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武蔵と小次郎の決戦場・巌流島が見える手向山公園(小倉北区赤坂)で、4月12日(日) 第59回 「武蔵・小次郎まつり」 がありました。 手向山公園には、武蔵と小次郎の記念碑が建立されています。 毎年、巌流島の決闘の日・4月13日に近い日曜日に、両剣豪を偲んで行われています。 武蔵の碑です。 小次郎の碑です。 来賓代表祝辞・北九州市長です。 献笛 尺八の美しい音色が奉納されました。 武道演武・日本剣道形 宮本武蔵兵法二天一流 剣舞・巌流島の決闘 桜丘小学校鼓笛隊の演奏 この後、小倉南北区内の少年少女剣道大会、小倉南北区内中学校対抗剣道大会、 芸能大会等もあったようですが、私は見ないで帰りました・・・。 “武蔵・小次郎ゆかりの地”の良いお祭だなあ・・・と思いました。
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宮本武蔵ゆかりの地
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巌流島は、関門海峡に浮かぶ小島で正式名称は「船島(ふなじま)」です。住所は下関市彦島大字船島。 当時は、豊前小倉藩領の「船島」でしたが、佐々木小次郎が「巌流」を名乗ったことから 「巌流島」と呼ばれるようになりました。 “武蔵・小次郎像”です。 “武蔵・小次郎像”の除幕式には、NHK大河ドラマで武蔵役・小次郎役を演じた市川新之助さん、 松岡昌宏さんも出席されたそうです。 決闘の場所をイメージして作られた白い砂浜。武蔵が乗ってきた舟も再現されています。 巌流島から見た“関門橋”です。左側が下関市、右側が北九州市門司区です。 巌流島の展望広場から撮りました。 関門海峡沿いに、松林の散歩道があります。 関門海峡と下関の街です。“海峡ゆめタワー”も見えています。 「佐々木巌流之碑」です。明治43年(1910)に船島の開鑿工事が完成したのを記念して建立された。 碑は、高さ120cm、幅65cm、厚さ45cmの自然石です。 決闘は、武蔵がわざと遅刻し、小次郎がそれに怒り冷静を失っているところをつかれて、 やられてしまったと言われています。 小次郎が、さっさと行くぞと言って刀の鞘を投げ捨てると、それを指して「小次郎敗れたり」と言い、 「勝負のあと刀を納める鞘を捨ててしまったのは、もうそれに納まらないと言うことだ」と指摘して、 更に小次郎の動揺を誘ったといいます。心理戦も大きく影響しますね・・・。 この「佐々木巌流之碑」に、手を合わせたい気持ちになりました。
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門司区と小倉北区の境に手向山(たむけやま:小倉北区赤坂)という小高い山があります。 その山頂の広場に「宮本武蔵顕彰碑」と「佐々木小次郎の碑」があります。 武蔵の没後9年目の承応3年(1654)に武蔵の養子・宮本伊織が父の業績を伝えるため建てたものです。 高さ4.5mの自然石です。 剣の道に生きた武蔵の生涯が千百余字で刻まれています。 巌流島の決闘、吉岡一門との決闘をはじめとする武蔵の主要な伝承は、この小倉碑文を源としており 「五輪書」と共に武蔵を知る貴重な資料となっているそうです。 佐々木小次郎の碑 作家の村上元三氏が新聞小説「佐々木小次郎」の連載終了を記念して昭和26年(1951)に寄贈したものです。 元三氏の句「小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ」が刻まれています。 武蔵と試合があったと言われる4月13日に近い日曜日に、毎年碑前で“武蔵・小次郎まつり”が 行われています。 山頂から関門海峡、巌流島もかすかに見えます。 巌流島は、左側の島々の向こう側の右に突き出ている小さな島です。 手向山入り口の案内の看板です。 《武蔵の小倉滞在期間》 寛永9年(1632)、小倉城初代城主の細川家が熊本へ移り、譜代大名として武蔵の養子・伊織が仕えていた 播磨明石城主・小笠原忠真が小倉城に入る。 この時に、武蔵も伊織と共に小倉に移り、寛永17年(1640)に熊本に移るまで小倉で暮らした。 寛永15年(1638)の島原の乱では、小倉城主・小笠原忠真に従い伊織も出陣、武蔵も忠真の甥である 中津城主・小笠原長次の後見として出陣しています。 また、小倉滞在中に忠真の命で宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合をしたことが伝えられています。
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