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1915年10月11日、あのファーブルが亡くなりました。92歳。昨日は没後
100年でした。親交のあったルグロが、その著書「ファーブルの生涯」の
中で葬儀のようすを次のように述べています。
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(南仏)アルマスの様々な花をとりまぜた花冠にとりまかれ、顔はその
まま覆われずにある。珍しいほどに澄みきった秋晴れの下、柩は山の
の近くオリーブ樹にとりまかれ、野の花と昆虫のささやきにみちた小さ
な墓場へとしめやかに運ばれていった。大きな穴が掘られた。弔辞が
10あまりもあった。その間にも何匹ものバッタやテントウムシが柩に
来てすがりついた。ふと見ると墓穴の口の白い石の上で、ウスバカマ
キリが「祈りのポーズ」を取っていた。こうして彼に愛された虫たちが、
藪の中や砂地の中からやって来て、まるで彼のあとを慕ってどこまで
もついていきたがっているようであった。 (一部を要約・改変)
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もちろん、虫たちの「意図」はまったく違って、荒地の中に突如出現した
「物体」が初秋の太陽に暖められて好都合だったのでしょう。それでも
南フランスの10月の情景が想像でき、ファーブルにとってはふさわしい
日和だったことは間違いないでしょう。ちょうど没後100年。それほど話
題にはなっていないようですが、「ファーブルに学ぶ」はどうなっている
のでしょうか? かつてこんな展覧会がありました。
各地のいくつかの博物館を巡回したようですから、足を運んだ方も
いたのではないでしょうか。 ファーブル自身が採集した多数の昆虫標本、自筆の原稿や著書
などが展示され興味深く見ました。また同時開催された講演会で
は、フランスの「昆虫事情」なども聞くことができました。
ファーブルはフランスでは、今は日本ほどは「有名人」ではない
というのは事実のようです。やはり虫に対する伝統的な接し方が
日本とは違うのでしょうか。「虫はいらないもの、見えないもの」で
クワガタなどは「悪魔」扱いされたこともあったようです。もちろん
皆がそう思っているとも思えません。その証拠にフランスなど欧州
諸国が今も昆虫学の先進地です。ただ研究者も含めて虫への接
し方の根底にはやはり宗教観の違いがあるのを感じました。
日本では学校の教科書に「偉人」として採り上げられてきたことも
「違い」を象徴しています。子どもはある程度の学年までは男女の
区別なく基本的に「虫が好き」です。その後、興味の対象は変化し
「虫離れ」していきますが、「ファーブルの面影」は残っていて知ら
ない大人はいないほどの「有名人」になっています。公教育が賛美
すべき「偉人」として採り上げた何らかの意図があったとしても、そ
れを受け入れる「伝統的な虫好きの素地」がありました。
その素地は今はどうでしょうか?「自然離れ・理科離れ」がさかんに
流された時期がありました(今も?)。学習ノートの表紙から昆虫の
姿が消えるという騒動もありました。この「キモイ」は決して本来の子
どもの声ではなく、親世代など大人の思い込みの影響によるもので
しょう。子どもに昆虫標本(生きた虫も)を見せると、初めは嫌がって
いた子も、次第に手で触れることができるようになります。先入観か
ら解き放たれて好奇心が勝った瞬間、本来の姿です。
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自然界のどんなささいな問題でも、たとえ、それが、思いように
よっては子どもらしい問題に見えるものでも、けっしてばかにし
てはいけない。(中略) 観察する者はなにものもゆるがせにし
てはならない。もっともささいなことから、何が出てくるかはだれ
にもわかったものではないからだ。 (「ファーブルの言葉」より)
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この社会の自然環境の改変(破壊)はすさまじい勢いだ。地球規
模での生物種の大量絶滅は過去に5回あったという。そして今が
6回目か、人類由来の・・・? 生物進化を司ってきた「神」(存在
すればだが)の目には、これも「想定内」なのだろうか。
個人の力ではどうしようもない流れだが、せっかく観察に出る機会
に恵まれているのだから、ファーブルのこの言葉に学んで、この
「改変」を見て記録していきたいと思う。知らないと思い込みが先行
するし、時には恐怖さえ覚えることもあるが、知ると消えて「何だそう
なのか!」とすがすがしい気持ちになる。
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昆虫関係図書
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その6回目が進行しつつある時に私たちは出くわしてしまったのでしょうか
せめて生きている間は できるだけたくさんの植物や虫に遭いたいです
ファーブルに学びたいです
2015/10/12(月) 午後 6:45 [ yuuko ]
今もナミゲンゴロウがいる田舎に住んでいる子どもたちでも、すぐそこにナミゲンゴロウがいるのに、全く見たことがないそうです。虫採りを一緒に行なう親などの大人も減ってきたのでしょうねぇ。総合学習では、子どもたちが、キラキラと眼を輝かせて、生物観察に熱中するので、子どもが親の事情に巻き込まれているのではないかと、懸念しております。
2015/10/12(月) 午後 9:13 [ いたちむし ]
私も自分の保育室の周りの虫などは観察して、幼い子どもたちに見せるようにしています。わあ、気持ち悪いね!なんて口が裂けてもいいません。いま、アサガオのつるにまるまると太った私の人差し指くらいはあるスズメガの幼虫がいます。黄緑色で点々があります。よくもこんなに丁寧にと驚きます。子どもたちには触らせず、見せるだけですが、ほかにも、バッタ、テントウムシ、カマキリ、ツマグロヒョウモン、ヤモリにトカゲ、メダカと小さな生き物たちにふれる、そこに普通にいるのがあたりまえという感覚を持って欲しいなと思っています。子どもたちにはファーブルの伝記もやがて手にとって読んでくれる子にと思っています。
2015/10/12(月) 午後 10:33 [ mom*z*ku7 ]
> yuukoさん、こんにちは。どうなんでしょうね、そうならないといいのですが…
生物種が確実に減っていることは間違いないでしょうね。消えていく虫を見続けて
いきたいのですが、放射能で立ち入れなくなることは避けなければなりませんね。
2015/10/13(火) 午前 10:03 [ ginguchi ]
> いたちむしさん、訪問・コメントありがとうございます。ナミゲンゴロウが!
いいですね。まだ見たことがありません。子どもの頃によく見ていた虫たちが
いなくなりました。子どもたちにとって自然の中で過ごすことは、大人になって
からの「肥やし」。それを奪う大人社会を危惧します。もっと余裕がほしいなぁ…
2015/10/13(火) 午前 10:08 [ ginguchi ]
> mom*z*ku7さん、いいですね。身近に自然があってそれに触れる機会を増やす
努力する大人がいる。子どもたちが大きくなってきっと思い出し「財産」となる
ことでしょう。自分の周りとは違う時間が流れている…その感覚を知ることだけ
でずいぶん違うものと思いますね。子どもたちの生き生きとした顔が目に浮かぶ
ようです。元気な声は決して「騒音」ではないと思うのですが…
2015/10/13(火) 午前 10:14 [ ginguchi ]
大人がキモイからといって、何も先回りしてなくすことはないのに。危険についても、先回りしすぎると自分で対処する姿勢が育たないのではないかと思います。
ありふれたものだから、みんなわかっているというのも思い込みでしかなく、そこらへんの雑草でも、まだ未知の現象を隠し持っています。
2015/10/13(火) 午後 2:03 [ ショルティア ]
・・・
時々、私は(やはり変わってるのか?)と感じる事があります。
変わってても、犯罪ではなのですから、それはそれでいいとしても・・・心の中は、複雑でした・・・
がしかし、↑の記事を読ませて頂いて!
「あ〜〜〜やはり、虫はいいな〜〜〜!」と感じさせられました!
些細な事への疑問の重要性!
その、謎を解き明かそうとする研究、観察・・・
その経緯に底知れぬ魅力を感じます・・・
そんな私の気持ちを再確認させて頂いた記事でした・・・☆
2015/10/13(火) 午後 10:28 [ 今日も、こっそり自然観察! ]
> ショルティアさん、そうですね。「過保護」は子どもの成長の芽を摘むこともある。
もうちょっと放っておいても…という場面を見ます。見たことのない場所(外国)に行って新種探しも楽しいでしょうが、足元にもまだまだ不思議がありますね!
2015/10/14(水) 午前 8:22 [ ginguchi ]
> 今日も、こっそり自然観察!さん、何を基準に「変わっている」?かは
抽象的で問題になりません。皆違うのは当たり前だと思いますね。何だか
「同調圧力」が強いのが気になります。多くが「そうだ!」には「が、
しかし…!」の精神が必要だと思います。まぁそれより何より観察して
知ることは「楽しい」が一番でしょう。ファーブルもそうだったと思い
ますね。 ☆ありがとう!
2015/10/14(水) 午前 8:30 [ ginguchi ]