GivingTreeの雑記帳

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

言霊(Quotes)

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追及すべきは「真実」ではなく「事実」
すべての国民には知る権利がある。
それは「真実」という記者の主観ではなく
ありのままの「事実」だ。
フィリピンの政治ジャーナリスト
ロベルト・アギラ

作・真刈信二 、画・赤名修
講談社イブニングKCデラックス『勇午フィリピンODA編』 第1巻より




「真実」が主観であるという指摘は目から鱗だった。
作品でロベルトは、主人公のユーゴにこう聞いて自分で答える。

「ジャーナリズムが正義の味方になるのはどんな時だと思う?」

ユーゴはこう答える。

「真実をつたえる時かな」

ロベルトはこう返す。

「いや、事実をスクープした時だよ」

そして今回の言霊のようにロベルトは言い切るわけだ。

「すべての国民には知る権利がある。
それは「真実」という記者の主観ではなく
ありのままの「事実」だ」と

ごもっともな話だ。

人の数ほど“真実”があるというのは、よく聞く話。
仮にある事柄の当事者であったとしても、その人にとっての“真実”というものは
その人自身の事実の解釈に過ぎないかも知れない。

一方、“事実”というものは人がそう認識するか否かにかかわらず存在する。
この“事実”をスクープするのがジャーナリストの至上命題だとする
ロベルトの考え方には納得がいく。

が、現実にそんなジャーナリストが存在するのかどうかといえばそうは思えない。

既成メディアを越えた独自のドメインと拡散力を持つTwitterの中に
そんな気骨のありそうなジャーナリスト達が何人かいる。

しかし彼らの語ることが“真実”なのか“事実”なのかを見極めることは難しい。
日々更新されるルポルタージュを読んでいても、多分に記者の“主観”が入り込み
自ら導き出した“真実”という名の結論に読者を誘導したいという願望のような
ものはどうしても見えてしまう。時にはそれが剥き出しになっている記者もいる。

人の数ほどに“真実”があるのならば、記者の書く“真実”もその一つに過ぎないかもしれない。
これをいくら情報の裏をとって検証したり分析しようと、納得のいく“事実”というものには
結局辿りつけないのかもしれない。

それでも、国民は本当は知りたいのだ。“事実”というものを。

では疑獄事件等の場合、この“事実”を知り得るものは判決や判例なのか。
客観的な証拠に基づき弁を闘わせその結果を裁判官という人間としての弱さを持つ者が
下す判決というものは“事実”なのか。正文化された判決文は“事実の記録”なのか。

テレビや報道で使われる言葉をよく耳を凝らして聞いてみよう。

彼らが伝えようとしているのは“真実”か、それとも“事実”か。

メディア・リテラシーというものは、結局情報の判断能力以前に
それが“真実”か“事実”かを嗅ぎ分ける能力の有無を示すのかもしれない。

そんな風に考えると、人がメディア・リテラシーを持つことなど幻想にしか思えなくなる。

(了)

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