戦国の魂〜〜本格的な戦国歴史研究室

人間五十年 化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬ者の有るべきか

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虎哉 宗乙

虎哉 宗乙(こさい そういつ、享禄3年(1530年) − 慶長16年(1611年))は美濃出身の臨済宗妙心寺派の僧。

快川紹喜に師事した後、伊達輝宗より招聘を受け、嫡男伊達政宗の学問の師となると共に、米沢・資福寺の住職となった。

政宗とは終生、師弟の関係にあったとされる。

米沢市の西方、上杉鷹山の籍田の碑跡の向こう、西明寺の近くに覚範寺跡がある。
覚範寺は、横死してしまった父輝宗の菩提を弔うために政宗が建てた寺である。開山は虎哉宗乙。この方、山梨の長禅寺開山となった岐秀元伯の弟子であり、恵林寺住職となった快川紹喜の弟子でもある。政宗の師であり、終生政宗を導いた。非常に元気な人で「80歳にして再び歯を生ず」の詩を作ったらしい。

芦名氏一門

蘆名(あしな)氏は、桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族で、蘆名(現在横須賀市芦名)の地名に由来する。芦名氏、葦名氏と表記される事もある。 相模蘆名氏と会津蘆名氏の二つの系統が存在する。

相模蘆名氏

三浦義継の三男・為清が蘆名姓を名乗ったことに始まる。孫の石田為久は木曾義仲を討ち取り、褒章として近江国石田村を与えられ、一族は同地に移住した。その後、下毛野流石田氏と婚姻を重ねて京極氏の被官となり、戦国時代には石田三成を輩出した。


会津蘆名氏

三浦義明の七男・佐原義連を初代とするが、蘆名姓を名乗るのは、義連の孫に当たる光盛の代になってからである(異説あり)。 室町時代には京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称していた。

戦国時代に英主・蘆名盛氏が現われ最盛期を迎えた。これにより、奥州で伊達氏と並び称される奥州を代表する有力大名にまでのし上がったのである。

しかし、蘆名氏は一族猪苗代氏をはじめとする家臣の統制に苦慮し、さらに盛氏の晩年には後継者問題も発生した。そのため1580年、盛氏の死とともに蘆名氏は次第に衰え始める。

盛氏の死後、二階堂氏からの人質の二階堂盛義の子が婿養子として後を継いだ。蘆名盛隆である。周辺諸氏と友好を保ち伊達氏に対抗したり、織田信長に使者を送るなど積極的な政策を打ち出すが、家中の統制には苦慮している。1584年に小姓の大場三左衛門に暗殺され、その後を継いだ盛隆の遺児亀若丸(亀王丸)も1586年に3歳で夭逝。そして家臣団が揉めに揉めた末、佐竹義重の子・蘆名義広を蘆名家当主に迎えた。盛氏の死から10年を経ずして3人もの当主が入れ替わったことは、蘆名氏の衰微を象徴するものであった。

1589年、奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原の戦いで大敗した蘆名義広は常陸に逃走し、ここに蘆名氏は没落する。実家の佐竹氏に戻った義広は名を「蘆名盛重」と改めて、常陸江戸崎城主となる(江戸崎藩)が、関ヶ原の戦いの際には、旗幟を鮮明にしなかった実兄・佐竹義宣と行動を共にしたために改易、次いで佐竹家臣として出羽角館城に1万6000石を与えられたものの、盛重の死後、息子が相次いで病死、最後の当主蘆名千鶴丸も3歳で事故死したために家系は断絶して蘆名氏は名実ともに滅亡した。

なお、蘆名家の一門であった針生氏は蘆名家滅亡後に伊達氏に仕え、この系統は延宝4年(1676年)に仙台藩主・伊達綱村の命により蘆名に改姓した。

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  詮盛
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  盛政
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 盛久   盛信
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      盛詮
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      盛高   
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  盛舜      盛滋 
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  盛氏     針生盛幸  
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  盛興      盛秋 
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  盛隆      盛信
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  亀王丸     盛直
  │       ┃
  義広      重信
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  盛泰  盛俊   ┃
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      千鶴丸  ┃
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     蘆名盛 ←┛
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      盛信
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      盛連
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      盛壽
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      盛倫    
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      盛壽
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      盛長
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      盛景
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      盛徳
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      盛達
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      盛親     

奥羽の群雄

 奥羽の戦国模様を眺めると、群雄割拠今を盛りの観を呈していた。
 まず、米沢の北方には羽州探題の最上氏が山形城に拠り、現宮城県の北部には鎌倉時代以来の名門葛西氏と奥州探題の大崎氏が、東西に分かれてひかえていた。最上氏は正宗の母義姫の生家で、当主の義光は正宗の伯父に当たる。本来ならば縁戚親しい間柄のはずであるが、両家の境界線は絶えず緊張感をはらみ、うわべだけの静謐を保っているに過ぎなかった。
 一方、南方に目を転ずると、現福島県の浜通りには小高に相馬氏、平に岩城氏、会津には芦名氏が居を構えていた。いずれも鎌倉時代からの歴史を有する大名である。
 特に芦名氏は十六世紀盛氏の時、近隣に領土を拡大し、南は越後・家柄ともに奥羽の覇権を賭けて争うことになる。
 これら浜通りと会津に挟まれた細長い仙道地方(中通り)には」、田村・畠山・石川・二階堂・白川といった中小の諸氏が肩を寄せ合うように割拠していた。
 彼らは周りを囲む有力大名の力関係を巧みに窺いながら、生存の方策を探っていた。そして、これら南方の諸大名の背後に、反伊達軍の総帥の如く、常陸の佐竹氏がひかえていたのである。

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