戦国の魂〜〜本格的な戦国歴史研究室

人間五十年 化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬ者の有るべきか

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北陸一向一揆について

 一向一揆とは戦国時代に浄土真宗(一向宗)本願寺派の信徒たちがおこした一揆の総称。
 浄土真宗は、8代目の蓮如から他の真宗は衰退化になったため、一向宗と呼び始めた。
 1465年連如は加賀へ行き、1466年、近江・金森合戦で史上初の一向一揆がはじめた。
 1473年には富樫政親の要請を受けて、守護家の内紛に介入した。弟の富樫幸千代を倒した後、一向一揆の恐ろしさを感じ、1475年門徒の弾圧を開始、蓮如は吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は政親に追われて越中国に逃れた。越中砺波郡の石黒光義が政親と結んで門徒弾圧に出たところ、1481年に越中で一揆が発生し、光義が討ち取られる。この勢いに乗じて一方、政親は加賀の一国支配の認知を目指して足利義尚による六角氏遠征(鈎の陣)に従軍したが、それに伴う戦費の拡大により、国人層が反発して越中から帰還した門徒とともに決起する。1488年には、代わりに富樫泰高を守護を擁立して、政親を高尾城に自害した(長享の一揆)。そして加賀国は百年近く仏法領国として独立する事となった。その後一向一揆は能登国・越中国と拡大していく。加賀は百姓の持ちたる国と呼ばれる状況となった。


 一向一揆の実態は全て一向宗の者ばかりではなく、ほとんど農民を中心とする国人だった。信長が平定するまで約100年間続いていた。
 1560年一向一揆は越前に侵入。有名な九頭竜川の戦いで朝倉氏は見事に一向一揆を食い止めた。
 一向一揆の兵力は30万、朝倉氏の総大将は朝倉 宗滴(朝倉 教景)だった。宗滴は孝景の子が、3代目貞景の重鎮、一代名将と呼ばれる者だった。
 宗滴は一向一揆を撃退した後、一向宗の土地を没収することになった。

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2012/6/29(金) 午後 1:26 [ 中路正樹 ]


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