのでしょうか?
「子供と共にささげるミサ」の式次第を読んでいると、小学校低学年までがギリギリ対象ではないかと思います。
というか元々は小さな子供を中心とした集いで≪理解できるように≫用いるものだったんじゃないかなぁ。。。
 
うちの子供たちは嫌がってますけどね。
前回の「よい御ミサ」の記事ではないですけど、「普通」がよいみたいですよ。
特にうちの娘は東京カテドラルの「荘厳司教ミサ」で初めて「カトリックの御ミサだとつくづく感じた」らしいですから。
息子は「特別形式」に感動してたし…
「子供はこうだ」「若者はこうだ」といった思い込みや、自分達のしたい事を「子供」や「若者」をダシに推し進めるのはいかがな事かと思いますね。
 
 
息子じゃないけど何で「楽しい」になるのだろう。。。
 
Rick的には「楽しい」ではなくて「喜んで」ではないかと思います。
 
ある意味ね、学校の教科書を漫画や絵本みたいにした人たちと同じ発想ではいかんのですよ。
何のために勉強をするのか?を教えることが大切であって、それが理解できれば自発的に喜んで絵の無い教科書でも勉強するようになるはずです。
 
「子供」は「若者」になります。
やはり小さい時から家庭における信仰教育に力を入れなければならないのでしょうね。
 
変な「義務感」ではなく…
「楽しい」でもなく…
いかにして御ミサに「喜んで」与るようにするか?
 
私も含めて子を持つ親は責任重大です。
 
カトリック関連で色々と子供への信仰教育のための本がありますが、最近のものは子供に遠慮?というか変に理屈が先行していたり、逆に子供に「あなたにとってのイエス様ってどんな感じ?」と問いかけるものなど読んでいてイライラするようなものが多く、どうもピンときません。
 
やはりRickが子供の時に読んでいた「こどものためのカトリック要理」が一番よい気がします。
 
「理性を超えたものは考えるな、ただひたすら信じろ!」というか
「頭と霊魂に叩き込め!刻み込め!」って感じ。。。(笑)
親が信じているのだから、子供が信じるのは当然!
子供の時に叩き込めば、いつかは花開くのではないかな。
 
たぶん子供、学生、若者、洗礼志願者、現代社会に生きる人々が最も欲しているのは…
「カトリックでは伝統的にこうです!」と「言い切る」大人なのだと思います。
曖昧さはいりません、「はい」か「いいえ」でいいんです。
他宗派や他宗教への遠慮もいりません。
 
絶対性だよ。
父性だよ。
 
それが「喜び」への道しるべではないかと思います。
 
 
ついでに最近考えている事、これも誤解を招くかもしれませんが。。。
 
カトリックは「イエス教」になってはいけないと思っています。
御父と御子と聖霊、聖三位のペルソナのバランスが現在崩れているように思います。
 
 
 
御父はどこに行ったの?
 
 

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御ミサ自体には優劣はありません。
ただ「よい御ミサ」(よりよい)であったという印象が残る御ミサってあると思います。
 
そして最近特に思うのが「よい御ミサ」とは…
必ずしも単純に「ラテン語・グレゴリオ聖歌の御ミサであればよい」というものではない
という事。
 
自分の教会の日常的な御ミサはどうしても主観的になりますので、今回は書きませんが…
よその教会にお邪魔した時は、その教会にとっては日常的な「主日の御ミサ」なのだと思いますが客観的(粗探しではなく)に「あぁ、よい御ミサだった」と素直に感じる事があります。
 
その場合、「日本語のみ」「典礼聖歌のみ」(フォークミサではありえませんが)で特に特別な事をされているのではありません。たぶん「普通」なんです。
ただその「普通」に大きな意味があると思います。
 
典礼的に正しく、よく訓練された「聖歌隊」、教育をきちんとされた侍者の所作・動き、目には見えない会衆の集中力などといったものの「緊張感」を伴った、その場にいる全ての人々が御ミサに積極的に参加している。そのバランスがきれいに成り立っていて「普通」を構成しているように思います。
※個人的には碑文谷教会はそのバランスが素晴らしいと感じました
 
「普通」だと御ミサの流れもいい。。。
 
他にも別に聖歌隊が無くてもオルガンが無くても「よい御ミサ」と感じる事があります。
ポイントは「普通」に「流れ」と「バランス」ではないか?と思います。
 
上手い下手ではなく答唱詩編をソリストのように歌い上げる人がいたり、「みなさん一緒に唱えましょう」と司祭のみが唱えるべき「祈願」を会衆にも唱えさせる司祭だったりすると、それだけで「普通」が崩れてしまいます。
 
 
さて、私は大阪教区のシナピス主催の典礼破壊ミサ、赤い説教、云々に「どん引き」になり、典礼や社会への視点などバチカン関連の公文書を読み漁りました。
 
そして、これまでRick'sCafeにおいてラテン語・グレゴリオ聖歌・カトリック聖歌・ラテン語規範版・跪く事、舌への聖体拝領といったキーワードに「こだわり」を超えた「執着」した記事をたくさん書いてきましたが、今にしてみれば動機は「反動」と言えるのかもしれません。
 
そんな中で、年1回の「荘厳司教ミサ」(東京カテドラル)に初めて与った時は大きな「感動」を覚えましたが、1つだけ心の中に何か「引っかかり」が残りました。
私も会員ではありますが…(汗)
 
先日、府内の某教会においてラテン語とグレゴリオ聖歌による御ミサに与りましたがこの時も同じ「引っかかり」が残りました。 
信徒の朗読も流暢なラテン語で、とても美しい「音」の空間は出来上がっても、侍者がいない。
思わず、分かっていたら息子を連れてきたらよかった!とか思いました。
御ミサとして、何かが突出してクオリティーが高すぎてもバランスが崩れて「引っかかり」を感じてしまうのかもしれません。
跪きは日本における「適応」で「立つ」になっているのでその点は仕方がありませんが、ラテン語の御ミサであれば「mea culpa」で「胸を3度打つ」といったは所作、「Gloria」での「Jesu Christe」のおじぎはラテン語・日本語に関係なく「するべきポイント」は欠かせないと思います。
これは文句でも粗探しでもなく、単純に美しい音の空間だっただけに「もったいない!」といった感覚です。
※主催のグループに友人が加入したようですので、次回の御ミサへのお招きがあれば息子の貸し出しを申し出てみようかな?その頃には黒のMy侍者服とスルプリは出来上がっている事でしょうし…(笑)
 
 
そして「引っかかり」が何かと言うと、私がこれまで与った「ラテン語・グレゴリオ聖歌による御ミサ」において少なからず…
聖歌隊について「この人(たち)は御ミサで神にささげるのではなく、歌いたいだけ、発表会くらいの気でいるのではないか?」
会衆について「この人(たち)は、芸術鑑賞か博物館の見学と同じ感覚で与っているのではないか?」
といった印象を持ってしまっている事。(ごめんなさい…)
全員という意味でもなく大多数は違うだろうし、たぶん私の勘違いで、妄想なのかもしれませんが。。。(汗)  
 
また一昨年、「荘厳司教ミサ」での侍者経験から私個人でいうと「自分のすることで精一杯だった」というのがあります。
このような「経験不足」で心に「共に捧げる」余裕が無い場合もバランスを崩す要因ではあると思います。やはり常日頃からの経験をつむ事が大切なのかな?
聖歌隊、侍者、会衆、共にですね。
 
 
ここで…
必ずしも単純に「ラテン語・グレゴリオ聖歌の御ミサであればよい」というものではない
ですが、
「きちんと訓練され共に捧げることができればラテン語・グレゴリオ聖歌の御ミサはよりよい」
ということになります。
カトリックですからね♪
 
どこに根本的に大きな問題があるのか?
それは聖歌隊が悪い、オルガニスタが悪い、侍者が悪いなどではなく…
ラテン語ミサ・グレゴリオ聖歌・カトリック聖歌などを過去のもののように、いやまるで「障害物」のように宣伝してきた日本におけるカトリック教会の一勢力の責任だと思います。跪き・舌による聖体拝領についても同根なんですね。
 
「信徒の積極的参加」とよく言われますが。。。
 
この言葉が独り歩きして、何かの役割をする事が「積極的参加」と勘違いされるケースがあり…
酷い場合には「聖体授与の臨時の奉仕者」(聖体奉仕者という名称は司祭にのみ該当)が、臨時ではなくローテーションが組まれ日常化し、例えば・・・
会衆が極端に少ない場合であっても、司祭が複数名いてもローテーション通りに「臨時の奉仕者」を配置するという誤った行為がなされたりします。
 
また会衆は歌うことも大切ですが「傾聴する事も積極的参加である」(パパさま談)という理解がなされていないケースもあります。
 
なによりも「過去との断絶で新しい事」「第二バチカン公会議で変わりました」と嘘を言い続け、バチカンの公文書を歪曲・軽視・無視してきたことが現状に表れているんですね。
 
フィリピン人信徒の方や、ある司祭にお聞きしたところによると「フィリピン人信徒はラテン語の御ミサは問題ナシにできる」という話。
英語と日本語の混在するややこしい「バイリンガル・ミサ」よりも「ラテン語ですれば簡単かつ正統なのに、日本は嫌がりますよね」といった意見すらあるのですよ。
 
そろそろ高位聖職者のどなたかが、腹をくくっていただいて軌道修正の時期ではないかと思います。
ラテン語・グレゴリオ聖歌の御ミサを「特別なもの」「一部の人のもの」にしてしまった責任をとっていただかなければなりません。
ラテン語・グレゴリオ聖歌はカトリック教会の「普通」の多様性の一つであり、かつカトリック教会として最優位である事を正しく宣言していただき、聖座に忠実に全信徒の再訓練へ導いていただきたいものです。
 
さて、色々書きましたが「よい御ミサ」。。。
今年に私が与った最も「よい御ミサ」はなんといっても、四月に京都で与った「特別形式」(伝統のミサ・トリエントミサ・ヨハネ23世ミサ)です。 
 
イメージ 1
 
上手く表現できませんが…
印象としては「通常形式」(ノブスオルド・パウロ6世ミサ)は、「会衆の輪」のパワーを司祭が神に捧げる感じ。
それに対して「特別形式」は「輪」ではなく、会衆席の後ろの方から前へ前へと直線的にパワーが送られ司祭により一点に集約され、それが神に捧げられる…といった感じがしました 。
 
そこにも「信徒の積極的参加」の真の姿があり「トリエント時代は内陣と会衆が分離していた」というのは嘘だと感じ、そしてなによりも「完成された真・善・美」なのでしょうか?
 
文章にしたら延々書き続けそうなので…
「とにかく素晴らしかった」
 
の、ひと言で終わらせておきます(笑)
 
 
 
それと「特別形式」を知れば「通常形式」もより理解できる、そう感じます。。。
将来的(未来)にどうなるのかは分かりませんが、今はそれらの共存に意味があるとも思います。
 
またこの記事は自分への戒めも込めています。誤解なきように。。。(汗)
しっかりと学ばなければならない、経験をつまねばならない、と。

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簡単に。。。
 
リアルでもお友達のケニッチーさんが、ご自身のブログで…
≪レベルを上げるためには「フォーク聖歌からテゼの歌へ」という問題提起もいいのかもしれない。≫
と書いておられた事。
 
そしてカトリック教会における「サボテン」さんや「内緒」さんなどが警戒される「バッハ」の扱い。
 
これらは「カトリック教会のアイデンティティー」がポイント。
 
テゼはカトリックではない…
「テゼ」自体はいわゆるキリスト教のエッセンスの最大公約数であり、教派に関わらず受け入れやすい。
現段階でエキュメニカルな動きの1つとしてRickは「全否定」はしません。
しかし「最大公約数」という段階で「聖伝」は含まれずカトリック教会からすればどこまで行っても「不完全」なわけです。※テゼに関するRickの古い記事
 
そしてエキュメニカルはカトリックがプロテスタントと迎合同化することでも、将来的に「テゼ」化することでもなく…
エキュメニカルな活動を通して、東方教会や聖公会、プロテスタントなどがカトリック教会に戻る事が最終目標のはずです。そのための足がかりとして第二バチカン公会議から「対話」の必要性が大きくクローズアップされたわけですよね。ここを間違えてはいけないわけで…
 
ただテゼで用いられる楽曲自体は悪くはない、というかフォーク聖歌(?)よりは数段気持ちが良いものが多いとは思います。頭の中をグルグル駆け巡り、ちょっと洗脳系にも思えますが。。。
 
そして「バッハ」ですが、その大部分がルーテルですよね。
何でカトリック教会の御聖堂で演奏されなければならないのでしょう。
芸術作品としての楽曲の素晴らしさは別としてです。
 
さてここでRickはケニッチーさんに対抗して(笑)、問題定義というか「究極の選択」を迫ります!
 
①楽曲として稚拙な上にメチャクチャへたくそな演奏・歌だけど歌詞が「聖伝バリバリなフォーク聖歌(?)」
②楽曲も演奏も素晴らしいが歌詞が「聖伝に反する、または聖伝無視のオルガン聖歌・ラテン語聖歌」
 
みなさんなら御ミサにおいて、どちらを選びますか?
 
ちなみにRickはカトリック教会のアイデンティティーを理由にかもしれません。
 
まぁアイデンティティーを理由にすれば基本どちらもNGでしょうけどね♪

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F教会の聖母

この季節になると思い出すこと。。。
 
18年ほど前でしょうか、私が結婚した頃の話。
※もちろん洗礼前ですし最もカトリック教会から離れていた頃かもしれません
 
その頃の亡き父は身体はすこぶる元気でしたが「若年性アルツハイマー」を発症していましたので、O府とN県の境界にある山の中腹(N県側)に位置するデイ・センターに通っていました。
 
ある秋の日の夕方、母から私の家に電話があり…
「父がデイ・センターを脱走して行方不明である」との事。
 
デイ・センターの職員さんが捜索してくれましたが見つからず…
警察に届けを出しました。
 
その日の夜、そして翌日も見つからず…
脱走から2回目の夜を迎えました。
 
心配はピークに達していましたが、探しようもなく…
「出来る事はないか?」と考えていました。
 
その時、頭の中に浮かんだのは…
「そうだ、聖母にお取次ぎを願おう!」でした。
 
深夜0時、家の近くのF教会まで自転車で行きました。
 
敷地内に入ったか外からだったか記憶にないのですが、どちらにしても御聖堂の外でした。
子供の頃に叩き込まれたものはしっかりと覚えているものです。
15年くらいぶりに寒さに震えながら「御父と御子と聖霊の…」から「主祷文」「めでたし…」(天使祝詞)を始めました。
 
 
さて次の早朝…
警察から連絡があり「見つかった」と。
 
ホッと安堵。。。
 
で、どこで見つかったのかというとO府M市。
山を越え、かなりの距離をずっと歩いていたようです。
そして2日目の夜(F教会に私が行ったすぐ後)、勝手に人の家に入って(文化住宅で鍵が開いてた)布団を敷いて寝ており…
酔っ払って帰ってきた家の人が「知らないおっさんが寝てる!」と警察に連絡したそうです。
 
私はすぐに「マリア様、ありがとうございます!天主さまありがとうございます!」と小さな声で叫びました。
 
こんな素晴らしい恩寵をいただいたのに、私はその後14年ほど逃げ回り…
神様を待たせてしまいました。
 
 
今でもF教会の前を通る度に立ち寄り「ルルドの聖母」にご挨拶します。

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