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連枝衆
「連枝」というのは一族のこと。つまり信長からすると兄妹・息子・叔父・甥・従兄弟
などが該当する。近親であっても、部将と同様に扱われて大きな仕事を任されるこ
ともある。
「連枝衆」というのは、あくまでも信長の親族と言った分類であり、職掌によるもので
はない。従って部将・馬廻などと厳密に区別することはできない。北畠信雄は信
長の次男であり「連枝衆」なのだが、南伊勢の支配者として軍制の中では「部将」
の役割を果たすことになる。
また、信長の三男の信孝は四国討伐の司令官に任命されてもいる。このような独
立した大軍団の司令官であれば、もはや「連枝衆」として扱うわけにはいかない。
つまり、このような大身の者を除いてたいていの連枝衆は、まとまって信長本陣に
詰めるか、嫡男の信忠など大身の連枝の指揮下で働くことになる。だが、戦の先
鋒を務めるとか、最前線に置かれるとか戦いの中で大活躍したという例はほとんど
見られない。
部将
部将は旗本に比べては大身であり、一部隊を率いたり、一城の守備を任されたり
するほどの軍事力を持ったものである。信長の尾張一国時代からの部将は、元来
尾張・美濃の在地領主の家系で、力関係により織田弾正家に従うようになったもの
が多い。
部将はいわば軍全体の中核をなす存在で、彼らの戦力如何で勝敗の帰趨が左
右されることとなる。ただ、部将と言っても大身・小身様々いることはいうまでもな
い。小身のものは率いる兵は数百程度、兵力の上では旗本の大身のものと大差
はない。旗本と違うところは、本陣に詰めることはせず、独立した軍を動かすという
ところである。
信長の版図が広がってゆき、部将の領地や支配地が大きくなると、一人の武将の
率いる兵力も増えてゆく。信長の尾張一国時代には最有力部将にしてもその動
かせる兵力はぜいぜい7〜8百程度であったが、信長の晩年になると、方面指令
軍の部将は2万以上の兵を指揮している。
与力
「与力」も部将に入れられる。だが、身上が小さいため、独立した部隊を編成した
りできず、有力武将の軍に属してその指揮下で働くものたちが「与力」である。つ
まり、彼らは有力部将には所属しているが、信長の直接の家臣であり、部将とは
主従関係を結んではいない。柴田勝家の北陸方面軍の属した前田利家や佐々
成政、明智光秀に属した細川藤孝、筒井順慶、羽柴秀吉に属した竹中半兵衛ら
もそういった「与力」であった。
「与力」といっても身上の大きさに差があることはいうまでもない。そして、その付属
している有力部将との従属度にも大きな差がある。従属度の強い形は、中世を通
じて見られる寄親−寄子関係の系統を引いているもので、与力といいながらも従
来の寄子と変わらない従属性を残しているというケースである。この形では寄子の
所領経営に関しても、寄親が指揮権を振るうなど、寄親が大きな統制力を持って
いる。
旗本
「旗本」は一騎駆けの武士が多いが、なかには百から二百ほどの小部隊の指揮
官を務めているものもいる。
旗本は馬廻と小姓に分かれる。「弓衆」「槍衆」「鉄砲衆」など、使用武器で隊を
分けて呼ぶ場合もあるが、広い意味でいえば彼らも馬廻りに組み入れられる。小
姓は、平時は信長の身辺の世話をすることが主な仕事だから、馬廻以上に信長
と密接に結ばれているといえる。馬廻は小姓よりも上であるという認識がありがちだ
が、必ずしもそうでなく、小姓であっても身上の大きいものがいるし、馬廻に属して
いても普通の小姓より小身のものもいる。信長の家臣の場合、尾張在地領主の長
男が馬廻として仕え、次男以上が小姓になるケースが見られる。
永禄年間に信長は、馬廻衆と小姓衆の中から「戦功の衆」を20人選抜し、10人
ずつ二組に分けて「黒母衣衆」「赤母衣衆」という職掌を作った。彼らの役割は陣
中を走り回って命令を伝える使番の仕事のようだが、そうした役割よりも一種の名
誉職つぉいて選ばれた様子である。前田利家、佐々成政なども当初はこの赤母
衣、黒母衣の名誉あるメンバーだったのだ。
吏僚
戦闘を離れたところでの一般政務に携わる家臣たちの存在は、戦国時代では無
視されがちだが、彼らの存在なくして戦国大名の領国経営は成り立たない。当時
このような言い方は無いが「吏僚」としてまとめておきたい。
彼らの仕事は安堵・宛がい業務、各種の税の賦課、農民・町人への命令の伝達
などであった。信長は京都の政治も行ったし、広範囲の地域を占領していったか
ら、吏僚の仕事も並大抵ではなかったはずだ。
吏僚の主たる職種としては「奉行衆」と呼ばれるものたち。彼らがこうした行政の
専門家である。そのほか、信長の手紙をしたためる役の右筆、身の回りの世話を
する同朋衆も、時には奉行職と同じように行政に携わり、副状を出したり、奏者を
務めたりする。
なお、行政の仕事は場合によっては馬廻衆や小姓衆が行うこともあれば、部将が
手を染めることもある。だが、彼らの専門はあくまでも軍事面なので、明智光秀や
羽柴秀吉のような練達の行政家がいたとしても、吏僚とは扱わない。あくまでも軍
事から離れて活躍するものたちだけを「吏僚」として分類する。
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