戦国の魂〜〜本格的な戦国歴史研究室

人間五十年 化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり 一度生を受け滅せぬ者の有るべきか

雑学篇

[ リスト | 詳細 ]

細かい知識の集め
記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]

旧国名対照表

旧国名  読み  現在の県名

ア行
 安芸  あき  広島
 安房  あわ  千葉
 阿波  あわ  徳島
 淡路  あわじ  兵庫
 伊賀  いが  三重
 壱岐  いき  長崎
 伊豆  いず  静岡・東京
 和泉  いずみ  大阪
 出雲  いずも  島根
 伊勢  いせ  三重
 因幡  いなば  鳥取
 伊予  いよ  愛媛
 磐城  いわき  福島・宮城
 岩代  いわしろ  福島
 石見  いわみ  島根
 羽後  うご  秋田・山形
 羽前  うぜん  山形
 蝦夷  えぞ  北海道
 越後  えちご  新潟
 越前  えちぜん  福井
 越中  えっちゅう  富山
 近江  おうみ  滋賀
 大隅  おおすみ  鹿児島
 隠岐  おき  島根
 尾張  おわり  愛知
カ行
 甲斐  かい  山梨
 加賀  かが  石川
 上総  かずさ  千葉
 河内  かわち  大阪
 紀伊  きい  和歌山・三重
 上野  こうずけ  群馬
サ行
 相模  さがみ  神奈川
 薩摩  さつま  鹿児島
 佐渡  さど  新潟
 讃岐  さぬき  香川
 信濃  しなの  長野
 志摩  しま  三重
 下総  しもうさ  千葉・茨城
 下野  しもつけ  栃木
 周防  すおう  山口
 駿河  するが  静岡
 摂津  せっつ  大阪・兵庫
タ行
 但馬  たじま  兵庫
 丹後  たんご  京都
 丹波  たんば  京都・兵庫
 筑後  ちくご  福岡
 筑前  ちくぜん  福岡
 対馬  つしま  長崎
 遠江  とおとうみ  静岡
 土佐  とさ  高知
ナ行
 長門  ながと  山口
 能登  のと  石川
ハ行
 播磨  はりま  兵庫
 肥後  ひご  熊本
 肥前  ひぜん  佐賀・長崎
 備前  びぜん  岡山
 飛騨  ひだ  岐阜
 常陸  ひたち  茨城
 備中  びっちゅう  岡山
 日向  ひゅうが  宮崎
 備後  びんご  広島
 豊前  ぶぜん  福岡・大分
 豊後  ぶんご  大分
 伯耆  ほうき  鳥取
マ〜ワ行
 三河  みかわ  愛知
 美濃  みの  岐阜
 美作  みまさか  岡山
 武蔵  むさし  東京・埼玉・神奈川
 陸奥  むつ  青森・岩手
 山城  やましろ  京都
 大和  やまと  奈良
 陸前  りくぜん  宮城・岩手
 陸中  りくちゅう  岩手・秋田
 琉球  りゅうきゅう  沖縄
 若狭  わかさ  福井

兵糧

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

芋がら縄(いもがらなわ)とは鎌倉から戦国時代末期にかけて兵士にもたせ従軍させた携帯食。
芋がら縄とは芋(里芋)の茎を帯のように長く編み、味噌で煮しめたもの。芋がらも味噌も食べられるものだからこれだけで立派な携帯食となる。そこで当時の武将(大名)達は兵士にこれをもたせ(あるいは腰に巻かせて)戦場におくりだした。兵士はこれを必要に応じ、ちぎって鍋にいれる。そして水をたっぷり入れ、下から火で加熱する。すると、染み込んでいた味噌がとけ出し、ついでに芋がらもやわらかくなり味噌汁が完成する。ちなみに、鍋は逆さまに吊るした陣笠であったという。


みそ玉


干豆


干飯

黒胡麻

煮干

焼きおにぎり

竹筒入りの水

梅干水渇丸

兵糧丸
主に戦国時代に使われていた携帯保存食である。
主に晒米(水で晒した白米)や蕎麦粉といった穀物の粉末と鰹節や朝鮮人参、梅干、松の甘皮などの粉末を数種類混ぜ、蜂蜜や甘草でこねて小さい球状にしてあり、カロリーの摂取に重きが置かれている。軍用レーションの原型と見ることも出来る。
また、これの亜種として水渇丸があり、喉の渇きを抑えるために使われた。

戦国大名分類

戦国大名は出目・系譜によって分類される。
1)守護から戦国大名へ転化した今川氏親(駿河)・武田信玄(甲斐)・佐竹義重(常陸)
朝倉義景(越前)・大内義隆(周防)・大友宗麟(豊後)・島津貴久(薩摩)

2)守護代やその一族から戦国大名に転化した上杉謙信(越後)・織田信長(尾張)・浦上
宗景(備前)・陶晴賢(周防)・尼子経久(出雲)

3)国人から戦国大名に転化した伊達稙宗(陸奥)・結城政勝(下総)・徳川家康(三河)
・浅井長政(近江)・宇喜多秀家(備前)・毛利元就(安芸)・小早川隆景(安芸)・長宗
我部元親(土佐)・竜造寺隆信(肥前)・相良義陽(肥後)

4)出目不明の戦国大名北条早雲(伊豆・相模)・斎藤道三(美濃)

戦国時代、水軍の船

阿武船/安宅船(あたけぶね)
船首から船尾まで総矢倉として、厚い板で装甲された船。装甲には、矢や鉄砲を撃つための隙間がある。指揮官が乗った船。
安宅船は船首から船尾まで楯板で装甲しており、弓や鉄砲を撃つ為の狭間(銃眼)がもうけてあり、前後左右の死角がありません。また敵船に乗り移れるように楯板が外側に倒れ、船の橋渡しができる作りになっていて、船底は防水区画を設け船体の一部が破損しても浸水が他に及ばないようなどの工夫がされた船。
もちろん当時は人力で櫓で漕ぐようになっており、大型なものは百人櫓のものもあった。大筒を配置できるようにもなっており、攻撃力、防御力に優れ「海上の城」と称されている。
戦国時代になって「安宅船(あたけぶね)」が完成している。
小さいものでも五百石積級で、通常千石以上二千石積級の船をいう。櫓は船の大きさにより、50から160挺立で、ふたり漕ぎの大櫓であればその六割程度であった。船首は箱形で亀甲型の装甲を施し、なかに大筒を置いて正面から砲撃できるようにした。船首から船尾にかけては総矢倉とし、楯板で装甲した。
織田信長は、1573年(元亀4)琵琶湖畔で大安宅船を建造したが、『信長公記』によれば長さ三十間、幅七間、櫓百挺立であった。また、本願寺攻めのさい毛利水軍に惨敗したのにこりて、78年に九鬼嘉隆に命じて造らせた六艘の安宅船は史上名高い鉄甲船であった。この船を目撃した宣教師オルガンチノが驚嘆しているように、当時としてはまれに見る重装備の巨艦であった。さすがの毛利水軍も、大砲3門を備えたこの新鋭鑑にはまるで歯が立たずに完敗した。しかし、信長の後継者である秀吉や家康は水軍への理解がなく、安宅船のあと進歩がなかった。そのため文禄・慶長の役にさいして、水軍はふるわなかった。



関船(せきぶね)
早船ともいう。とがった船首とスマートな船体をした船。板などで装甲するのと同時に軽量化も図られていて、軽快な動きができる。
関船の由来は、中世の海賊衆が海上の要所に関所を設け、通行する船から通行税をとってた事からこの名がついた。
通行税を支払わない船舶を追うため早さを重視し、それが戦国時代に手頃な船だったので軍船として使用されたとの事。
通常40〜50挺(櫓)で漕ぎ、船の周りの楯板は、安宅船は装甲を厚くしているのに対し、関船は薄く設計されており、時には竹を使用するなどの軽量化がなされている。安宅船を戦艦とすれば、巡洋艦の役割をしており、機動力に優れている船。
安宅船よりずっと小型の関船は、ふつう小櫓40挺立以上の船で、鋭い船首と細長い船形をもち、スピードがあった。
室町時代ころに「関船」と呼ばれる快速船が現れている。



小早(こばや)
小型の早船(関船)のこと。ほとんど装甲していないので、関船よりさらに軽快な動きができる。
関船との違いは櫓数で、だいたい14〜30挺(櫓)で、船団では駆逐艦の役割をしている。
防御力は弱く、武士が乗り込み接近戦を主とし、海上を機動的に走り回る為のもの。
14挺から30挺の櫓を持つ快速船が小早である。関船よりも軽量であるため簡易装備となり、斥候用、連絡用に使用することが多かった。
全長 約11メートル


荷船
兵員や兵糧を運ぶ。


井楼船(せいろうせん)
関船や荷船などに楼をくみ高い位置から安宅船などを狙う。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事