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正長元年(1428)、また応仁・文明の乱期間に土一揆が全国で広が始めた。15世紀半ばはすでにピークになった。寛正の飢饉以降、文明初年から十年間で5回が行った。
応仁・文明の乱後、土一揆の代わりに国一揆が始まった。有名なのは山城の国一揆だった。
山城の国一揆というのは、文明17年(1485)秋から冬にかけて、南山城で畠山政長対畠山義成の戦争のきっかけだった。両軍のせいで地元の国人らは散々だった。つい12月、国人らは集会という形で集まり、両畠山軍に対して撤退の要求を出した。「実隆公記」でこの集会を国一揆と記していた。
山城の国一揆の行動は三つがあった。
1.両畠山軍の撤退
2.本所回復(戦争の片付け)
3.新関停止
地元の勢力が強過ぎなので、大名から抑えることができなくなってしまった。翌年、宇治平等院に会合して、「国中掟法」を拡充させ、「惣国」という正式の名前をつけ、山城支配が始まった。
「惣国」はつぎの行動をした。
1.半済令(年貢の半分を徴収、両畠山軍撤退用礼銭)
2.「月行事」(重要事項を決定)
この形の維持は8年間だった。その後、「明応政変」(1493)で、伊勢氏は山城の支配を強化した。結局、伊勢氏は大和領主古市氏と結び、南山城に入部することになった。これで山城の国一揆は崩壊した。
「明応政変」はまた次で紹介する。そして、一揆と大名化について・・・
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