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今回は、小倉市街地の中にある鴎外ゆかりの場所を掲載します。 JR小倉駅の南口を出て右側のエスカレーターを降りた所に「森鴎外京町住居跡碑」があります。 小倉で2軒目の借家で、鍛治町の家(前の記事・その2で掲載)に約1年半過ごした後、 1年3ヵ月住んでいました。 ここで、アンデルセンの「即興詩人」を訳し終えています。 明治35年1月4日、40歳の鴎外は、22歳の志げ(茂子)と再婚し、1月から東京へ転任する3月まで 幸せな新婚生活を送っています。 鴎外帰京後、旧居は「金光教 教会」になっていたそうですが、昭和33年の小倉駅移転で解体された。 「常盤橋」です。鴎外橋(その1で掲載)より少し北(小倉駅に近くなる)にある木造の橋で、 江戸時代の長崎街道の起点でした。平成7年3月にレトロな趣を残して再建されています。 鴎外は、馬に乗ってこの橋を渡り、小倉城内の陸軍第十二師団に通ったそうです。 小倉城から少し西の方にある、鴎外もたびたび訪れていた「安国寺」です。 足利尊氏が国家安穏を祈願して全国に建てた寺の一つで、豊前安国寺が前身です。 小倉を舞台にして書いた短編小説「二人の友」、「独身」に登場する「安国寺さん」、 「寧国寺さん」は、当寺の住職で鴎外と親交を重ねた人です。 鴎外は、左遷の思いを抱いて小倉に赴任してきましたが、くじけなかった。 史跡を訪ね、人と語り、本を読み、翻訳をした。 「私は豊前の小倉に足かけ四年ゐた」 (「二人の友」より) 鴎外の小倉時代は、鴎外にとっても小倉にとっても、実りが多かったと言われています。
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森鴎外と小倉
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明治の文豪・森鴎外が陸軍第十二師団軍医部長として小倉に赴任した折、明治32年6月から 翌年12月まで住んでいた借家です。 門を入って左側に、鴎外の胸像があります。 縁側と庭です。庭の広さは、当時の半分になっているそうです。 昭和49年3月に北九州市が、この旧居を永久に保存するため「史跡 森鴎外旧居」として 文化財に指定し、昭和57年3月に、改造されていた土間の部分を当時の姿に復元しています。 この家を舞台にした、小説「鶏」があります。 当時は、静寂な住宅地だったようですが、今は、飲み屋の連なる歓楽街になっています。
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森鴎外は、陸軍第十二師団軍医部長として明治32年(1899)6月〜明治35年3月までの2年10ヵ月、 小倉に滞在していました。 明治31年に第十二師団司令部が小倉城本丸跡に設置されました。 当時の正門の一部が残っています。鴎外は騎乗のままこの門から登庁していたそうです。 鴎外は東京帝国大学医学部を卒業後、陸軍軍医となり、近衛師団軍医部長の傍ら東京美術学校や 慶応義塾大学で講義をするなど幅広く啓蒙活動もしていました。 その鴎外が、自分の意に反して37歳の時、小倉へ転任させられた。 しかし、北九州の人たちにとっては幸運なこととなった。鴎外は、小倉はもとより、広く北部九州 の先人や史跡を訪ね、講演会、地元紙への寄稿など啓発を行った。 鴎外の存在は、地元経済界に文化向上意識を促し、また地元作家たちにも刺激を与えたと 言われています。 鴎外誕生100年を記念して昭和37年に建てられた六角形の「森鴎外文学碑」です。 それぞれの面には、鴎外の作品から抜粋した文が彫られています。 小倉の街の中心部を流れる紫川に架かっている「鴎外橋」の西側たもとにあります。 富を学問芸術の振興に使うべきだと地元紙へ寄稿しています。 この「鴎外橋」を渡って真直ぐ東に10分ほど歩いていくと、鍛冶町の「森鴎外旧居」があります。 鴎外が小倉に着任した明治32年6月から翌年の12月まで住んでいた借家です。次回に掲載の予定です。 |
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