戦国の魂〜〜本格的な戦国歴史研究室

人間五十年 化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬ者の有るべきか

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曲直瀬 道三(まなせ どうさん、永正4年9月18日(1507年10月23日) - 文禄3年1月4日(1594年2月23日))

父は近江佐々木氏庶流の堀部親真。幼少の頃、両親を失う。永正13年(1516年)、五山文学の中心である京都相国寺に入って喝食となり、詩文や書を学ぶ。この頃、姓を曲直瀬とする。享禄元年(1528年)、関東へ下って足利学校に学ぶ。ここで医学に興味を抱いたと言われる。名医として知られた田代三喜斎と出会い、入門して李朱医学(当時明からもたらされた最新の漢方医学)を修める。天文15年(1546年)ふたたび京都へ上ると、還俗して医業に専念。将軍足利義藤(義輝)を診察し、その後京都政界を左右した細川晴元・三好長慶・松永久秀などの武将にも診療を行い、名声を得て、京都に啓迪院(けいてきいん)と称する医学校を創建した。

永禄9年(1566年)、出雲月山富田城の尼子義久を攻めていた毛利元就が在陣中に病を得た際に、これを診療し、『雲陣夜話』を記す。天正2年(1574年)には『啓迪集』を著し、同年に正親町天皇に拝謁を許され、診療を行い、同書を献上した。正親町天皇は僧策彦周良に命じて序文を作らせている。この際に翠竹院の号を賜る。織田信長が上洛後は、信長の診察も行い、名香蘭奢待を下賜された。

著書は『啓迪集』以外にも『薬性能毒』『百腹図説』『正心集』『弁証配剤医灯』など数多く、数百人の門人に医術を教え、名医として諸国にその名を知られた。天正12年(1584年)、豊後府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察したことがきっかけでキリスト教に入信し、洗礼を受ける(洗礼名はベルショール)。天正20年(1592年)には後陽成天皇から橘姓と今大路の家号を賜る。文禄3年(1594年)1月4日没した。死後、正二位法印を追贈された。子の玄朔が後を継ぎ、代々官医として続いた。




田代三喜(たしろさんき)1465〜1537(寛正六年〜天文六年)

 「我が邦名医多しといへども、像祀せらるるは、古来ただ鑑真と田代三喜あるのみ」(富士川游『日本医学史』)と記されているように、三喜は室町時代の末の頃、『局方』の学のみが行われていた時代に生まれ、初めて李朱医学を唱え、その学と術とを行い、関東一帯を風靡したのであった。実にわが国における李朱医学の開祖である。

 三喜は寛正六年(一四六五)武州(埼玉県)川越に生まれたとされるが、出生地は川越の北方約二○キロの越生という説もあり、現に埼玉県史跡指定になっている三喜生誕の地が越生にある。

 十五歳の時、医に志し、当時は僧侶でなければ医となれないので、妙心寺派に入って僧侶となった。
長享元年(一四八七)二十二歳の時、明に渡り、留学すること十有二年、李朱医学を学び、またその頃既に日本より明に留学して医を行っていた僧医月湖について修業している。
明応七年(一四九八)月湖の著書『全九集』や『済陰方』その他の医書を携えて帰国、一時鎌倉に居を定めていたが、後に下総(茨城県)の古河に移った。
これは古河公方の足利成氏が三喜の高名を聞いて招請したものである。
以後世間の人は「古河の三喜」と呼ぶようになった。
古河に居ること数年にして生地武州に帰り、ほとんど関東一円の間を往来して医療に従事し、済生の功績はきわめて多かった。
その間、六十七歳の時、名声を慕って、初代曲直瀬道三が三喜を訪れている。天文十三年(一五四四)八十歳(一説には七十三歳)で死去。
三喜には範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、玄淵、善道など多くの号がある。

 三喜の著書はまとまったものが少ないが、『三帰廻翁医書』(『三帰十巻書』)は三喜の代表的著書の集大成されたもので、三喜によって日本化された李朱医学の全貌を知る珍書であり、書誌学的にもきわめて貴重である。
三喜の医説の特徴は、すべての病因を風と湿との二邪に帰し、寒暑燥火も風湿の消長によって起こる現象であるとした。そして体内にあって病を受け入れるものは、血・気・痰であると解釈した。その中で特に血と気が重要であるとしている。




永田 徳本(ながた とくほん、1513年(永正10年) - 1630年3月27日(寛永7年2月14日))

戦国時代中期の1513年、三河で生まれたという(異説もある)。その後、出羽(鹿島ともいう)で修験道を学び、また田代三喜に就いて李朱医学(当時の明からもたらされた漢方医学)を修め、信濃・甲斐に移り住み、武田信虎・信玄の侍医となったと言われる。武田家滅亡後は、東海・関東諸国を巡り、貧しい人々に無料で薬を与えたり、安価で診療を行ったという。どんな治療を行っても報酬として16文(18文ともいう)以上の金額を受け取らなかったことから「十六文先生」とも称された。また、本草学にも通じ、甲斐における葡萄栽培法の改良も行ったとする伝説もある。また江戸時代に入ると、将軍徳川秀忠の病を治癒し、その際も報酬を受けずに立ち去ったと言われるなど、その人生は謎と伝説に包まれている。1630年に死亡。享年は118。当時としては驚異的な長寿であった。晩年は岡谷に居住したと伝えられ、同地に墓碑が存在する。著書に『梅花無尽蔵』、『徳本翁十九方』などがある。

なお、現在の日本の製薬会社「トクホン」の社名は、この永田徳本にちなんで命名されたものである。

本姓は「中島氏」。初代の四郎次郎清延は本能寺の変後、本国へ逃亡する途中の徳川家康一行を支援し、それがきっかけとなり徳川家御用達商人の一人となった。二代四郎次郎清忠は江戸幕府御用達商人となる一方、京都町人頭にも任命され権勢を誇る。三代四郎次郎清次は引き続き幕府御用達商人をつとめ、更に朱印船貿易での特権を獲得し、莫大な富を得る。その財産によって茶道具を蒐集するなど芸術のパトロンともなった。

この初代〜三代までが茶屋家の商人としての絶頂期であり、角倉了以の「角倉家」、後藤庄三郎の「後藤家」とともに「京の三長者」と言われた。しかし鎖国政策や時流の変化に乗り遅れ、江戸時代中期以降はふるわなかった。江戸時代初期の豪商に多い「特権商人」の典型とされる。

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黒田如水の略歴

★永正八年(1511年)

曾祖父、高政は近江の守護職だった
佐々木氏について、岡山で戦ったが
軍令違反が有ったかどで、将軍足利義稙の怒りに触れる、

近江国を逐われ流浪の末、
備前国邑久郡福岡郷(岡山県邑久郡)に落ち着く
この地に黒田氏の一族が住んでいたからだ

★大永三年(1523年)

高政は黒田家伝承の目薬(玲珠膏)を販売して
細々、生計を立てていた中
時運に恵まれる事無く、世を去る

高政亡き後、祖父重隆も家伝薬で
どうにか暮らしをたてていたが
豪族、浦上則宗の侵入で
福岡郷を逐われ、播磨の姫路へのがれる

ここで館野(竜野)の、赤松晴政に仕えるも、
晴政に失望し牢人(浪人)となる

しかし、土地の大百姓、竹森新右衛門や
広宗(広峰)大明神の神主、井口太夫の知遇により
目薬(玲珠膏)が大いに売れ
金貸し業を経て豪族への道を歩んでいく

★天文十二年(1543年)

重隆は、嫡男甚四郎(後の職隆)19才に、家臣団を与え
豪族、香山重道を襲わせ首尾良く首を取る
当時、香山氏と敵対していた御着城主、
小寺政職の許へ出向き、
甚四郎は客将として迎えられる

★天文十四年(1545年)

甚四郎は明石城主、明石正風の娘を娶り家老となり
黒田甚四郎を小寺職隆と改め
姫路城の守将と成る

黒田氏は職隆によって、ようやく一城の主と成る

高政が近江を逐われてから、32年後の事である


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★天文十五年(1546年)

11月29日 姫路城で如水(官兵衛)[幼名を万吉]が生まれる

『黒田如水(官兵衛)の治世学はどこで身に付けたか』

姫路城の内曲輪には、百間長屋が有った
父職隆が設けて、職隆はそこに寄宿する旅人、行商人、博労、
牛方、鋳物師、等を使って武具の皮革製品売買
軍馬の元締めとなった。
万吉は、そうした住人達と親しく接する事で
人並みすぐれた治世学を、学んでいった

★永禄四年(1561年)

万吉16才、
御着城主、小寺政職の近習と成る

★永禄五年(1562年)

この年、父職隆に従い近在の土豪を討伐
17才の初陣で官兵衛と称し、名を万吉から孝高(小寺孝高)と改める

★永禄十年(1567年)

22才で政職の姪で有る播磨志方城主、櫛橋氏の娘を正室に迎え
家督を継いで姫路城主と成り、小寺氏の家老に任じられる

★永禄十一年(1568年)

12月 長男松寿丸(後の長政)誕生

★永禄十二年(1569年)

如水(官兵衛)が戦国武将としての名を近隣に、知らしめた年と成る

以前、祖父重隆も仕えた事の有る
播州館野城の赤松氏は、政秀の代に成っていたが
その赤松政秀が三千余の軍を率いて
姫路城に攻め入って来た

対する如水(官兵衛)の兵力三百足らず
それにも関わらず、籠城する事無く
果敢に城を出て戦い、赤松勢を撃退してしまう

これ以後、如水(官兵衛)は小寺氏の家老として頭角を表わす様に成る

★天正三年(1575年)

織田氏と毛利氏の、二大勢力の狭間に有る小寺氏決断の年

御着城に如水(官兵衛)をはじめ重臣達が招集され
織田氏に味方すべきか、毛利氏に従うべきか?

如水(官兵衛)以外の重臣達は、当然のごとく
毛利氏に従うべきと進言
しかし如水(官兵衛)は、毛利氏の保守性に比べ
信長の雄大な気性を、幾つか例を上げて
褒めちぎった、
そんな如水(官兵衛)に、他の重臣達は
反論出来なかったと言う。

織田氏に味方する事と成り、如水(官兵衛)自身が
羽柴秀吉の周旋で、信長に対面する

★天正五年(1577年)

10月 中国征伐のため、播磨に下って来た秀吉を迎え
姫路城を提供する

11月 秀吉に従い佐用・上月両城を攻略

★天正六年(1578年)

この年は、如水(官兵衛)にとって苦々しい年と成る

荒木村重が、石山本願寺の誘いに乗り背いた上に
如水(官兵衛)の主人小寺政職も荒木村重の
誘いに乗り毛利方と成っていた

11月 如水(官兵衛)は、翻意を促すために
単身、御着城の小寺政職
そして荒木村重の許へ出向くが
村重に捕らえられ、有岡城の牢に幽閉されてしまう

★天正七年(1579年)

10月 有岡城陥落、幽閉されていた如水(官兵衛)は
栗山善助に救い出されるも
陽も射さない暗い牢内で、悶々の日を過ごした如水(官兵衛)は
両膝は曲がり、立つ事も出来なかったと言う

これ以後、歩行困難となった如水(官兵衛)は
秀吉の授けた、陣輿に乗っての行動と成る

如水(官兵衛)の才知を必要とする秀吉は、
隠居を許さなかったのだ

★天正八年(1580年)

1月 三木城陥落させる

9月 如水(官兵衛)は一万石を賜り、大名となる
それに伴い山崎城に移る

★天正九年(1581年)

7月 秀吉の命により阿波・淡路を経略

★天正十年(1582年)

4月 秀吉に従い、備中遠征
高松城を水攻めにする

5月 本能寺の変(信長自刃)

如水(官兵衛)は、
かの有名な、中国大返しの時の殿軍(シンガリ)を努める

この年、一万石加増される

★天正十一年(1583年)

4月 秀吉は、信長亡き後我こそ後継者と、自負する
柴田勝家を、越前北ノ庄に追い詰め自決させる

秀吉はこの勝利により、
天下人としての道を、着実に歩みはじめる

如水(官兵衛)は、このとき
小寺政職から許されていた小寺の姓を捨て
黒田姓に復す、ときに39歳

★天正十二年(1584年)

如水(官兵衛)は、秀吉の命で毛利氏との
領国境界の交渉にあたり成功する

毛利氏も秀吉の傘下になったも同然と成る


如水(官兵衛)のこれまでの働きは
当然一国の恩賞に値するものであったが
与えられたものは、
一万石の加増(三万石の大名に成る)にすぎなかった

秀吉は、あまりに頭の切れすぎる如水(官兵衛)に恐れをいだき
手強い敵とすら思っていた
その事を知っていた如水(官兵衛)は
冷遇に甘んじていた

★天正十三年(1585年)

四国征伐において、如水(官兵衛)は軍監として参加し、
知才を発揮した如水(官兵衛)の作戦は
大成功に終わる

この戦での恩賞も、他の重臣には充分与えながら
如水(官兵衛)には、なんらの恩賞もなかった
そのかわりに秀吉は、九州平定後に一国を与えると告げる

この夏、如水(官兵衛)の父職隆が
世を去った。62歳

★天正十五年(1587年)

(九州平定)
この年、秀吉の北軍10万、弟秀長の南軍15万
如水(官兵衛)は軍監として、南軍に配される
このとき、如水(官兵衛)の長男長政も
如水(官兵衛)に従っていた

島津軍の抵抗に悩まされ
士気の落ちていた南軍は、長政の働きで
士気を取り戻し
さしもの島津軍も秀吉の軍門に降った

秀吉は如水(官兵衛)に対して、九州平定後
一国を与える事を約束していながら、
如水(官兵衛)に与えたのは、
豊前の内六郡で、12万3000石にすぎなかった

佐々成政の50万石
小早川隆景の70万石に比べ
勲功一番とみなされる如水(官兵衛)の
論功行賞は、あまりににも少なすぎた

秀吉はやはり、如水(官兵衛)に天下取りの
野望を見ていたのだろうか。

家康も秀吉同様に、如水(官兵衛)を警戒して
心を許そうとしなかったと言う。

★天正十七年(1589年)

『秀吉が伽衆(オトギシュウ)に問い掛けたと伝わる話』

「わしが死んだ後、天下を取る者は誰か」の問いに
徳川、前田、上杉、毛利といった名が、
それぞれの口から出たが
秀吉は笑って別の名を上げたと言う
「みんな違う、おそらく黒田官兵衛孝高であろう」


5月 如水(官兵衛)は、この話を、親しい僧侶から聞かされ
いよいよ隠居を決意したと言う。

このとき家督を長政(21歳)に譲り、
黒田官兵衛孝高を黒田如水軒と改める
如水(官兵衛)このとき44歳
しかし秀吉は、如水(官兵衛)の隠居を許さなかった、
秀吉は、まだまだ如水(官兵衛)の知才を必要としていた


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★★ 如水(官兵衛)の波瀾の生涯はまだまだ続く ★★

★文禄元年(1592年)

4月(文禄の役)始まる

★文禄二年(1593年)

7月 如水(官兵衛)は、剃髪し如水円清と号する

★慶長三年(1598年)

8月 秀吉、伏見城にて世を去る

★慶長六年(1601年)

この年、博多の西方の福崎の地を
黒田氏発展の地・備前福岡
(現・岡山県邑久郡長船町福岡)に因んで福岡と改称

★慶長八年(1603年)

11月 如水は、湯治のため有馬温泉へ赴き、越年する

★慶長九年(1604年)

3月 黒田如水、伏見の藩邸にて世を去る。享年59歳

虎哉 宗乙

虎哉 宗乙(こさい そういつ、享禄3年(1530年) − 慶長16年(1611年))は美濃出身の臨済宗妙心寺派の僧。

快川紹喜に師事した後、伊達輝宗より招聘を受け、嫡男伊達政宗の学問の師となると共に、米沢・資福寺の住職となった。

政宗とは終生、師弟の関係にあったとされる。

米沢市の西方、上杉鷹山の籍田の碑跡の向こう、西明寺の近くに覚範寺跡がある。
覚範寺は、横死してしまった父輝宗の菩提を弔うために政宗が建てた寺である。開山は虎哉宗乙。この方、山梨の長禅寺開山となった岐秀元伯の弟子であり、恵林寺住職となった快川紹喜の弟子でもある。政宗の師であり、終生政宗を導いた。非常に元気な人で「80歳にして再び歯を生ず」の詩を作ったらしい。

芦名氏一門

蘆名(あしな)氏は、桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族で、蘆名(現在横須賀市芦名)の地名に由来する。芦名氏、葦名氏と表記される事もある。 相模蘆名氏と会津蘆名氏の二つの系統が存在する。

相模蘆名氏

三浦義継の三男・為清が蘆名姓を名乗ったことに始まる。孫の石田為久は木曾義仲を討ち取り、褒章として近江国石田村を与えられ、一族は同地に移住した。その後、下毛野流石田氏と婚姻を重ねて京極氏の被官となり、戦国時代には石田三成を輩出した。


会津蘆名氏

三浦義明の七男・佐原義連を初代とするが、蘆名姓を名乗るのは、義連の孫に当たる光盛の代になってからである(異説あり)。 室町時代には京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称していた。

戦国時代に英主・蘆名盛氏が現われ最盛期を迎えた。これにより、奥州で伊達氏と並び称される奥州を代表する有力大名にまでのし上がったのである。

しかし、蘆名氏は一族猪苗代氏をはじめとする家臣の統制に苦慮し、さらに盛氏の晩年には後継者問題も発生した。そのため1580年、盛氏の死とともに蘆名氏は次第に衰え始める。

盛氏の死後、二階堂氏からの人質の二階堂盛義の子が婿養子として後を継いだ。蘆名盛隆である。周辺諸氏と友好を保ち伊達氏に対抗したり、織田信長に使者を送るなど積極的な政策を打ち出すが、家中の統制には苦慮している。1584年に小姓の大場三左衛門に暗殺され、その後を継いだ盛隆の遺児亀若丸(亀王丸)も1586年に3歳で夭逝。そして家臣団が揉めに揉めた末、佐竹義重の子・蘆名義広を蘆名家当主に迎えた。盛氏の死から10年を経ずして3人もの当主が入れ替わったことは、蘆名氏の衰微を象徴するものであった。

1589年、奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原の戦いで大敗した蘆名義広は常陸に逃走し、ここに蘆名氏は没落する。実家の佐竹氏に戻った義広は名を「蘆名盛重」と改めて、常陸江戸崎城主となる(江戸崎藩)が、関ヶ原の戦いの際には、旗幟を鮮明にしなかった実兄・佐竹義宣と行動を共にしたために改易、次いで佐竹家臣として出羽角館城に1万6000石を与えられたものの、盛重の死後、息子が相次いで病死、最後の当主蘆名千鶴丸も3歳で事故死したために家系は断絶して蘆名氏は名実ともに滅亡した。

なお、蘆名家の一門であった針生氏は蘆名家滅亡後に伊達氏に仕え、この系統は延宝4年(1676年)に仙台藩主・伊達綱村の命により蘆名に改姓した。

  ┃
  詮盛
  ┃
  盛政
  ┣━━━┓
 盛久   盛信
      ┃
      盛詮
      ┃
      盛高   
  ┏━━━┻━━━┓
  盛舜      盛滋 
  ┃       ┃
  盛氏     針生盛幸  
  ┃       ┃
  盛興      盛秋 
  │       ┃
  盛隆      盛信
  ┃       ┃
  亀王丸     盛直
  │       ┃
  義広      重信
  ┣━━━┓   ┃ 
  盛泰  盛俊   ┃
      ┃    ┃
      千鶴丸  ┃
           ┃
     蘆名盛 ←┛
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      盛信
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      盛連
      ┃
      盛壽
      ┃
      盛倫    
      ┃
      盛壽
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      盛長
      ┃
      盛景
      ┃
      盛徳
      ┃
      盛達
      ┃
      盛親     

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