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作家・火野葦平(明治39年〜昭和35年)の旧居・河伯洞(かはくどう)が、 北九州市若松区白山一丁目にあります。 市指定文化財 河伯洞は、葦平氏が軍報道部時代(日中戦争)に書いた戦記小説の兵隊三部作がベストセラーとなり、 その印税で、父・玉井金五郎が息子・葦平のためにと建てました。 戦後、葦平氏がこの母屋に棟続きのモルタル造りを増築し、その2階を書斎にします。 昭和15年(34歳)〜35年(53歳)までここで過ごし、代表作の一つ「花と龍」をはじめ 数多くの作品を生み出しました。 母屋と増築された2階建て 庭に河童像があります。 お部屋に展示されていた葦平さんの写真です。 2階の書斎です。当時使われていた家具等は、全て「火野葦平資料館」に移されています。 火野葦平資料館(若松市民会館内)に復元された書斎です。 作家・火野葦平は、明治39年12月福岡県遠賀郡若松町(現北九州市若松区)に生まれる。 大正8年 12歳、県立小倉中学入学後、漱石等の作品に接し文学を志す。 昭和3年 21歳、早稲田大学英文学部中退後、家業の荷役請負業・玉井組を継ぐ。 昭和13年 31歳 久留米で発行の文芸誌「文学会議」に発表していた小説「糞尿譚」(ふんにょうたん)が 第6回芥川賞に決定し、杭州に出征中の葦平氏に陣中授与式が挙行される。 その後、軍報道部へ転属となり、除州会戦に従軍し、戦記小説「麦と兵隊」をかく。 続けて「土と兵隊」「花と兵隊」を発表し、ベストセラー作家となる。 昭和15年 兵隊三部作により、朝日新聞文化賞、第一回福岡日日新聞文学賞を受ける。 太平洋戦争に於いても、報道班員としてフィリピン・バターン作戦やインパール作戦に従軍する。 昭和20年 38歳、朝日新聞に「悲しき兵隊」を発表して筆を折る決意をする。 昭和23年〜25年まで、文筆家の追放指定を受ける。 昭和27年 45歳、読売新聞に長編小説「花と龍」を連載する。 幾度も映画、舞台、TVドラマ化され、代表作の一つとなる。 昭和34年 52歳、「中央公論」に長編小説「革命前後」を連載する。 昭和35年 53歳、1月24日 午前5時頃、河伯洞2階の書斎で自ら命を絶った。 5月、戦中戦後の自らの心の軌跡を描いた「革命前後」及び 生前の業績により、日本芸術院賞を受賞した。 火野葦平略年譜等より抜粋 高塔山公園に文学碑があります。 「泥によごれし背嚢に 挿す一輪の菊の香や 火野葦平」 と刻まれています。 これは四行詩の前二句で、後句「異国の道をゆく 兵の眼にしむ空の青の色」 と続きます。
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北九州の作家
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作家・松本成長(明治42年〜平成4年)は、小倉生まれ、その半生を小倉で過ごしました。 平成10年に、小倉城の西ノ口門入口に「松本清張記念館」が開館しました。 記念館の正面です。 反対側は大通りになります。 反対側の大通り(西側)から撮っています。 南西の方向から撮っています。 南の方向から撮っています。 館内は撮影禁止なので、通りに掲示されているのを撮りました。 清張氏が執筆していた書斎です。 作家・松本清張は、大正13年 15歳、板櫃尋常小学校高等科を卒業 昭和12年 28歳、小倉に朝日新聞九州支社が開設され、その広告版下を書く。後に正社員になる。 昭和25年 41歳、週間朝日の「百万人の小説」に応募し、「西郷札」が3等に入選する。 昭和28年 44歳、1月、森鴎外の小倉時代の研究に全身全霊を傾ける小倉の人・田上耕作が主人公の 短編小説「或る『小倉日記』伝」が第28回芥川賞を受賞。 12月、朝日新聞東京本社に転勤になり、小倉を去る。 昭和31年 47歳、朝日新聞社を退社し、作家生活に入る。 昭和33年 49歳、「点と線」「眼の壁」が出版されベストセラーになる。 社会派推理小説をはじめさまざまなジャンルで創作活動を続け、いろいろな賞を受賞されています。 昭和38年 54歳、第5回日本ジャーナリスト会議賞 同 42年 58歳、第11回吉川英治 文学賞 同 45年 61歳、第18回菊池寛賞 同 53年 69歳、NHKの第29回放送文化賞 平成2年 81歳、89年度朝日賞
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小倉祇園太鼓から“無法松の一生”を連想される方も多いと思いますが、映画“無法松の一生”の 原作は、作家「岩下俊作」の小説「富島松五郎伝」です。 八幡東区にある高炉台公園に「岩下俊作文学碑」があります。 作家・岩下俊作(明治39年〜昭和55年)は、昭和2年小倉工業学校機械科卒業後、 八幡製鐵所(現在の新日本製鐵)に33年間、勤務していました。 小倉工業学校時代(17歳)から、詩・戯曲・随想などを書いていましたが、 昭和14年、祇園太鼓の音も華やかだった明治から大正の小倉の町で“無法松”と異名をとった 喧嘩早いが気のいい、富島松五郎という車引きの一生を描いた小説「富島松五郎伝」を発表する。 第十回・第十一回の直木賞候補に挙げられたが、惜しくも受賞を逃す。 しかし、昭和18年、「富島松五郎伝」は“無法松の一生”と題名を変えて映画化される。 何度も映画化されましたが、 昭和33年、三船敏郎主演の“無法松の一生”は、第19回ベニス国際映画祭でグランプリをうける。 昭和34年、小倉北区古船場町に“無法松の碑”がたてられました。 据え太鼓では、車引きの衣装に揃えたチームも多いです。 他にも、「西域記」、「辰次と由松」など多数の作品があります。 自宅で、小説勉強会を開き、後輩の育成にも尽力されたと言われています。 昭和37年、小倉市長より小倉市功労者として表彰される。 同 45年、北九州市長より第一回北九州市栄誉功労者として表彰されました。
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