戦国の魂〜〜本格的な戦国歴史研究室

人間五十年 化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬ者の有るべきか

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兵糧

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芋がら縄(いもがらなわ)とは鎌倉から戦国時代末期にかけて兵士にもたせ従軍させた携帯食。
芋がら縄とは芋(里芋)の茎を帯のように長く編み、味噌で煮しめたもの。芋がらも味噌も食べられるものだからこれだけで立派な携帯食となる。そこで当時の武将(大名)達は兵士にこれをもたせ(あるいは腰に巻かせて)戦場におくりだした。兵士はこれを必要に応じ、ちぎって鍋にいれる。そして水をたっぷり入れ、下から火で加熱する。すると、染み込んでいた味噌がとけ出し、ついでに芋がらもやわらかくなり味噌汁が完成する。ちなみに、鍋は逆さまに吊るした陣笠であったという。


みそ玉


干豆


干飯

黒胡麻

煮干

焼きおにぎり

竹筒入りの水

梅干水渇丸

兵糧丸
主に戦国時代に使われていた携帯保存食である。
主に晒米(水で晒した白米)や蕎麦粉といった穀物の粉末と鰹節や朝鮮人参、梅干、松の甘皮などの粉末を数種類混ぜ、蜂蜜や甘草でこねて小さい球状にしてあり、カロリーの摂取に重きが置かれている。軍用レーションの原型と見ることも出来る。
また、これの亜種として水渇丸があり、喉の渇きを抑えるために使われた。

虎哉 宗乙

虎哉 宗乙(こさい そういつ、享禄3年(1530年) − 慶長16年(1611年))は美濃出身の臨済宗妙心寺派の僧。

快川紹喜に師事した後、伊達輝宗より招聘を受け、嫡男伊達政宗の学問の師となると共に、米沢・資福寺の住職となった。

政宗とは終生、師弟の関係にあったとされる。

米沢市の西方、上杉鷹山の籍田の碑跡の向こう、西明寺の近くに覚範寺跡がある。
覚範寺は、横死してしまった父輝宗の菩提を弔うために政宗が建てた寺である。開山は虎哉宗乙。この方、山梨の長禅寺開山となった岐秀元伯の弟子であり、恵林寺住職となった快川紹喜の弟子でもある。政宗の師であり、終生政宗を導いた。非常に元気な人で「80歳にして再び歯を生ず」の詩を作ったらしい。

芦名氏一門

蘆名(あしな)氏は、桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族で、蘆名(現在横須賀市芦名)の地名に由来する。芦名氏、葦名氏と表記される事もある。 相模蘆名氏と会津蘆名氏の二つの系統が存在する。

相模蘆名氏

三浦義継の三男・為清が蘆名姓を名乗ったことに始まる。孫の石田為久は木曾義仲を討ち取り、褒章として近江国石田村を与えられ、一族は同地に移住した。その後、下毛野流石田氏と婚姻を重ねて京極氏の被官となり、戦国時代には石田三成を輩出した。


会津蘆名氏

三浦義明の七男・佐原義連を初代とするが、蘆名姓を名乗るのは、義連の孫に当たる光盛の代になってからである(異説あり)。 室町時代には京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称していた。

戦国時代に英主・蘆名盛氏が現われ最盛期を迎えた。これにより、奥州で伊達氏と並び称される奥州を代表する有力大名にまでのし上がったのである。

しかし、蘆名氏は一族猪苗代氏をはじめとする家臣の統制に苦慮し、さらに盛氏の晩年には後継者問題も発生した。そのため1580年、盛氏の死とともに蘆名氏は次第に衰え始める。

盛氏の死後、二階堂氏からの人質の二階堂盛義の子が婿養子として後を継いだ。蘆名盛隆である。周辺諸氏と友好を保ち伊達氏に対抗したり、織田信長に使者を送るなど積極的な政策を打ち出すが、家中の統制には苦慮している。1584年に小姓の大場三左衛門に暗殺され、その後を継いだ盛隆の遺児亀若丸(亀王丸)も1586年に3歳で夭逝。そして家臣団が揉めに揉めた末、佐竹義重の子・蘆名義広を蘆名家当主に迎えた。盛氏の死から10年を経ずして3人もの当主が入れ替わったことは、蘆名氏の衰微を象徴するものであった。

1589年、奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原の戦いで大敗した蘆名義広は常陸に逃走し、ここに蘆名氏は没落する。実家の佐竹氏に戻った義広は名を「蘆名盛重」と改めて、常陸江戸崎城主となる(江戸崎藩)が、関ヶ原の戦いの際には、旗幟を鮮明にしなかった実兄・佐竹義宣と行動を共にしたために改易、次いで佐竹家臣として出羽角館城に1万6000石を与えられたものの、盛重の死後、息子が相次いで病死、最後の当主蘆名千鶴丸も3歳で事故死したために家系は断絶して蘆名氏は名実ともに滅亡した。

なお、蘆名家の一門であった針生氏は蘆名家滅亡後に伊達氏に仕え、この系統は延宝4年(1676年)に仙台藩主・伊達綱村の命により蘆名に改姓した。

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  詮盛
  ┃
  盛政
  ┣━━━┓
 盛久   盛信
      ┃
      盛詮
      ┃
      盛高   
  ┏━━━┻━━━┓
  盛舜      盛滋 
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  盛氏     針生盛幸  
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  盛興      盛秋 
  │       ┃
  盛隆      盛信
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  亀王丸     盛直
  │       ┃
  義広      重信
  ┣━━━┓   ┃ 
  盛泰  盛俊   ┃
      ┃    ┃
      千鶴丸  ┃
           ┃
     蘆名盛 ←┛
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      盛信
      ┃
      盛連
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      盛壽
      ┃
      盛倫    
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      盛壽
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      盛長
      ┃
      盛景
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      盛徳
      ┃
      盛達
      ┃
      盛親     

奥羽の群雄

 奥羽の戦国模様を眺めると、群雄割拠今を盛りの観を呈していた。
 まず、米沢の北方には羽州探題の最上氏が山形城に拠り、現宮城県の北部には鎌倉時代以来の名門葛西氏と奥州探題の大崎氏が、東西に分かれてひかえていた。最上氏は正宗の母義姫の生家で、当主の義光は正宗の伯父に当たる。本来ならば縁戚親しい間柄のはずであるが、両家の境界線は絶えず緊張感をはらみ、うわべだけの静謐を保っているに過ぎなかった。
 一方、南方に目を転ずると、現福島県の浜通りには小高に相馬氏、平に岩城氏、会津には芦名氏が居を構えていた。いずれも鎌倉時代からの歴史を有する大名である。
 特に芦名氏は十六世紀盛氏の時、近隣に領土を拡大し、南は越後・家柄ともに奥羽の覇権を賭けて争うことになる。
 これら浜通りと会津に挟まれた細長い仙道地方(中通り)には」、田村・畠山・石川・二階堂・白川といった中小の諸氏が肩を寄せ合うように割拠していた。
 彼らは周りを囲む有力大名の力関係を巧みに窺いながら、生存の方策を探っていた。そして、これら南方の諸大名の背後に、反伊達軍の総帥の如く、常陸の佐竹氏がひかえていたのである。

秀吉の生涯の合戦

1566 墨俣の戦い 斉藤龍興
1568 箕作の戦い 六角承禎・建部秀明
1569 生野城の戦い 山名祐豊
1569 阿坂城の戦い 大宮入道含忍斉

1570 天筒山城・金ヶ崎の戦い 朝倉景恒
1570 金ヶ崎撤退 朝倉義景・浅井長政・六角承禎
1570 姉川の戦い 浅井長政・朝倉景恒
1570 志賀の陣 朝倉義景・浅井長政
1570 御牧城の戦い 三好三人衆
1571 箕浦の戦い 浅井長政
1571 比叡山焼き討ち 延暦寺僧徒
1572 横山城の戦い 浅井七郎・赤尾新兵衛
1572 虎御前山砦の戦い 朝倉義景・浅井長政
1573 槙嶋城の戦い 足利義昭
1573 小谷城の戦い 浅井長政
1575 長篠の戦い 武田勝頼
1575 越前一向一揆攻撃 越前一向一揆
1576 石山本願寺の戦い 一向宗徒
1577 雑賀攻め 鈴木孫一
1577 無断帰陣事件 上杉謙信
1577 信貴山城の戦い 松永久秀

1577 岩州城の戦い 不詳
1577 竹田城の戦い 太田垣朝延
1577 福原城の戦い 福原助就
1577 上月城の戦い(1) 赤松政範・宇喜多広維
1578 上月城の戦い(2) 小早川隆景・吉川元春・宇喜多直家
1578 三木城の戦い 別所長治
1578 野口城の戦い 長井政重
1578 神吉城の戦い 神吉頼定
1578 志方城の戦い 櫛橋伊定
1578 高砂城の戦い 梶原景行
1579 平井山の戦い 別所長治・別所吉親
1579 淡河城の戦い 淡河定範
1579 平田砦の戦い 生石中務少輔
1580 鷹の尾砦の戦い 別所彦進
1580 英賀城の戦い 三木通秋・英賀一向一揆
1580 長水山城の戦い 宇野政頼・宇野祐清
1580 祝山城の戦い 福田盛雅
1581 鳥取城の戦い 吉川経家
1581 湊川口の戦い 鹿足元忠
1581 馬山の戦い 吉川元春
1581 岩屋城の戦い 安宅清康・淡路十人衆
1582 日幡城の戦い 日幡景親
1582 冠山城の戦い 林重真
1582 庭瀬城の戦い 井上有景
1582 加茂城の戦い 桂広繁
1582 高松城の戦い 清水宗春

1582 山崎の戦い 明智光秀
1582 坂本城の戦い 明智秀満
1582 石動山の戦い 温井景隆
1582 清洲会議 柴田勝家 他
1582 長浜城の戦い 柴田勝豊
1583 北伊勢の戦い 滝川一益・滝川儀太夫・佐治新介
1583 賤ヶ岳の戦い 柴田勝家・佐久間盛政
1583 北庄城の戦い 柴田勝家
1584 松ヶ島城の戦い 滝川雄利
1584 岸和田の戦い 雑賀衆・根来衆
1584 小牧・長久手の戦い 徳川家康・織田信雄
1584 加賀野井城の戦い 加賀野井重宗
1584 末森城の戦い 佐々成政
1585 紀州・雑賀追討戦 根来衆・雑賀衆・太田党

1585 丸山城の戦い 黒田広隆
1585 喜岡城の戦い 高松頼巴
1585 植田城の戦い 長宗我部親武
1585 木津城の戦い 東条関兵衛
1585 牛岐城の戦い 香宗我部親秦
1585 金子城の戦い 金子元春
1585 一宮城の戦い 江村親俊・谷忠澄
1585 脇城の戦い 長宗我部親吉
1585 岩倉城の戦い 長宗我部掃部頭
1585 高尾城の戦い 金子元宅
1585 高峠城の戦い 石川虎竹丸
1585 仏殿城の戦い 不詳
1585 湯築城の戦い 河野通直
1585 黒瀬城の戦い 西園寺公広
1585 佐々成政征伐 佐々成政
1585 飛騨平定 三木自綱

1586 勝尾城の戦い 島津忠長・伊集院忠棟
1586 立花城の戦い 島津忠長・伊集院忠棟
1586 高鳥居城の戦い 星野鎮胤・星野鎮元
1586 栂牟礼城の戦い 島津家久
1586 香春岳城の戦い 高橋元種
1586 戸次川の戦い 島津家久
1586 丹生島城の戦い 島津家久
1586 府内城の戦い 島津義弘
1586 梓越の戦い 島津義弘・島津家久
1586 岩石城の戦い 秋月種実
1587 高城の戦い 島津義弘・島津家久 ・島津義久

1590 松井田城の戦い 大道寺政繁
1590 韮山城の戦い 北条氏規
1590 山中城の戦い 松田康長
1590 鷹巣城・足柄城の戦い 未詳
1590 小田原城包囲 北条氏直
1590 西牧城の戦い 多米長定・大谷嘉信
1590 国峯城の戦い 小幡信氏
1590 厩橋城の戦い 北条方の在城衆
1590 玉縄城の戦い 北条氏勝
1590 江戸城の戦い 川村秀重
1590 下田城の戦い 清水康英
1590 箕輪城の戦い 塀和信濃守
1590 石倉城の戦い 倉賀野秀景
1590 佐倉城の戦い 原胤成
1590 松山城の戦い 難破田憲次・木呂子丹波守
1590 岩規城の戦い 北条氏房
1590 鉢形城の戦い 北条氏邦
1590 八王子城の戦い 北条氏照の兵
1590 小田原開城 北条氏直
1590 忍城の戦い 成田氏直の兵

1590 佐沼城の戦い 葛西晴信
1590 名生城の戦い 葛西・大崎一揆
1590 高清水城の戦い 高泉隆景
1591 宮崎城の戦い 笠原民部
1591 九戸城の戦い 九戸政実


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