戦国の魂〜〜本格的な戦国歴史研究室

人間五十年 化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬ者の有るべきか

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十二支と読み 和読み 動物 月 時刻 方位 五行 陰陽 それぞれの字義
子(シ) ね 鼠 11月 0時 北 水 陽 「子」は「孳」(し:「ふえる」の意味)で、新しい生命が種子の中に萌(きざ)し始める状態を表しているとされます。

丑(チュウ) うし 牛 12月 2時 北東微北 土 陰 「丑」は「紐」(ちゅう:「ひも」「からむ」の意味)で、芽が種子の中に生じてまだ伸びることができない状態を表しているとされます。

寅(イン) とら 虎 1月 4時 北東微南 木 陽 「寅」は「?」(いん:「動く」の意味)で、春が来て草木が生ずる状態を表しているとされます。

卯(ボウ) う 兎 2月 6時 東 木 陰 「卯」は「茂」(ぼう:しげる)または「冒」(ぼう:おおう)で、草木が地面を蔽うようになった状態を表しているとされます。

辰(シン) たつ 竜 3月 8時 南東微北 土 陽 「辰」は「振」(しん:「ふるう」「ととのう」の意味)で、草木の形が整った状態を表しているとされます。

巳(シ) み 蛇 4月 10時 南東微南 火 陰 「巳」は「已」(い:「止む」の意味)で、草木の成長が極限に達した状態を表しているとされます。

午(ゴ) うま 馬 5月 12時 南 火 陽 「午」は「忤」(ご:「つきあたる」「さからう」)で、草木の成長が極限を過ぎ、衰えの兆しを見せ始めた状態を表しているとされます。

未(ビ) ひつじ 羊 6月 14時 南西微南 土 陰 「未」は「味」(み:「あじ」の意味)で、果実が熟して滋味が生じた状態を表しているとされます。

申(シン) さる 猿 7月 16時 南西微北 金 陽 「申」は「呻」(しん:「うめく」の意味)で、果実が成熟して固まって行く状態を表しているとされます。

酉(ユウ) とり 鶏 8月 18時 西 金 陰 「酉」は「{糸酉}」(しゅう:「ちぢむ」の意味)で、果実が成熟の極限に達した状態を表しているとされます。

戌(ジュツ) いぬ 犬 9月 20時 北西微南 土 陽 「戌」は「滅」(めつ:「ほろぶ」の意味)で、草木が枯れる状態を表しているとされます。

亥(ガイ) い 猪 10月 22時 北西微北 水 陰 「亥」は「{門<亥}」(がい:「とざす」の意味)で、草木の生命力が種の中に閉じ込められた状態を表しているとされます。




十干と読み 五行による表記 それぞれの字義
甲(コウ) 木の兄(きのえ) 甲(よろい)。万物が種の甲を破って出ること。
乙(オツ) 木の弟(きのと) 軋(あつ)と韻が通じる。万物が軋々(物が集まり生じるさま)と伸び出ること。
丙(ヘイ) 火の兄(ひのえ) 炳(へい)。万物が生じて炳然(あきらかに)とあらわれること。
丁(テイ) 火の弟(ひのと) 万物が丁壮(さかん)になること。
戊(ボ) 土の兄(つちのえ) 茂(も)と同じ。万物がさかんに茂ること。
己(キ) 土の弟(つちのと) 起(き)。屈していたものが起こること。
庚(コウ) 金の兄(かのえ) 更(こう)。万物が更まること。
辛(シン) 金の弟(かのと) 新(しん)。あらたになること。
壬(ジン) 水の兄(みずのと) 新(しん)。あらたになること。
癸(キ) 水の弟(みずのと) 揆(き)。万物が揆然(のりを持つさま)として萌え出ること。

旧国名対照表

旧国名  読み  現在の県名

ア行
 安芸  あき  広島
 安房  あわ  千葉
 阿波  あわ  徳島
 淡路  あわじ  兵庫
 伊賀  いが  三重
 壱岐  いき  長崎
 伊豆  いず  静岡・東京
 和泉  いずみ  大阪
 出雲  いずも  島根
 伊勢  いせ  三重
 因幡  いなば  鳥取
 伊予  いよ  愛媛
 磐城  いわき  福島・宮城
 岩代  いわしろ  福島
 石見  いわみ  島根
 羽後  うご  秋田・山形
 羽前  うぜん  山形
 蝦夷  えぞ  北海道
 越後  えちご  新潟
 越前  えちぜん  福井
 越中  えっちゅう  富山
 近江  おうみ  滋賀
 大隅  おおすみ  鹿児島
 隠岐  おき  島根
 尾張  おわり  愛知
カ行
 甲斐  かい  山梨
 加賀  かが  石川
 上総  かずさ  千葉
 河内  かわち  大阪
 紀伊  きい  和歌山・三重
 上野  こうずけ  群馬
サ行
 相模  さがみ  神奈川
 薩摩  さつま  鹿児島
 佐渡  さど  新潟
 讃岐  さぬき  香川
 信濃  しなの  長野
 志摩  しま  三重
 下総  しもうさ  千葉・茨城
 下野  しもつけ  栃木
 周防  すおう  山口
 駿河  するが  静岡
 摂津  せっつ  大阪・兵庫
タ行
 但馬  たじま  兵庫
 丹後  たんご  京都
 丹波  たんば  京都・兵庫
 筑後  ちくご  福岡
 筑前  ちくぜん  福岡
 対馬  つしま  長崎
 遠江  とおとうみ  静岡
 土佐  とさ  高知
ナ行
 長門  ながと  山口
 能登  のと  石川
ハ行
 播磨  はりま  兵庫
 肥後  ひご  熊本
 肥前  ひぜん  佐賀・長崎
 備前  びぜん  岡山
 飛騨  ひだ  岐阜
 常陸  ひたち  茨城
 備中  びっちゅう  岡山
 日向  ひゅうが  宮崎
 備後  びんご  広島
 豊前  ぶぜん  福岡・大分
 豊後  ぶんご  大分
 伯耆  ほうき  鳥取
マ〜ワ行
 三河  みかわ  愛知
 美濃  みの  岐阜
 美作  みまさか  岡山
 武蔵  むさし  東京・埼玉・神奈川
 陸奥  むつ  青森・岩手
 山城  やましろ  京都
 大和  やまと  奈良
 陸前  りくぜん  宮城・岩手
 陸中  りくちゅう  岩手・秋田
 琉球  りゅうきゅう  沖縄
 若狭  わかさ  福井

名古屋城の歴史

那古野城(なごやじょう)は、戦国時代に尾張国愛知郡那古野(現愛知県名古屋市中区)にあった城。今川氏親(今川義元の父)築城。織田信長生誕の城として有名である。
16世紀前半に30年ほど存続した後に廃城となるが、旧城地は廃城から半世紀ほど後に再び城に取り立てられ、名古屋城になった。

那古野は、元々駿河の今川氏が一時尾張守護を兼ねていた時期に庶流の那古野氏が領有し、斯波氏が尾張を領有した後もこの地に留まっていた。大永年間(1521年 - 1528年)に今川氏親が尾張進出の拠点として、現在の名古屋市中心部が広がる熱田台地(名古屋台地)の西北端に築城した「柳の丸」を起源とする。今川氏の時代、この城の城主は氏親の一族で一説には那古野氏の家督を継いだともいわれている今川氏豊という人物であったと伝えられている。

1532年、勝幡城(稲沢市)の織田信秀は今川氏豊を滅ぼしてこの城を奪い、拠点を置いた。那古野城という城名はこのとき付けられたとも言われる。

1534年生まれの信秀の嫡男、織田信長は、那古野城で生まれた可能性が高いとされている。信秀は那古野城を幼い信長に譲り、自身は同じ台地の東南方を固めるために現在の東本願寺名古屋別院(名古屋市中区)の地に古渡城を築いてそこに移った。

1555年、信秀の後を継いでいた織田信長は、一族の織田信友を滅ぼして清須城(清須市)に移った。信長が離れた後の那古野城は信長の重臣林秀貞らが一時入ったが、やがて廃城となった。

50年後の1609年、徳川家康がこの城の故地に目をつけ、名古屋城の築城に着手する直前には、鷹狩に使われるような荒れ野になっていたと伝えられている。

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黒田如水の略歴

★永正八年(1511年)

曾祖父、高政は近江の守護職だった
佐々木氏について、岡山で戦ったが
軍令違反が有ったかどで、将軍足利義稙の怒りに触れる、

近江国を逐われ流浪の末、
備前国邑久郡福岡郷(岡山県邑久郡)に落ち着く
この地に黒田氏の一族が住んでいたからだ

★大永三年(1523年)

高政は黒田家伝承の目薬(玲珠膏)を販売して
細々、生計を立てていた中
時運に恵まれる事無く、世を去る

高政亡き後、祖父重隆も家伝薬で
どうにか暮らしをたてていたが
豪族、浦上則宗の侵入で
福岡郷を逐われ、播磨の姫路へのがれる

ここで館野(竜野)の、赤松晴政に仕えるも、
晴政に失望し牢人(浪人)となる

しかし、土地の大百姓、竹森新右衛門や
広宗(広峰)大明神の神主、井口太夫の知遇により
目薬(玲珠膏)が大いに売れ
金貸し業を経て豪族への道を歩んでいく

★天文十二年(1543年)

重隆は、嫡男甚四郎(後の職隆)19才に、家臣団を与え
豪族、香山重道を襲わせ首尾良く首を取る
当時、香山氏と敵対していた御着城主、
小寺政職の許へ出向き、
甚四郎は客将として迎えられる

★天文十四年(1545年)

甚四郎は明石城主、明石正風の娘を娶り家老となり
黒田甚四郎を小寺職隆と改め
姫路城の守将と成る

黒田氏は職隆によって、ようやく一城の主と成る

高政が近江を逐われてから、32年後の事である


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★天文十五年(1546年)

11月29日 姫路城で如水(官兵衛)[幼名を万吉]が生まれる

『黒田如水(官兵衛)の治世学はどこで身に付けたか』

姫路城の内曲輪には、百間長屋が有った
父職隆が設けて、職隆はそこに寄宿する旅人、行商人、博労、
牛方、鋳物師、等を使って武具の皮革製品売買
軍馬の元締めとなった。
万吉は、そうした住人達と親しく接する事で
人並みすぐれた治世学を、学んでいった

★永禄四年(1561年)

万吉16才、
御着城主、小寺政職の近習と成る

★永禄五年(1562年)

この年、父職隆に従い近在の土豪を討伐
17才の初陣で官兵衛と称し、名を万吉から孝高(小寺孝高)と改める

★永禄十年(1567年)

22才で政職の姪で有る播磨志方城主、櫛橋氏の娘を正室に迎え
家督を継いで姫路城主と成り、小寺氏の家老に任じられる

★永禄十一年(1568年)

12月 長男松寿丸(後の長政)誕生

★永禄十二年(1569年)

如水(官兵衛)が戦国武将としての名を近隣に、知らしめた年と成る

以前、祖父重隆も仕えた事の有る
播州館野城の赤松氏は、政秀の代に成っていたが
その赤松政秀が三千余の軍を率いて
姫路城に攻め入って来た

対する如水(官兵衛)の兵力三百足らず
それにも関わらず、籠城する事無く
果敢に城を出て戦い、赤松勢を撃退してしまう

これ以後、如水(官兵衛)は小寺氏の家老として頭角を表わす様に成る

★天正三年(1575年)

織田氏と毛利氏の、二大勢力の狭間に有る小寺氏決断の年

御着城に如水(官兵衛)をはじめ重臣達が招集され
織田氏に味方すべきか、毛利氏に従うべきか?

如水(官兵衛)以外の重臣達は、当然のごとく
毛利氏に従うべきと進言
しかし如水(官兵衛)は、毛利氏の保守性に比べ
信長の雄大な気性を、幾つか例を上げて
褒めちぎった、
そんな如水(官兵衛)に、他の重臣達は
反論出来なかったと言う。

織田氏に味方する事と成り、如水(官兵衛)自身が
羽柴秀吉の周旋で、信長に対面する

★天正五年(1577年)

10月 中国征伐のため、播磨に下って来た秀吉を迎え
姫路城を提供する

11月 秀吉に従い佐用・上月両城を攻略

★天正六年(1578年)

この年は、如水(官兵衛)にとって苦々しい年と成る

荒木村重が、石山本願寺の誘いに乗り背いた上に
如水(官兵衛)の主人小寺政職も荒木村重の
誘いに乗り毛利方と成っていた

11月 如水(官兵衛)は、翻意を促すために
単身、御着城の小寺政職
そして荒木村重の許へ出向くが
村重に捕らえられ、有岡城の牢に幽閉されてしまう

★天正七年(1579年)

10月 有岡城陥落、幽閉されていた如水(官兵衛)は
栗山善助に救い出されるも
陽も射さない暗い牢内で、悶々の日を過ごした如水(官兵衛)は
両膝は曲がり、立つ事も出来なかったと言う

これ以後、歩行困難となった如水(官兵衛)は
秀吉の授けた、陣輿に乗っての行動と成る

如水(官兵衛)の才知を必要とする秀吉は、
隠居を許さなかったのだ

★天正八年(1580年)

1月 三木城陥落させる

9月 如水(官兵衛)は一万石を賜り、大名となる
それに伴い山崎城に移る

★天正九年(1581年)

7月 秀吉の命により阿波・淡路を経略

★天正十年(1582年)

4月 秀吉に従い、備中遠征
高松城を水攻めにする

5月 本能寺の変(信長自刃)

如水(官兵衛)は、
かの有名な、中国大返しの時の殿軍(シンガリ)を努める

この年、一万石加増される

★天正十一年(1583年)

4月 秀吉は、信長亡き後我こそ後継者と、自負する
柴田勝家を、越前北ノ庄に追い詰め自決させる

秀吉はこの勝利により、
天下人としての道を、着実に歩みはじめる

如水(官兵衛)は、このとき
小寺政職から許されていた小寺の姓を捨て
黒田姓に復す、ときに39歳

★天正十二年(1584年)

如水(官兵衛)は、秀吉の命で毛利氏との
領国境界の交渉にあたり成功する

毛利氏も秀吉の傘下になったも同然と成る


如水(官兵衛)のこれまでの働きは
当然一国の恩賞に値するものであったが
与えられたものは、
一万石の加増(三万石の大名に成る)にすぎなかった

秀吉は、あまりに頭の切れすぎる如水(官兵衛)に恐れをいだき
手強い敵とすら思っていた
その事を知っていた如水(官兵衛)は
冷遇に甘んじていた

★天正十三年(1585年)

四国征伐において、如水(官兵衛)は軍監として参加し、
知才を発揮した如水(官兵衛)の作戦は
大成功に終わる

この戦での恩賞も、他の重臣には充分与えながら
如水(官兵衛)には、なんらの恩賞もなかった
そのかわりに秀吉は、九州平定後に一国を与えると告げる

この夏、如水(官兵衛)の父職隆が
世を去った。62歳

★天正十五年(1587年)

(九州平定)
この年、秀吉の北軍10万、弟秀長の南軍15万
如水(官兵衛)は軍監として、南軍に配される
このとき、如水(官兵衛)の長男長政も
如水(官兵衛)に従っていた

島津軍の抵抗に悩まされ
士気の落ちていた南軍は、長政の働きで
士気を取り戻し
さしもの島津軍も秀吉の軍門に降った

秀吉は如水(官兵衛)に対して、九州平定後
一国を与える事を約束していながら、
如水(官兵衛)に与えたのは、
豊前の内六郡で、12万3000石にすぎなかった

佐々成政の50万石
小早川隆景の70万石に比べ
勲功一番とみなされる如水(官兵衛)の
論功行賞は、あまりににも少なすぎた

秀吉はやはり、如水(官兵衛)に天下取りの
野望を見ていたのだろうか。

家康も秀吉同様に、如水(官兵衛)を警戒して
心を許そうとしなかったと言う。

★天正十七年(1589年)

『秀吉が伽衆(オトギシュウ)に問い掛けたと伝わる話』

「わしが死んだ後、天下を取る者は誰か」の問いに
徳川、前田、上杉、毛利といった名が、
それぞれの口から出たが
秀吉は笑って別の名を上げたと言う
「みんな違う、おそらく黒田官兵衛孝高であろう」


5月 如水(官兵衛)は、この話を、親しい僧侶から聞かされ
いよいよ隠居を決意したと言う。

このとき家督を長政(21歳)に譲り、
黒田官兵衛孝高を黒田如水軒と改める
如水(官兵衛)このとき44歳
しかし秀吉は、如水(官兵衛)の隠居を許さなかった、
秀吉は、まだまだ如水(官兵衛)の知才を必要としていた


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★★ 如水(官兵衛)の波瀾の生涯はまだまだ続く ★★

★文禄元年(1592年)

4月(文禄の役)始まる

★文禄二年(1593年)

7月 如水(官兵衛)は、剃髪し如水円清と号する

★慶長三年(1598年)

8月 秀吉、伏見城にて世を去る

★慶長六年(1601年)

この年、博多の西方の福崎の地を
黒田氏発展の地・備前福岡
(現・岡山県邑久郡長船町福岡)に因んで福岡と改称

★慶長八年(1603年)

11月 如水は、湯治のため有馬温泉へ赴き、越年する

★慶長九年(1604年)

3月 黒田如水、伏見の藩邸にて世を去る。享年59歳


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