戦国の魂〜〜本格的な戦国歴史研究室

人間五十年 化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬ者の有るべきか

人物編

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 前のページ ]

前田利家について

イメージ 1

 利家は尾張国愛知郡荒子(名古屋市中川区)で二千貫の領地を有する前田利昌(利春)の四男で、幼名は孫四郎。織田信長に小姓として仕え、戦功を立てました。永禄12年(1569)兄利久に代わって前田家当主となり、天正3年(1575)越前府中3万石を与えられ、天正9年(1581)能登一国を領する大名となりました。
 信長が本能寺で倒れた後、豊臣秀吉に臣従して、加賀国の北半国を加増されて、金沢城を居城としました。
 豊臣家の宿老として筆頭格の地位にあり、秀吉を補佐。秀吉の愛息秀頼の後見を託されます。並立する徳川家康の野心を知りながらも、健康を害し、慶長4年(1599)閏3月3日大坂で亡くなりました(62歳)。
 前田氏は菅原道真の末裔とされ、他に藤原姓ともいわれますが、確かな姓は不明。
 豊臣期には、利家は秀吉から許された豊臣姓を名乗りました。慶長10年(1605)三代利常は徳川家から松平を称することを許されましたが、利常は松平(源姓なので)を避けて「文」の神である菅原道真の子孫にこだわったそうです。

快川紹喜

快川 紹喜(かいせん じょうき、生年不詳 - 天正10年4月3日(1582年4月25日))は、安土桃山時代の臨済宗の僧。俗姓は土岐氏で、美濃国の出身。諱は紹喜。字は快川。

妙心寺の仁岫宗寿の法を継いだ。美濃国の寺院を経て妙心寺の43世に就任し、美濃国の崇福寺から甲斐国に移った。武田信玄に迎えられて塩山恵林寺に入寺し、信玄に機山の号を授けている。織田信長の甲州攻めにより武田氏が滅亡して領内が混乱すると、中世において寺院は聖域であるとする社会的観念があったため信長に敵対した六角義弼らを恵林寺にかくまい、織田信忠の引渡し要求を拒否したことから焼討ちにあい、一山の僧とともに焼死を遂げた。このとき残した「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世で知られる。(杜荀鶴の原典は「…火も自ずから涼し」)

また、快川紹喜は明智光秀と同じく美濃国の土岐氏出身であり、同族であったと見られている。このため、本能寺の変において光秀が信長・信忠父子を討ち取った事件に、彼の死が影響したとする見方もある。

「滝のぼる 鯉の心は 張り弓の 緩めば落つる 元の川瀬に」という言葉でも知られる。

弟子には伊達政宗の教育の師として有名な虎哉宗乙がいる。

全2ページ

[1] [2]

[ 前のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事