京まちづくりの会

岐阜市の「京まちづくりの会」(京町自治会連合会)のブログです

全体表示

[ リスト ]

金津遊廓誕生秘話

 廃藩置県以後、明治6年(1873)県行政の中核となる県庁が、笠松から岐阜に移転設置されると、岐阜は県都として発展を期すことになります。岐阜町を中心とした市街地の拡充は次第に進み、岐阜町と隣接地域とは商業・交易等を通じて関連を深め、事実上一つの市街を形成するようになっていきました。

 明治20年(1887)頃には、岐阜市街地の拡充を図るための停車場の移転、街路整備を中心とした市区の改正、岐阜商工会の開設等の問題が論議されるようになり、そのなかでも市制区域形成の問題が強く意識されるようになりました。

 明治21年(1888)に市制・町村制が公布されると、市区改正に伴う岐阜市街区域の拡充は、市制施行のための条件整備として、その推進が叫ばれるようになります。こうした気運の中で、明治21年6月12日の岐阜新聞は、岐阜公園の開設に際し、「当地および加納町の有志者」より娼妓館設置出願計画のあることを伝え、こうした動きを積極的に推進すべきことを論じています。娼妓館設置の動きは他にもあり、その意図するところは、岐阜が県庁所在地として県下の中心都市としての資格を備えるためには、その規模を拡大し市区の改正を図るべき必要があるが、そのためには莫大な費用を要し、到底岐阜市民の負担に堪えるものでなく、そのために娼妓館を設置し、その収益をもってその経費に充当しようとするものでした。

 その設置場所は、論議の結果、大矢富次郎所有の上加納村字高岩とし、その出願は、岐阜・今泉・小熊・稲束・上加納五部落有志総代連名で行い、五部落有志協議のうえ、遊郭設置により生ずる利益金のうち、2万2000円を、五部落の道路開設及びその他公益の事業を目的として支出することを骨子とした「申合規約書」が約定され、その推進が図られることになります。

 こうして上加納地内での遊郭設置の許可は、明治21年8月16日、営業年限「向15ヶ年間」の条件のもとに下り、岐阜での遊郭設置が実現することとなりますが、その背景には、収益金(2万2000円)を市区改正公共事業へ充当することにより、市域発展を図らんとする地元の意図があったのです。

 明治20年代につくられた最初の幹線道路(美江寺町〜加納停車場 道幅八間)は、このような「お金」で完成したのでしょうね。この道路は八間道(ハチケンミチ)と呼ばれ、岐阜市域を南北に貫く大動脈として岐阜市発展の役割を担うことになります。因みに、この道路に市電が開通(今小町〜長住町)したのは、明治44年のことです。(「岐阜市史」による)

この記事に


.


みんなの更新記事