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少し前の話になります。 楊令伝・全15巻を読み終わったのは20110128でした。 こういう長編を読み終わると、満足感を覚えてもおかしくないと思うのですが、 なぜか満足感よりも喪失感を強く感じます。 苦しくも楽しかった長い旅が終了した時のような。 それで、その喪失感を埋めるため?の何かが欲しくなり、 あまり期待はせずに行きつけの古本屋さんに行ってみました。 すると、思いがけず大先生の作品をまとめて発見しました。 まだ読んだことのない作品のように思われたので大した検討もせず即入手。 大先生の作品は行きつけの古本屋さんでは動きが良い部類のようで
などと考えて後悔したことがこれまでに何回かありました。 最初のこれはタイトルだけは良く目にします。 大先生の代表作の一つなのかもしれません。 おそらくは大先生が歴史モノに取り組み出した比較的初期の頃の作品であろうと思います。 大先生の歴史モノは水滸伝〜楊令伝と近年の作品から読み始めましたが、 ここで初期の頃の代表作を読んでおくのも悪くないな、と思いました。 で、読んでみると、これが大先生作品としては珍しく、読み進めるのが辛い。 物語の内容や登場人物は嫌いではありません。むしろ好感を持てます。 しかし、なぜか読み進めるのが辛い。 事情は良く知りませんが、
もしや、歴史モノに取り組み始めた初期の頃で、大先生といえども やはり悪戦苦闘のような状況があったりしたのか? それでも何がしかの賞を受賞している作品であるところを見ると、 世間一般では「読み進めるのが辛い」などとは誰も感じていないのかもしれません。 ならば、私の感覚がおかしい? 大先生作品の普通はありえないスピード感(?)に慣れ過ぎてしまったのか? ふだんから辛いものばかり食べているせいで繊細な味覚が麻痺した人のよう? 何だか良くわからないうちに次の作品へ。 古本屋さんで手にした時には全く気付かなかったのですが、 いざ読みはじめようとしてショッキングな事実が発覚。
そういえば、カバーには「新・楊家将」と書いてありましたが、 「新」とつけば、それは続編というよりも、もうちょっと違うイメージでしょうが? ですが、文句を言うのは大きく筋違いなのであって、 ましてや、大先生のファンを自称している身としては、
●梁山泊の会 20101128 http://blogs.yahoo.co.jp/gishkov/44398508.html などと思いつつ読み始めると、これはいつもの(?)大先生ワールド全開なのであり、
的な感じです。 それにしても、なぜ「水滸伝」を読む前に「楊家将」を読まなかったのか? そして、この「血涙」を読まなかったのか? こういうことでは、大先生のファンを名乗る資格は無いのであって、
などと言うほかないでしょうか。
と言われて終わだと思いますが・・・ で、なんで急に九州人になったのかというと、次に読み始めたこれ。 いったい何ですか!これは?
ではないでしょうか? そういえば、良く見ると帯にはこんなことが書いてありました。 たまには的を射たこと言うねえ〜! というわけで、現在下巻の真ん中あたりです。
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読書の記録
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2010年10月の終わりに読み始めてから約3カ月。 途中で中断して「楊家将」の上下巻を読んだ上で ついに楊令伝・全15巻を読み終わりました。 春〜夏〜秋には時間があるときにはもっぱら野菜作りに励むことが多く シーズンオフの冬は読書というパターンになってきました。 大先生の前作?の水滸伝・全19巻を読んだのが 2009年12月〜2010年2月であり、今回と同じく冬の時期でした。 全15巻のうち、前半あたりはやや期待した展開ではなかったために 若干読み進めるのが辛くなったこともありました。 しかし、全体的にはほとんど苦もなく読み進めることができました。 この3ヶ月間、毎日の通勤時間は登場人物と一緒でした。 そして、ついに迎えた第15巻の最後は虚しい結末でした。 昨年末に参加した梁山泊の会での話題の中で 物語の結末はおおよそわかってはいましたが。 水滸伝、楊家将、楊令伝の合計36冊をここまで読んで 心の中に浮かび上がってくることは
こういうのは「感想」というべきでしょうか。 それとも登場人物を通じた疑似体験から自分なりに得た 教訓のようなものでしょうか。 それとも大先生が読者に悟らせたかったことでしょうか。 読み終わった楊令伝を改めて積み上げてみると かなりの高さになりました。 この先自分があと何年かあるいは何十年か生きるとして、 記憶に残る楊令伝のエピソードはごくわずかだと思います。 はてしてどうなるのかな?と思うのは、膨大なページ数を 読み進めた結果として心に浮かびあがった教訓のようなものが この先自分のなかでどうなってゆくのか?ということです。 いつか自分の中でそれが失われた時に、再びそれを取り戻すのには また同じ量を読むことになるのか・・・ 近年は書籍の電子化と電子ツールが流行りつつあるようです。
理屈は理解できます。 大切にしたい蔵書を電子化すれば、まずスペースの悩みが解決します。 もう一度読みたい本や読みたいページをすばやく見つけ出すことも できるようになって便利かもしれません。 でも・・・これには何か落とし穴があるような気がしています。 データが一瞬に消えるリスクなどとは異なるもっと別な本質的なもの。
と言うのと似ているような。 そもそも理屈というのは、ある限定された理想的な条件下でしか 厳密には成り立たないと考えておくべきものと思います。 === もしも電子書籍が出版業界を完全に席巻する時が到来したならば 伝統的なスタイルの書籍は時代に取り残された古本屋さんか、 あるいは図書館の倉庫に行かないと手に触れることすらできない そんな世の中が来るのでしょうか。 紙に印刷され製本された伝統的な書籍が電子書籍に変わると、 同時並行して多くの人々が「効率」の視点を重視するようになり、 電子ツールとしていろいろな機能性を追い求めるようになるかも しれません。 もしかするとそれらは小説においても免れないかもしれません。 登場人物同志の関係性がどうであるとか、以前はこのような関係 だったのが、読み進めた現在位置ではこのようになっている・・であるとか、 任意のポイントまでのあらすじの要約機能とか、あるいは、BGM機能とか、 コンテンツを無料化するための広告機能であるとか、読者数を極大化 するためのストーリー変更のためのアンケート機能であるとか・・ 考えたらきりがありません。 それらの機能的進化は供給側の競争とか、消費者側の選択とか、 いろいろな事情で進化するものだろうとは思いますが、 それによって読み手が得るものは、紙に印刷した文字を読む という行為を通じて読み手が得てきたものは異なるものになる のではないか?と思います。 そして、好むと好まざるとにかかわらず、紙に文字を印刷して 製本したスタイルで読者に届けることを前提として、人類共有の 文化として蓄積されてきた書き手に要求されるスキルも大きく変化 するのでしょう。 それが文化として純粋に好ましい方向性なのか、それとも、 経済との合わせ技として見ない限り好ましいとは言えない・・・ のようになるのかはわかりません。 そのように「分からない」という部分まで含めて、梁山泊と楊令が 目指そうとした旧来の国家の姿から自由市場による国家への転換の 過程に似ているような気がします。 果たして大先生が読者に伝えたかったことは何でしょうか? 電子書籍が主流になれば、カバーだとか装丁だとか これからは関係なくなるかもしれないので いまのうちに撮っておくことにしました。 === 大先生はいまだに「黒旋風李逵」などの名前をつけた筆記用具で 作品を書かれているそうですが、それを思い出すと同時に、 ふと妙な考えが浮かんできました。 もしや、梁山泊・楊令の自由市場は、大先生から見た電子書籍なのではないか?と。
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この週末は寒かったですね。 我家の冬季の暖房は通常はリビングの床暖房だけなのですが、 この週末はエアコンの暖房を入れました。 外出もしなかったので以前から作ろうと思っていた 楊令伝用のブックカバー作りに着手しました。 材料は履かなくなったジーンズです。 書店でサービスにつけてもらうブックカバーは 手触りの感触やフィット感がイマイチなので、 いつもは使用済みのA4封筒を切り開いてブックカバー にしています。 既に使っているこのA4封筒ブックカバーを外して これをサイズの参考とし、ジーンズの腿のあたりから切ります。 内側と外側の縫い目をほどきます。 楊令伝も残り14巻と15巻となりました。 我家にはミシンが無いので全て手縫いですが、 暇つぶしにはちょうど良いですね。 ほつれないように外周を「かがり縫い」をしたうえで 左右を折り曲げて袋のように縫いました。 長さを確認しながら慎重に進めたので時間はかかりましたが ぴったりのサイズになりました。 なかなかうまく行きました。 手触りも外観も自作にしては満足いくものができました。 これだったら鞄の中で他のものと干渉しても本が痛むことがなく、 しかも手の中で滑りにくく、もしも汚れてもカバーを洗うことができます。 もしかして「一生モノ」になるかもしれません。
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『 楊家将 』の上下巻を読み終わりました。 まさに
現実社会できないとか、すべきでないとか、いろいろ議論はあるかと思いますが、 読み物の中では楽しめますね。それで良いのだと思います。 現実離れしているからこその面白さでしょうか。 現実の世の中では好むと好まざるとにかかわらず、 圧倒的多数の人間が「潘仁美将軍」的な振る舞いをしてしまう ことが多いのではないか?と思います。 名誉よりも生活を維持することが大切なのであって そのためには社会的な立場を維持しなければならず、 結果的に保身を優先せざるを得ない。 命を投げ出すことは「尊いこと」ではなくて、 その真逆の「愚かなこと」ということになる。 しかしそれは、平和が当たり前になった社会では言えることですが、 「平和な世の中」というものは不可逆なものであるという保証はない。 === 国と国との争いが起きない状況があるとすれば、それは言いかえれば 現時点での序列の上位にある国が、その地位を維持するのに有利なように 作ったしくみやルールを序列の下位にある国が受け入れている状況 と言えるのではないか? そして下位の国がそのような態度をとらざるを得ないのは、 そのルールに一定の合理性や公正さがあり、なおかつ、上位の国に いざというときの実力(≒武力)が備わっているからではないか? しかしながら、下位にある国が既存のルールの中で力をつけることにより 上位の国の地位が危うくなると、何かと理由をつけて自国にとって 都合のよいルールに変更しようとする。 そのとき、ややもすれば国益という名の元に国際的な合理性や公正さが失われる。 そうなると論争となり、話会いで決着がつかない時は ルールからの脱退が発生し枠組みの安定が失われる。 はたして、上位にある国は自国の序列が下がることで生じる自国社内の停滞や 個々人の生活水準の低下を受け入れることができるか? そして、別な部分に幸福や満足を見出すことができるか? それとも、世界平和の基礎がどこにあるのかの検証を割愛したまま、 自分たちの主張のほうが正しいとみなして実力で勝負に出るか。 === 世の中で現実に武力を担う役割の人々(軍事部門)は歴史的に悪者に されがちですが、いざ平和と安定を維持する段階になると、文民全体の 一人ひとりが世界的視野での見識をどれだけ有しているかがカギに なるのではないか?と思います。 そのとき、「誇り高き一族」は「自らの判断で勝手に戦いを始めない」 のと同様に「自らの判断で勝手に戦いを停止することもしない」 のでしょう。 文民全体の一人ひとりが世界的視野での見識が低かった場合、 現実を思い知った段階で「いったんは掛けた梯子を外しにかかる」のではないか? そのときに「一族」が誇りを守れるか?それとも「馬鹿げたことである」という 思いに駆られて、自らの意思で動くようになるのか? 『 楊家将 』を読んでそんなことを考えました。
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北方水滸伝のあとに読み進めている楊令伝ですが、 第12巻九天の章までを読み終わりました。 残すところあと13巻、14巻、15巻の3冊です。 === 1〜10巻は3巻のみ新品で購入し、他は某BO店で購入しました。 11巻以降はBP店をいろいろ探しまわっても見つからず、 そうこうしているうちに、梁山泊の会で大先生の直筆サイン入りの 15巻を先に入手することになりました。 BO店巡りはそれなりに楽しいのですが、目的とするものが なかなか見つからず時間だけが過ぎていくのはちょっと。 それに、出かけるたびにかかる交通費も積み重なると 新品を買っても結局同じか?とも思えたので 11巻、12巻と新品を入手して読みました。 そして次に読むべき13巻も既に手元にあります。 つまり14巻だけがまだ手元にないことになります。 === さて、第12巻九天の章は読みごたえがありました。 特に某隊長の「最期」に至るまでの場面は
水滸伝からの物語で大先生が生み出した名場面は他にもいろいろあると思いますが、 この場面は間違いなくベスト10入りするのではないか? もしも何らかの事情が発生して蔵書を手放すことになったとしたら、 この第12巻は最後まで手放したくありません。 あるいは、この場面を含む数ページだけでも。
この世に生まれて来たからには、 特に大勢に知られる存在でないとしても 自分にしかできない役割を果たせる人間になりたい そして自分の役割が終わりを迎えた時には 「あいつがいてくれて良かった」 などという思いで見送られたなら 喜びにつつまれて幕を閉じることができるだろう そんなふうに思いました。 === この勢いだと年内に「楊令伝」を読み終わりそうですが、 ここいらでいったん休止することにします。 以前から気になっていた大先生の別作品の「楊家将」を先に 読んでしまおうと思うからです。 この「楊家将」には、水滸伝〜楊令伝の登場人物と関係の深い 人物や場所やエピソードが登場するのではないかと思われ、 それらは「楊令伝」が終わる前に自分の中に取り込んでおきたいです。 これは新品購入したものではなく、BO店で見つけたものです。 大先生、どうもすみません。 で、じつはもう上巻の半分くらいまで読み進めました。 この「楊家将」の時代設定は「水滸伝」よりさらに昔ですが、
読んでみると、「楊令伝」よりも大先生作品のいつもの醍醐味が より高い密度で味わえるように思われ、そういうのが好きな人にとっては 楽し過ぎて読み終わるまで手放せなくなりそうです。 |





