戦国の魂〜〜本格的な戦国歴史研究室

人間五十年 化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬ者の有るべきか

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長谷川等伯(部分)

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長谷川等伯 (天文8年(1539)ー慶弔15年(1610))
はせがわとうはく

本能寺の変

1582年6月21日(天正10年6月2日)、武田氏を滅亡させ、天下統一を目前にした織田信長が、支那の毛利征伐に出る前に京都の本能寺に滞在していたところを家臣の明智光秀に襲われ自刃して果てるという事件。

天正10年3月(旧暦、以下同)、織田信長は武田氏を滅亡させた。5月15日、信長は長年対武田方面で共に戦ってきた徳川家康と元武田重臣で織田に降っていた穴山信君(梅雪)を安土城で接待していたが、この日備中で毛利軍と対峙していた羽柴秀吉から急報が届けられた。秀吉は軍師・黒田勘兵衛の献策により、清水宗治の守る備中高松城を水攻めしていたが、これに驚いた毛利輝元が毛利軍主力を高松に向かわせたのである。この報を受けた信長は武田氏の次の主攻勢を毛利氏にかけることにし、自ら支那に向かうことを決め、家康、信君の接待・饗応役をやらせていた明智光秀を先陣として派遣することを決めた。

5月17日、接待の役目を終えた光秀は居城・坂本城に戻り、支那出陣の準備に取りかかった。26日、丹波亀山城に入る。翌27日、愛宕山の愛宕大権現へ参拝し、参籠をしている。この時、光秀は御神籤を1度ならず、2度、3度と引いており、この時、信長に対する謀反を断行すべきかどうか迷っていたと言われている。28日には愛宕大権現五坊の一つ、威徳院西坊で出陣連歌が行なわれた。この俗に「愛宕連歌」と後世で言われることになる連歌会で光秀が詠んだ発句には謀反の決意が滲んでいるとされる。

一方、光秀がそのようなことを考えていることなど露にも知らない信長は5月29日、わずかの近臣を連れて安土を発って京都の本能寺へと入った。『当代記』によるとこの時従えていた兵はわずか150人だという。6月1日、信長は本能寺の書院で茶会を催している。この茶会は、博多の豪商島井宗室を正客とし、信長秘蔵の名物茶器を披露するのが目的だったので、わざわざ安土からたくさんの名物茶器を運ばせている。運び込まれた茶器は九十九茄子、珠光小茄子、紹鴎白天目、小玉澗の絵、蕪なしの花入、宮王釜など、三十八種にも及んでいた。茶会のあと酒宴となり、信長の長子・織田信忠が宿所である妙覚寺に戻ったのは四ツ半(11時)になっていた。信長は、さらに寂光寺の日海(後の本因坊算砂)と鹿塩利玄との囲碁の対局を観た後、1時過ぎに床に就いた。この碁は不吉な三劫であったとされる。

6月1日、光秀は申の刻(午後4時〜5時ごろ)、突然物頭クラスを召集し、信長が明智の陣容・軍装を検分したいの書状が森蘭丸から届いたと説明して、準備ができ次第出発するので直に準備に取りかかるよう命じた。1万3千の軍勢は準備が出来たものから順次亀山城より出陣を開始した。午後8時〜9時頃、亀山の東の条野のあたりで軍勢を整えると、光秀は篠八幡宮で明智秀満、斉藤利三、溝尾庄兵衛、藤田行政、明智光忠ら重臣に謀反を打ち明けたと言われている。午後10時〜11時頃、老ノ坂の峠を越え、12時頃沓掛に到着した。沓掛は京都への道と西国への道との分岐点である。よってここから先は光秀の独行になるので、信長にこの光秀軍の動きを通報する者がいないかの監視のために、安田国継に先遣隊を組織させている。6月2日午前2時頃、桂川畔に到着。ここで光秀は馬の沓をはずし、鉄砲に火を入れ、新しいわらじ・足半に替えさせている。これは臨戦態勢に入ることを意味し、閲兵式にしてはおかしいと兵の中に動揺があったためか、光秀もこれ以上は隠し通せないと判断し、桂川を全軍が渡河し終わったところで、信長への謀反を告げた。この台詞が「敵は本能寺にあり」である。

光秀の軍勢が本能寺の包囲を完了したのは午前4時である。一般には夜中に襲撃が行なわれたように描かれているが、実際には夜が白みかけてくる頃であった。これは夜戦だと味方の犠牲も多く、なにより信長を打ち損じる可能性がある一方、夜が明けきると襲撃が露呈してしまうことを恐れての光秀の緻密な計算によるものとされている。『本城惣右衛門自筆覚書』によると「人数の中より馬乗り二人いで申し候、誰ぞと存じ候へば斎藤内蔵介(助)殿子息、小姓共に二人本能寺の方へ乗り被申候(中略)それ二人は北の方へ越し申し候。我等は南の堀きわへ東向きに参り候(中略)三宅弥平次様、幌の衆二人北の方より入り(申し候)」とあり、斎藤内蔵介(利三)が南、三宅弥平次(明智秀満)と斎藤利三の子が北から本能寺の突入したとみられる。

『兼見卿記』や『言経卿記』によると本能寺で死んだ信長側の人間は7、80人らしいので、信長が安土城より引き連れてきた兵の数を見てもこの時本能寺には100人前後しか居なかったと見られる。光秀軍が襲撃を開始したとき、信長は熟睡していたが騒ぎで目を覚ましたという。ただし、フロイスの『イエズス会日本年報』によると顔を洗っていたところだという。信長ははじめこの騒ぎは家臣たちの喧嘩によるものと考えていたが、やがて鬨の声があがり、鉄砲を撃つ音が聞こえたため、誰かの襲撃であることを悟ったという。森蘭丸の「明智日向守殿謀反!」の声に対し、信長がどう反応したかは「是非もなし」と「なぜ」の二説あり、前者の場合どういう意味であったのか諸説がある。この時、光秀の兵が信長を発見。その背中に矢を放った。信長はこの矢を抜いて、薙刀をとってしばらく戦っていたが、いかんせんあまりもの多勢に無勢に押され、腕に銃創を受けて部屋に入り戸を閉じてしまう。このあと本能寺は火に包まれてしまい、信長がこののちどうなったのかは、ようとして知れない。

一方、この頃信忠のもとには京都所司・村井貞勝から本能寺が光秀に襲われているとの急報が入っていた。信忠の居た妙覚寺は本能寺から北北東に1km ほどの距離であったので、信忠は500の手勢を率いて直ぐ様本能寺へと向かったが、圧倒的多数の光秀の兵に遮られたため、これを断念せざるをえず、信忠は二条御所へと入った。光秀の軍勢が本能寺の囲みを解いたのは午前8時頃とされている。光秀軍は囲みを解くと直ぐ様二条御所の襲撃に取りかかった。このとき二条御所には誠仁親王がいたので信忠は光秀に親王の救出を要請し、光秀もこれを了承。誠仁親王は午前10時頃二条御所を出ている。それから本格的な戦闘となり、結局二条御所も落ち、信忠は自刃した。またこの戦いで光秀の従弟の明智光忠が負傷している。

こうして光秀の謀反は一応成功した。信長残党の探索が一段落した後、光秀は勝竜寺城に京都の押さえとして家老の溝尾庄兵衛を残し、自らは軍勢のほとんどを引き連れて安土城へと向かった。信長の家臣たちと信長と敵対していた諸大名に協力を要請するためには安土城を抑える必要があったのである。しかし、安土城に入るには避けて通れない瀬田橋を守将・山岡景隆が落としてしまったため、それより先に進むことが出来ず、結局、光秀はひとまず自分の居城である坂本城へと入った。瀬田橋の復旧を待って安土城に入城を果たしたのは、3日も経った6月5日であった。光秀のケチのつけはじめである。一方、秀吉が支那大返しを開始するのはその翌日6日のことであった。

大阪夏の陣

1615(元和元)年、大坂城を徳川家康が攻めた戦い。

前年の冬の陣の後、講和(和睦)していた両軍であったが、徳川氏側が講和条件の「城の外郭を壊す」を拡大解釈し、二の丸・三の丸までも強引に破壊したため、大坂城は丸裸にされてしまった。これに豊臣氏は激怒し、豊臣軍内部は挙兵を主張する大野治房、長宗我部盛親、毛利勝永ら、戦争回避を説く大野治長、後藤基次、どちらにもつかない中間派を形成した真田信繁(幸村)ら三派に分かれたが、結局傭兵追放を要求する徳川氏への反発を強めた傭兵たちが決戦を主張したため、挙兵した。それに対し徳川軍は16万人の兵力を動員し、1615年5月25日(慶長20年4月28日)、遂に戦闘が開始された。

この戦いは城を頼みに出来ない豊臣軍の傭兵部隊長の真田信繁(幸村)、後藤基次(又兵衛)らが全軍で突撃し、徳川軍がそれを迎撃したため、両軍の部隊長の戦死が相次ぐ死闘となり、死者は2万名と推定されている。徳川軍本陣まで真田隊は肉薄、家康は本陣を捨てて逃走し、ようやく助かる程だった。しかし、結局多勢に無勢で信繁らは戦死し、秀頼は自殺。大坂城は爆発炎上した。

この戦いでは非戦闘員の町民が戦闘に巻き込まれ、多くの被害を出し、淀川は死体で埋まり、大坂・堺の街は炎上した。この逃げまどう民衆を描いた絵(大坂夏の陣図屏風)が現在も残り、当時の悲惨な状況を伝えている。

長篠の戦い

織田信長が武田勝頼率いる武田騎馬軍団を三段に組んだ鉄砲隊の攻撃によって壊滅させ、新兵器鉄砲の威力及び信長の威勢(それと同時に武田の衰勢)を世に知らしめたとされる戦い。

1575(天正3)年、偉大なる父、武田晴信(信玄)ですら落とせなかった高天神城を落としたことで、勢いに乗った武田勝頼は続いて1573(天正元)年に武田方から徳川方になっていた長篠城の攻略を企図した。武田軍が長篠城攻めを開始したのは5月11日で、いち早くその動きをつかんだ徳川家康は織田信長に援軍を要請した。ここで通史では信長は武田軍を一挙に屠るために喜んで援軍に応じたかのようになっているが、実際のところ信長は石山本願寺をはじめとする畿内の戦いに忙しく、それどころではなかった。それでも信長が援軍を出したのは、後方を武田に脅かされてはおちおちと畿内での戦いに集中できないことと、自分達(徳川)は姉川の戦いの時に織田に援軍を差し向けたにも関わらず、織田は高天神城の戦いのときに援軍を出してくれなかったという不満が徳川内で高まっており、今回も援軍を出さなければ、一挙に亀裂が広がる可能性があったからである。信長は大軍を差し向けると同時に、自身は岡崎城に急行して家康と合流し、5月15日、対武田戦の軍評定を行なった。

5月18日、織田軍三万、徳川軍八千が長篠に到着した。一方武田軍は『甲陽軍鑑』での表記に従うと一万五千となる。この数字が実話だとすると両軍合わせて五万を超えることになってしまうが、戦場となった長篠城西方の設楽ヶ原(しだらがはら)にはこれだけの軍勢が動き回れるだけの空間はなく、現在では織田・徳川側が二万弱、武田側が六千程度であったと推測される。

長篠に到着した織田・徳川軍は信長が極楽寺に、家康は高松山に本陣を置き、同日夜から連吾(子)川(れんごがわ)に沿って柵や空堀などを構築させはじめた。一方、織田・徳川軍の到着を知った武田軍も19日に軍評定を開き、19日夜から20日にかけて長篠城攻めには一部だけを残し、少数を後方警戒のため鳶ヶ巣山(とびがすやま)砦に配すると残りの主兵力を連吾川を挟んで織田・徳川軍と対峙する清井田(きよいだ)付近に進出させた。

信長は家康の部将である酒井忠次に金森長近隷下の鉄砲隊五百を含む四千でもって武田の鳶ヶ巣山砦への攻撃を命ずる。この攻撃によって武田軍の背後を脅かすと共に自軍の背後を取られないためのものであった。翌21日早朝、両軍の布陣が完了し、戦いの舞台は調った。

21日午前六時、武田軍左翼の山県昌景率いる一隊が自軍の正面に布陣する徳川軍右翼の大久保忠世隊に対して攻撃を開始したのが引き金となって戦いが始まる。通説では織田・徳川軍が構築した馬防柵に苦慮する武田軍に対して織田軍の鉄砲隊三千が三段になり、切れ目無く一斉射撃することで武田軍を壊滅させたとなっているが、これは全くの出鱈目で、そもそもまず信長隷下の鉄砲隊は直属軍ではなく、配下の諸将からかき集めた寄せ集めの部隊で、しかも鳶ヶ巣山砦攻めに五百も派遣してしまったので、主戦場には千挺程度しか無かった。そしてその鉄砲隊が武田軍を壊滅に追い込むためには戦線の端から端まで鉄砲隊は布陣せねばならないが、織田軍の担当した戦線は約1kmであり、そこに三段に配置するということは配置間隔は3m以上にもなってしまいスカスカである。更に三重に配置させたとの説もあるがそんなことしたら配置間隔は10mにも及ぶ一方、二列目、三列目の隊は一列目の隊と柵に邪魔されて射撃そのものがろくにできない。また三段射撃のためにはあうんの呼吸が必要であるが寄せ集めの鉄砲隊には無論そんなことは不可能である。次に武田軍は全軍がまとめて突撃を繰り返したわけではなく、何隊かごとが戦線の各所でばらばらに攻撃しており、鉄砲隊が一斉射撃したとすれば目の前に敵兵が居ない時に射撃するという無駄弾を打つことも多かったはずだが、鉄砲隊を寄せ集めなければならなかった織田軍に火薬弾薬類の備蓄がそんなにも豊富だったはずが無い。ただ三人一組になって代わり番こに打つとか、一人が射手に他の者が弾込めに分業することなら出来たはずだが、そういう記録は無いし、これを行なったとしてもそれは信長の発案ではなく、雑賀衆ははるか以前から行なっていることであり、畿内で彼らと戦っていた信長がそれを知らないはずが無い。そもそも武田軍が騎馬に頼り、鉄砲をロクに知らなかったというのも全くの出鱈目で、武田家では領地が海に面していなかったにも関わらず日本に火縄銃がもたらされた頃から積極的に取り入れ、長篠の戦いにおいても長篠城攻めで武田軍が相当量の鉄砲隊を投入し、結果長篠城の戸板は撃ち抜かれて障子のようになっていたと家康自身が語っている事でも分かる。

では何故武田軍は敗北したのかと言えば、堀や空堀まで備えた「さながら城攻め」(『甲陽軍鑑』)を守備側の1/3の兵力で行なったことである。陣地攻撃には相手の三倍の兵力を用意すべしと言うのは戦いの鉄則だが、逆に1/3の兵力で攻めては負けるのは当然である。馬場信房を初めとする部将が避戦を叫んだのもこのためであったが、先の高天神城の戦いでの勝利に酔いしげっていた勝頼にとってはかえってその劣勢の中での勝利こそ勇名を挙げる好機と写ってしまったのである。

なお、この戦いで武田軍が失った兵力は千程度であり、部将も鉄砲により戦死した事が明確なのは山県昌景、望月信雅、土屋昌次、高坂昌澄であるが、山県、望月の両名は敵陣突破に失敗し引き上げ中に撃たれたもの、土屋昌次ははなから信玄に殉じるつもりで戦いに臨んでおり、一種の自殺、高坂昌澄は長篠城攻撃において城兵に狙撃されたものであり、言われているような死に方をした者は皆無である。戦いが終わったのは午後2時(一説に午前10時)であるが、戦いが始まってから8時間も経過しており、通説のように鉄砲のつるべ打ちで戦いの趨勢が決したのならば、こんなにも時間はかからなかったはずである。

この戦いで、上に挙げた鉄砲によって戦死した者以外にも真田信綱、昌輝、馬場信房、内藤昌豊などこの時生き残っていた武田二十四将の主だった人間を失ってしまっている。信玄が勝頼を後継者にするときに強引な手法をとったことにより、家臣の中に一致団結していた家臣団瓦解の種が芽生えていた。これが、実際に勝頼が当主となると、勝頼は偉大なる父並みの武勇を挙げようと焦り、家臣がその戦い方の危なっかしさをとがめるのを無視したため、大きくなっていた(長篠の戦いでも、上述のように織田・家康軍の陣地を見て、筆頭家老の馬場信房が避戦論を唱えたのを勝頼は無視した)。鉄砲による狙撃を考慮に入れても兵士の損失に対する将の損失が大きいのは敗戦の中、信玄の古き良き時代を懐かしく思いながら、生への執着を捨てたからだと思われる。戦後、敗戦からと今までその種を押さえつけていた重臣が高坂昌信を除いて戦死してしまい、残った昌信もその負担から来るストレスで3年後に没すると、もはや重石は無くなり、裏切り者が続出することになり、これが武田家滅亡を決定付けたのである。従って武田家が長篠の戦いで負けたのも滅亡したのも鉄砲のためではない。

なお、このような誤った話が広まってしまったのは、江戸期の俗書である小瀬甫庵(おぜほあん)の『信長記(しんちょうき)』が言い出した話に遠山信春の『織田軍記(総見記)』が追従し、町民の間にこの説が広まり、更に近代における歴史観の基本となった参謀本部編の『日本戦史』の中の『長篠役』でこの説を取り上げてしまったからである。

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