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若いカップルが、狭くて暗いトンネルを抜けてゆく。その先に何があるのか・・・
ここはお化け屋敷ではなく、とある岬だ。そして、その先にあるのは時期的に
「雪国」ではない。美しい海岸の風景が広がっているはずだ。
渚・・・海と陸が出合う場所。その渚は、河口・干潟・藻場・磯・砂浜・サンゴ礁・
ヒルギ林の7つに類型に分けることができるという。ならば、ここは典型的な磯
だろう。ちょっとした手つかずの入江があり、その先には日本海が円く広がる。
「海の生命の多様性と生物の豊饒さの中心はこの渚にあり、また人々と海との
接点もこの渚にあった。そして、海の生態系の中で人間の影響をもっとも強く受
けているのもこの渚である」(加藤真『日本の渚』)という。改めて、そう言われる
と、もっともだなと思う。ここの磯は、人が利用しづらい立地で、利用する資源に
乏しくて消波堤を置く価値がないのだ。日本の渚が失われていく中、こんな磯だ
けが残っていく。
(2013年8月下旬・積丹島武意で撮影) 学生の頃、友人の車を徹夜で走らせてトンネルをくぐった記憶。車にはほとんど関心が
なかったが、なぜかこの時の車が確か「ブルーバード・スリーエス・ハードトップ」という
名前だったという記憶が残る。夏の明け方の日本海の美しさとともに。
当時は「日本の渚百選」などというものはなかったと思う。知る人ぞ知る場所だったはず
だ。いつ、だれが「百選」したかは知らないが、この日も多くの観光客で狭いトンネルを
すれ違うのが厄介だったし、夏の終わりを惜しむようにいくつかのテントがあった。有名に
することで両面の顔が覗く。
普段、山沿いの閉鎖された空間を歩いているので、たまにこんな風景に接して開放感に
ひたりたくなる。ましてかつての美しい記憶があれば尚更だ。何年かに一度訪れていた
渚だが、人混みを見るようになっては、これが最後となるかもしれない。また別の秘密の
渚を探さなければならないな。 |
北海道自然散歩
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ジョウザンシジミが見たくて、豊滝から観音沢まで歩いた。
観音岩山(通称、八剣山)。奥は烏帽子岳、手前は豊平川。
「8つの剣」に由来する八剣山だが、どこをどう数えたのか・・・
豊平川の雪解け水。分かりずらいが、赤い服を着た人が渓流釣りをしていた。
この流れでは、ラフティングも一層迫力が増しそうだな。
沿道ではムスカリなどが満開。自転車・バイクの人々のツーリング?が多い。
この時期によく目にするタマムシ・・・クロヒメヒラタタマムシ。タマムシというと、あの派手で
大きなものが連想されるが、北海道では見られず、地味で小さなものが多い。
結局、ジョウザンシジミの発生も遅れているようで飛ばず。何人かの採集者に会ったが
やはり残念な結果だったようだ。このままの好天が続けば、6月上旬には大丈夫だろう。
(2013年5月26日・南区簾舞地区で撮影)
唯一見たシジミチョウは、ルリシジミだった。翅を開かず、♂のルリ色が見えない。その
色を撮りたくて飛ぶ瞬間を狙ったが、何度も失敗した。おまけに、この日は光が強すぎた。
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北海道中央部にある宮島沼(美唄市)に寄ってみた。マガンなどの渡り鳥の
飛来地で有名な沼だが、入口では意外な出迎えを受けた。
水鳥・湿地センターの入口に、なぜかヤギが・・・
訪れた時は昼過ぎだったので、マガンの群れは周辺の農地に食事に出かけていたようだ。
(2012年10月5日・宮島沼で撮影)
この時期、マガンはシベリアから南下中。この宮島沼などを経由し東北地方まで下って越冬する。
6万羽を超えるマガンが羽を休めるという。朝夕飛び立つ姿は壮観だが、一方で飛来が急増した
ことによる沼の富栄養化、面積の縮小も進んでいるようだ。 |
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忍路・西崎山の環状列石より有名なのが、フゴッペ洞窟。小樽の隣りの
余市町栄町にある国指定史跡だ。立派な施設ができていた。
何で注目されたかというと、洞窟内の岩面に刻まれた絵(岩面刻画)が発見されたから。
洞窟内は風化が進んだため、厳重管理が施された。暗い中、ガラス越しにわずかに
その様子が確認できる。写真撮影は禁止。どんな彫刻なのか?ロビーに飾ってあった
パネルには、次のようなものがあった。
翼を持った人物像のように見える。
私が見たかったのは、こうした刻画もそうだが、海食崖にできたという洞窟のロケーション
だったが、入口は立派な建物で覆われ分からなくなっていて、ちょっとがっかり。かろうじ
て、発見当時の写真でその雰囲気を知ることはできたが。
施設の裏側に回ると、海食崖の一部が露出していた。 (2012年9月4日・余市町で撮影)
環状列石も含めて、このような遺跡を見ると、やはり「いつ・だれが・何のために・・・」という思いが
強くなる。これまでの発掘調査では、続縄文文化期のものではないかというだけで、岩面刻画に
こめられた当時の人々の思い分からない。当時の土器や石器などの遺物は土に埋もれて残って
も、文字のない時代の文化は残されないので想像するしかない。
北海道には弥生文化はなかったと言われる。その時代に相当するのが続縄文文化だ。狩猟・漁労・
採集中心の文化だったのだろう。それにしても、この海食崖、今は海岸から距離がある。画が刻まれ
た当時は、この辺りまで海が迫っていたのかと思うと、2000年の時間など地球にとっては、ほんの
一瞬なんだなと改めて感じた。 |
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忍路環状列石の近くでは、もうひとつの環状列石が見つかっている。
余市町にある西崎山環状列石。忍路のものとは明らかにロケーションが異なる。
この配列を見ると、「やはり墓石か」との印象を強くするが・・・
この環状列石は標高70mの「高台」にあり、海がよく見える。
猛暑の中でもススキが穂を出していた。 (2012年9月4日・余市町で撮影)
遺体の埋葬のしかたの変遷を見ると、古代は土葬・風葬がほとんどで、火葬するように
なった歴史は浅い。また、今のような墓石を建てるようになったのも近代になってからだ。
特に庶民の墓が今のような形になったのは明治時代以降のことだという。それ以前は
せいぜい自然石を置いて目印したくらいで、河原に放置されたこともあったようだ。京都
の河原には死骸であふれていたとの記録も残っている。
そのような状況では、年月の経過とともに「墓」がどこだったか不明になることも多いから
今のような「墓参」という習慣も生まれてこない。遺体・死骸に対する価値観が違っていた
のだ。死者に対する弔いの念は、ずっと変わらなかったのだが、その魂はどこに行ったの
か、どこにあるのか・・・その観念が変化してきたのだ。
近代から現代にかけて、日本人の「骨」に対するこだわりが強くなってきたことは、文明史
の変遷から見ると興味深い。今も戦死者の遺骨発掘が継続して行われている。それほど
「骨」には死者の魂が宿っているとの思いが強い。その一方で、「散骨」というスタイルも見
られるようになってきたし、「私はそこにはいない」という「千の風」も吹いた。
「環状列石」にこめた古代の人々の思いは何だったのか・・・西崎山の高台から一望でき
る海を眺めながら、様々な想像が浮かんだ。この林でミンミンゼミの声を聞いた。もしここ
が札幌市内なら新聞記事になるような出来事だ。それほど離れていないのに、札幌の林
になぜミンミンゼミが進出してこないのか・・・人の目には見えない自然環境の違いを感じ
取っているのだろうか?
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