戦国の魂〜〜本格的な戦国歴史研究室

人間五十年 化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬ者の有るべきか

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信長家臣名

直臣
 槍 衆   伊藤清蔵 城戸小左衛門 堀田左内 
 弓 衆   浅野又左衛門 平井久右衛門 中野一安 
 馬廻衆  布施藤九郎 中条将監 朝日孫八郎 魚住隼人
      日祢野弘就 重之兄弟
 母衣衆  河尻秀隆 佐々成政 毛利良勝 生駒勝介 
      水野帯刀 津田左馬尤 蜂屋般若介 中川重政 
      中島主水正 松岡九郎次郎 織田越前守 前田利家 
      飯尾信宗 福富貞次 原田直政 黒田次右衛門 
      毛利長秀 野々村正成 猪子一時 浅井新八 
      岩室長門守 加藤弥三郎 山口飛騨守 佐脇藤八 
 近 衆  滝川右衛門 針阿弥
 小 姓  長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 加藤弥三郎
      万見重元 森蘭丸  湯浅甚助
 右 筆  武井夕庵 太田牛一 松井友閑 楠長庵

一族一門衆
 信長の叔父   織田信光 織田信実 織田信次
 信長の兄弟   織田信行 織田信包 織田信輿 織田秀孝
         織田信治  織田長益(有楽) 織田長利
         織田信広 織田信時
 信長の子   織田信忠 織田信雄 織田信孝 織田勝長
 その他一族一門   織田信平 [(飯尾)定宗 信宗] 織田勝左衛門
          (津田)信澄  織田長頼 織田信辰

尾張譜代衆
 林通勝 平手政秀 村井定勝 森可成 佐々成政 柴田勝家 
 佐久間信盛 池田恆輿 池田輝政 丹羽長秀 滝川一益 
 古田織部 松井友閑

美濃衆
 明智光秀 堀秀政 竹中重治 不破光治 金森長近
 [稲葉一鉄 氏家ト全 安藤守就(美濃三人衆)]

近江衆
 [磯野員昌 宮部継潤 阿閉定往(浅井氏旧臣)]
 [蒲生賢秀 山崎片家(六角氏旧臣)]
 [山岡景隆 猪飼野甚介(その他)]

摂津衆
 三好康長 三好政勝 池田藤正 荒木村重 中川清秀 
 高山右近 

山城衆 和泉衆
 細川藤孝 細川忠輿
 細川昭元  [今井宗久 津田宗及 
 千宗易(利休)(堺商人)]

越前衆 若狭衆 大和衆
 朝倉景鏡 
 前波吉継   辺見昌径 
 栗屋勝久   松永久秀 
 筒井順慶 

伊勢衆 播磨衆
 北畠具教 九鬼嘉隆   黒田孝高 別所重宗 

信長家臣団機構

連枝衆

「連枝」というのは一族のこと。つまり信長からすると兄妹・息子・叔父・甥・従兄弟
などが該当する。近親であっても、部将と同様に扱われて大きな仕事を任されるこ
ともある。
「連枝衆」というのは、あくまでも信長の親族と言った分類であり、職掌によるもので
はない。従って部将・馬廻などと厳密に区別することはできない。北畠信雄は信
長の次男であり「連枝衆」なのだが、南伊勢の支配者として軍制の中では「部将」
の役割を果たすことになる。
また、信長の三男の信孝は四国討伐の司令官に任命されてもいる。このような独
立した大軍団の司令官であれば、もはや「連枝衆」として扱うわけにはいかない。
つまり、このような大身の者を除いてたいていの連枝衆は、まとまって信長本陣に
詰めるか、嫡男の信忠など大身の連枝の指揮下で働くことになる。だが、戦の先
鋒を務めるとか、最前線に置かれるとか戦いの中で大活躍したという例はほとんど
見られない。


部将

部将は旗本に比べては大身であり、一部隊を率いたり、一城の守備を任されたり
するほどの軍事力を持ったものである。信長の尾張一国時代からの部将は、元来
尾張・美濃の在地領主の家系で、力関係により織田弾正家に従うようになったもの
が多い。
部将はいわば軍全体の中核をなす存在で、彼らの戦力如何で勝敗の帰趨が左
右されることとなる。ただ、部将と言っても大身・小身様々いることはいうまでもな
い。小身のものは率いる兵は数百程度、兵力の上では旗本の大身のものと大差
はない。旗本と違うところは、本陣に詰めることはせず、独立した軍を動かすという
ところである。
信長の版図が広がってゆき、部将の領地や支配地が大きくなると、一人の武将の
率いる兵力も増えてゆく。信長の尾張一国時代には最有力部将にしてもその動
かせる兵力はぜいぜい7〜8百程度であったが、信長の晩年になると、方面指令
軍の部将は2万以上の兵を指揮している。


与力

「与力」も部将に入れられる。だが、身上が小さいため、独立した部隊を編成した
りできず、有力武将の軍に属してその指揮下で働くものたちが「与力」である。つ
まり、彼らは有力部将には所属しているが、信長の直接の家臣であり、部将とは
主従関係を結んではいない。柴田勝家の北陸方面軍の属した前田利家や佐々
成政、明智光秀に属した細川藤孝、筒井順慶、羽柴秀吉に属した竹中半兵衛ら
もそういった「与力」であった。
「与力」といっても身上の大きさに差があることはいうまでもない。そして、その付属
している有力部将との従属度にも大きな差がある。従属度の強い形は、中世を通
じて見られる寄親−寄子関係の系統を引いているもので、与力といいながらも従
来の寄子と変わらない従属性を残しているというケースである。この形では寄子の
所領経営に関しても、寄親が指揮権を振るうなど、寄親が大きな統制力を持って
いる。


旗本

「旗本」は一騎駆けの武士が多いが、なかには百から二百ほどの小部隊の指揮
官を務めているものもいる。
旗本は馬廻と小姓に分かれる。「弓衆」「槍衆」「鉄砲衆」など、使用武器で隊を
分けて呼ぶ場合もあるが、広い意味でいえば彼らも馬廻りに組み入れられる。小
姓は、平時は信長の身辺の世話をすることが主な仕事だから、馬廻以上に信長
と密接に結ばれているといえる。馬廻は小姓よりも上であるという認識がありがちだ
が、必ずしもそうでなく、小姓であっても身上の大きいものがいるし、馬廻に属して
いても普通の小姓より小身のものもいる。信長の家臣の場合、尾張在地領主の長
男が馬廻として仕え、次男以上が小姓になるケースが見られる。
永禄年間に信長は、馬廻衆と小姓衆の中から「戦功の衆」を20人選抜し、10人
ずつ二組に分けて「黒母衣衆」「赤母衣衆」という職掌を作った。彼らの役割は陣
中を走り回って命令を伝える使番の仕事のようだが、そうした役割よりも一種の名
誉職つぉいて選ばれた様子である。前田利家、佐々成政なども当初はこの赤母
衣、黒母衣の名誉あるメンバーだったのだ。


吏僚

戦闘を離れたところでの一般政務に携わる家臣たちの存在は、戦国時代では無
視されがちだが、彼らの存在なくして戦国大名の領国経営は成り立たない。当時
このような言い方は無いが「吏僚」としてまとめておきたい。
彼らの仕事は安堵・宛がい業務、各種の税の賦課、農民・町人への命令の伝達
などであった。信長は京都の政治も行ったし、広範囲の地域を占領していったか
ら、吏僚の仕事も並大抵ではなかったはずだ。
吏僚の主たる職種としては「奉行衆」と呼ばれるものたち。彼らがこうした行政の
専門家である。そのほか、信長の手紙をしたためる役の右筆、身の回りの世話を
する同朋衆も、時には奉行職と同じように行政に携わり、副状を出したり、奏者を
務めたりする。
なお、行政の仕事は場合によっては馬廻衆や小姓衆が行うこともあれば、部将が
手を染めることもある。だが、彼らの専門はあくまでも軍事面なので、明智光秀や
羽柴秀吉のような練達の行政家がいたとしても、吏僚とは扱わない。あくまでも軍
事から離れて活躍するものたちだけを「吏僚」として分類する。

快川紹喜

快川 紹喜(かいせん じょうき、生年不詳 - 天正10年4月3日(1582年4月25日))は、安土桃山時代の臨済宗の僧。俗姓は土岐氏で、美濃国の出身。諱は紹喜。字は快川。

妙心寺の仁岫宗寿の法を継いだ。美濃国の寺院を経て妙心寺の43世に就任し、美濃国の崇福寺から甲斐国に移った。武田信玄に迎えられて塩山恵林寺に入寺し、信玄に機山の号を授けている。織田信長の甲州攻めにより武田氏が滅亡して領内が混乱すると、中世において寺院は聖域であるとする社会的観念があったため信長に敵対した六角義弼らを恵林寺にかくまい、織田信忠の引渡し要求を拒否したことから焼討ちにあい、一山の僧とともに焼死を遂げた。このとき残した「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世で知られる。(杜荀鶴の原典は「…火も自ずから涼し」)

また、快川紹喜は明智光秀と同じく美濃国の土岐氏出身であり、同族であったと見られている。このため、本能寺の変において光秀が信長・信忠父子を討ち取った事件に、彼の死が影響したとする見方もある。

「滝のぼる 鯉の心は 張り弓の 緩めば落つる 元の川瀬に」という言葉でも知られる。

弟子には伊達政宗の教育の師として有名な虎哉宗乙がいる。

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