戦国の魂〜〜本格的な戦国歴史研究室

人間五十年 化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬ者の有るべきか

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また古本を購入した。

「信長公記」現代文訳、ずっと欲しかったが、普通の本屋で値段が高くて・・・
つい最近ネットで文庫を買ったんだ。宝として大事にするよ。これからもしっかり勉強できる。
代わりに、財布のほうが・・・

謙信の家臣団

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上杉謙信の家臣団は、永禄二年(1559)十月二十八日の『侍衆御太刀之次第』、天正三年(1575)二月十六日の『上杉家軍役帳』、天正五年十二月二十三日の上杉軍団の動員名簿『上杉家家中名字尽手本』によって知ることができる。

 『侍衆御太刀之次第』は、永禄二年、謙信が第二回目の上洛から帰国すると、諸将が太刀を贈って祝賀したときの名簿である。これによると、侍衆は「直太刀之衆」、「披露太刀之衆」、「御馬廻年寄分之衆」に区分されていた。ついで、同年十一月に「信濃大名衆」が、翌年三月には「関東八ケ国之衆」が太刀を持参して祝賀している。

 『上杉家軍役帳』には、上杉軍団の有力武将三十九名と、軍役として出さなければならない槍・手明・鉄砲・大小旗・馬上が記されている。上杉軍団の兵力とその装備の状態が一目で分かる。この軍役帳によれば、上杉軍団は四種類に大別することができる。
(*手明=兵食糧を積んだ馬を引く兵士*馬上=騎馬兵)

 
第一群は、長尾家の一門衆で、御中将様(上杉景勝)、山浦殿(村上国清)、十郎殿(上杉景信)、上条殿(上条政繁)、弥七郎殿(琵琶島弥七郎)、山本寺殿(山本寺定長)の六名。様・殿と敬称で呼ばれ、他の武将たちとは区別されていた。
 
第二群は、下越地方の国人衆(揚北衆)で、中条与次(景泰)、黒川四郎次郎(清実)、色部弥三郎(顕長)、水原能化丸(隆家)、竹俣三河守(慶綱)、新発田尾張守(長敦)、五十公野右衛門尉、加地彦次郎、安田新太郎、下条采女正(忠親)、荒川弥次郎の十一名。
 
第三群は、上越・中越地方の国人衆で、菅名与三(綱輔)、平賀左京亮、新津大膳亮、斎藤下野守(朝信)、千坂対馬守(景親)、柿崎左衛門大輔(晴家)、新保孫六、竹俣小太郎、山岸隼人佐、安田惣八郎(顕元)、舟見の十一名。下越の竹俣小太郎以外は、上越・中越地方の武将で、揚北衆より早く上杉家の家臣となった。
 
第四群は、譜代・旗本の直臣で、松本鶴松、本庄清七郎(秀綱)、吉江佐渡守、山吉孫次郎(豊守)、直江大和守(景綱)、吉江喜四郎(資堅)、香取弥平太、河田対馬守(吉久)、北条下総守(高定)、小国刑部少輔、長尾小四郎(景直)の十一名。このうち香取は不明だが、北条と小国は中越の国人衆、長尾は上野国の長尾一族と思われる。この四人を除いた七名は謙信の直臣であった。
 
『上杉家軍役帳』によると、謙信の動員兵力は武将三十九名、槍三千六百九丁、手明六百五十人、鉄砲三百十六丁、大小旗三百六十八本、馬上五百六十六騎の五千五百五十三名であった。しかし、これに記載されていない武将もいることから、上杉軍団「麾下八千」と伝えられているように、動員可能な兵力は八千名位であったろう。
 
『上杉家家中名字尽手本』には、八十一名が記されている。その中心は越後の武将たちで、それに越中・能登・加賀・上野の武将たちが含まれていた。これは、天正五年当時における謙信の勢力範囲を示している。おそらく上洛を想定しての動員名簿であったろう。

●上杉家の部将
 長尾政景 上杉景信 新発田重家 中条藤資 色部長実 北条高広 安田顕元 杉原親憲 柿崎景家 上条政繁 本庄繁長 大熊朝秀 直江実綱 直江兼続 高梨政頼 宇佐美定満 竹俣慶綱 加地春綱 志駄春義 新津勝資 小国頼久 黒川清実 山吉豊守 山本寺定長 河田長親 村上国清 斎藤朝信 鮎川清長
    

曲直瀬 道三(まなせ どうさん、永正4年9月18日(1507年10月23日) - 文禄3年1月4日(1594年2月23日))

父は近江佐々木氏庶流の堀部親真。幼少の頃、両親を失う。永正13年(1516年)、五山文学の中心である京都相国寺に入って喝食となり、詩文や書を学ぶ。この頃、姓を曲直瀬とする。享禄元年(1528年)、関東へ下って足利学校に学ぶ。ここで医学に興味を抱いたと言われる。名医として知られた田代三喜斎と出会い、入門して李朱医学(当時明からもたらされた最新の漢方医学)を修める。天文15年(1546年)ふたたび京都へ上ると、還俗して医業に専念。将軍足利義藤(義輝)を診察し、その後京都政界を左右した細川晴元・三好長慶・松永久秀などの武将にも診療を行い、名声を得て、京都に啓迪院(けいてきいん)と称する医学校を創建した。

永禄9年(1566年)、出雲月山富田城の尼子義久を攻めていた毛利元就が在陣中に病を得た際に、これを診療し、『雲陣夜話』を記す。天正2年(1574年)には『啓迪集』を著し、同年に正親町天皇に拝謁を許され、診療を行い、同書を献上した。正親町天皇は僧策彦周良に命じて序文を作らせている。この際に翠竹院の号を賜る。織田信長が上洛後は、信長の診察も行い、名香蘭奢待を下賜された。

著書は『啓迪集』以外にも『薬性能毒』『百腹図説』『正心集』『弁証配剤医灯』など数多く、数百人の門人に医術を教え、名医として諸国にその名を知られた。天正12年(1584年)、豊後府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察したことがきっかけでキリスト教に入信し、洗礼を受ける(洗礼名はベルショール)。天正20年(1592年)には後陽成天皇から橘姓と今大路の家号を賜る。文禄3年(1594年)1月4日没した。死後、正二位法印を追贈された。子の玄朔が後を継ぎ、代々官医として続いた。




田代三喜(たしろさんき)1465〜1537(寛正六年〜天文六年)

 「我が邦名医多しといへども、像祀せらるるは、古来ただ鑑真と田代三喜あるのみ」(富士川游『日本医学史』)と記されているように、三喜は室町時代の末の頃、『局方』の学のみが行われていた時代に生まれ、初めて李朱医学を唱え、その学と術とを行い、関東一帯を風靡したのであった。実にわが国における李朱医学の開祖である。

 三喜は寛正六年(一四六五)武州(埼玉県)川越に生まれたとされるが、出生地は川越の北方約二○キロの越生という説もあり、現に埼玉県史跡指定になっている三喜生誕の地が越生にある。

 十五歳の時、医に志し、当時は僧侶でなければ医となれないので、妙心寺派に入って僧侶となった。
長享元年(一四八七)二十二歳の時、明に渡り、留学すること十有二年、李朱医学を学び、またその頃既に日本より明に留学して医を行っていた僧医月湖について修業している。
明応七年(一四九八)月湖の著書『全九集』や『済陰方』その他の医書を携えて帰国、一時鎌倉に居を定めていたが、後に下総(茨城県)の古河に移った。
これは古河公方の足利成氏が三喜の高名を聞いて招請したものである。
以後世間の人は「古河の三喜」と呼ぶようになった。
古河に居ること数年にして生地武州に帰り、ほとんど関東一円の間を往来して医療に従事し、済生の功績はきわめて多かった。
その間、六十七歳の時、名声を慕って、初代曲直瀬道三が三喜を訪れている。天文十三年(一五四四)八十歳(一説には七十三歳)で死去。
三喜には範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、玄淵、善道など多くの号がある。

 三喜の著書はまとまったものが少ないが、『三帰廻翁医書』(『三帰十巻書』)は三喜の代表的著書の集大成されたもので、三喜によって日本化された李朱医学の全貌を知る珍書であり、書誌学的にもきわめて貴重である。
三喜の医説の特徴は、すべての病因を風と湿との二邪に帰し、寒暑燥火も風湿の消長によって起こる現象であるとした。そして体内にあって病を受け入れるものは、血・気・痰であると解釈した。その中で特に血と気が重要であるとしている。




永田 徳本(ながた とくほん、1513年(永正10年) - 1630年3月27日(寛永7年2月14日))

戦国時代中期の1513年、三河で生まれたという(異説もある)。その後、出羽(鹿島ともいう)で修験道を学び、また田代三喜に就いて李朱医学(当時の明からもたらされた漢方医学)を修め、信濃・甲斐に移り住み、武田信虎・信玄の侍医となったと言われる。武田家滅亡後は、東海・関東諸国を巡り、貧しい人々に無料で薬を与えたり、安価で診療を行ったという。どんな治療を行っても報酬として16文(18文ともいう)以上の金額を受け取らなかったことから「十六文先生」とも称された。また、本草学にも通じ、甲斐における葡萄栽培法の改良も行ったとする伝説もある。また江戸時代に入ると、将軍徳川秀忠の病を治癒し、その際も報酬を受けずに立ち去ったと言われるなど、その人生は謎と伝説に包まれている。1630年に死亡。享年は118。当時としては驚異的な長寿であった。晩年は岡谷に居住したと伝えられ、同地に墓碑が存在する。著書に『梅花無尽蔵』、『徳本翁十九方』などがある。

なお、現在の日本の製薬会社「トクホン」の社名は、この永田徳本にちなんで命名されたものである。

本姓は「中島氏」。初代の四郎次郎清延は本能寺の変後、本国へ逃亡する途中の徳川家康一行を支援し、それがきっかけとなり徳川家御用達商人の一人となった。二代四郎次郎清忠は江戸幕府御用達商人となる一方、京都町人頭にも任命され権勢を誇る。三代四郎次郎清次は引き続き幕府御用達商人をつとめ、更に朱印船貿易での特権を獲得し、莫大な富を得る。その財産によって茶道具を蒐集するなど芸術のパトロンともなった。

この初代〜三代までが茶屋家の商人としての絶頂期であり、角倉了以の「角倉家」、後藤庄三郎の「後藤家」とともに「京の三長者」と言われた。しかし鎖国政策や時流の変化に乗り遅れ、江戸時代中期以降はふるわなかった。江戸時代初期の豪商に多い「特権商人」の典型とされる。

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