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小倉城の北の丸にある八坂神社で、2月3日(水)節分祭がありました。 神楽の神事が行われた後に「豆まき」があります。 撒かれる豆袋には “景品が当たる富くじ入りのものもある” ということで・・・行ってきました♪ 神殿で神楽(かぐら)の神事が行われている間、待っておりました。 神事が終わり、鬼が出てきました! 神殿の向い側にある建物から豆まきが行われます。 豆まきが終わりました。この道を挟んで北隣に 「リバーウォーク北九州」 があります。 リバーウォークの中に参道があります。以前はここに大きな鳥居がありました。 私は後ろの方で写真を撮っていたので、豆袋は飛んできませんでした。 でも、門のお多福をくぐってきたので、後にご利益があるでしょう・・・!?
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小倉城と周辺
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天守閣の内部は、小倉城に関連した歴史資料や、和紙人形で城下町の様子を再現したジオラマなど 充実した展示がされています。 12月28日(日)に行ってきました。 小笠原藩の家紋にちなんで3段重ねにした大鏡餅も飾ってありました。 城下町を再現したジオラマです。 祇園祭の風景です。 手前から普通の刀、小次郎の刀、武蔵の木刀。(本物ではありません) 祇園祭の山車 「大名のかご」 乗ることが出来ます。 「島原の乱」出陣前夜の作戦会議の様子をからくり人形で再現 5階に展示されている、つまようじで作られた小倉城 天守閣の内部は、展示の他にも芝居小屋風の「からくりシアター」や「殿のくらし七不思議!」など ゲーム感覚で楽しめる装置もあります。年末ですが、親子連れが大勢来られていました。
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小倉城の東側に、江戸時代の大名屋敷と茶室や「小笠原流礼法」を紹介した展示棟を備えた 小倉城庭園(別名/小笠原会館)があります。 この場所は、城主・細川時代は家老の長岡佐渡の屋敷でしたが、 小笠原時代は、城主の下屋敷(別邸/御遊所)でした。 下屋敷とは、城主がお茶や能を楽しんだり、また客を迎える接待所のような場として使われていました。 庭園から「書院造り」を見ると、広縁が池に張り出している「懸け造り(かけづくり)」になって いるのがよく分かります。 「本格木造書院造り」で、「上段の間」「一の間」「二の間」「取次ぎの間」からなっています。 広縁から庭園を眺めますと、正面に15階建ての市庁舎がそびえています。 西の方へ目を向けますと、小倉城が見えます。 帰り道で、武家屋敷と15階建てのビルが、隣り合っているのも珍しいなあと思い、写しました。 |
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小倉城の北の丸に、八坂神社があります。 「無法松」で有名な小倉祇園太鼓は、この神社の夏祭りです。 この神社は、細川忠興が元和3年(1617)に、小倉・鋳物師(いもじ)町に城下の総鎮守として 祇園社を建てたものですが、 明治時代に、祇園社から八坂神社へと名前が変わり、 昭和9年(1934)に、現在の地に移転されました。 八坂神社の門です。城門の趣があります。この門を出て、鳥居を出て行くと、 リバーウォーク北九州 (商業、業務、文化、情報などの複合施設) があります。 その建物の中に、神社の参道があります。 この大きな鳥居は、門の前の参道にありましたが、リバーウォーク北九州を建設するときに、 こちらへ移されました。 こちらからも参ることが出来ます。 |
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歴史に詳しいわけでもなく、特に関心があるわけでもないのですが、細川忠興と妻ガラシャの話が とても興味深いので、書き留めておこうと思います。 天正7年(1579)、織田信長の媒酌により、細川藤孝(細川家初代)の長男忠興と明智光秀の三女玉子 が結婚。共に16歳。 天正10年(1582)6月、本能寺の変で光秀が信長を討った。 光秀が協力を要請したが、細川家は「逆臣の味方はできない」と判断し、玉子を細川領・丹後の山 深い味土野(現在の京丹後市弥栄町)に隠棲させ、豊臣秀吉に協力して武功を挙げる。 秀吉の許しもあって、玉子は細川家の大坂屋敷に戻る。 玉子は、真の人間らしい生き方を求めて、キリスト教を信仰するようになり、セスペデス神父より 洗礼を受けて、ガラシャと名のる。 慶長3年(1598)、豊臣秀吉が亡くなり、徳川家康と石田三成が覇権争いを繰り広げる。 当時、諸大名の妻子の多くは大坂に住んでいました。 石田三成は、家康に従って上杉討伐に東北へ出かけた諸大名の妻子を人質として、大坂城へ閉じ込 め、諸大名の戦意をくじこうとしました。 最初に、細川家の留守宅に、人質として大坂城へ入るようにと強要し、兵が屋敷を囲みます。 ガラシャは、自殺を決意しますが、キリスト教は自殺を禁じているので、家臣の小笠原少斎に 長刀で胸を突かせて自決します。 慶長5年7月17日 玉子37歳でした。 次のような時世を詠んでいます。 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」 彼女の潔い最期は、三成に人質強要を断念させた。 二ヵ月後の関ヶ原の合戦で、忠興は、五千の兵を率いて先陣を争い、西軍に突撃しました。 ガラシャの死は、東軍の結束を強め、徳川勝利の一因を作りました。 前の記事「小倉城」でも、書きましたが、この功労で忠興は、豊前小倉藩初代藩主になります。 慶長6年に、セスペデス神父を小倉に招き、教会堂を建て、ガラシャ追悼の祭式を催した。 神父を優遇し、文化と貿易の振興、小倉城築城や町づくりにその知識を取り入れました。 小倉城は、唐造りの城だったと言われています。 また、京都の祇園祭を取り入れ、悪疫退散と城下町繁栄を祈願して、小倉祇園祭を興しました。 細川家は、30年かけて小倉の町の基礎を築きました。 |


