|
生き様の確認
なんじの欲することを 人に施せ 穏やかに - ヴィンメ・サーリ (Wimme Saari) |
言霊(Quotes)
[ リスト | 詳細 ]
心に響いた言葉
姜尚中は、在日2世として熊本県に生まれた。日本名は永野鉄男。家は廃品回収の店を営んでいた。父は寡黙でまじめに働き、母は故郷の生活様式を大切にする人だった。10歳の頃、鉄男は転校生の女の子に思いを寄せる。恋に目覚めると同時に、自分が在日2世であることを強烈に意識するようになり、その葛藤悩み始める…。少年がアイデンティティーを確立していく足跡を探る。〔放送の解説より〕 「アイデンティティー」は、俺にとっても人生の最重要テーマ。15年前に帰国して以来、自ら『異邦人』と称し続けてきた俺にとって、姜尚中教授のこの言葉は重く響いた。 姜教授は、この台詞を言う前に、自らの在日二世としての生い立ちと葛藤を、こう語っていた。 この、愛すべき……もっとも愛すべき人で、その人たちによって育てられ、なおかつその人たちいると最も安心する人々。その人々が、社会からは、ある意味で「疎まれている」。 海外にいて日本のことを色々と言われるときがまさにこう。 日々、日本にいて自分自身も考えている疑問であれば、それはそれで周囲と同調して日本を批判することもある。だが、そう考えていない、むしろ日本の良いところと思っていることについては、敢然と反論する。 俺はそうやって区別してきたつもりだった。それが、海外において自分は日本人だと主張する方法であり、海外において私は純粋な日本人ではないと主張する方法でもあった。 この相矛盾する主張を行わないと、苦しくなる。 自分が自分でいられなくなるのだ。 姜教授が語っているのは、あくまで「こどものころ」の自分。成長して大人になった彼は、きっと俺と同じような方法で「自分」であり続けたきたのだと思う。 決して楽な生き方ではないが、それ以外に術がないのだ。 葛藤した少年時代を卒業し、日本人「永野鉄男」であり続けた彼は、大学以降「カン・サンジュン」と本名を名乗り、いまもその名を名乗りながら、日本に対する鋭い提言を発し続けてる。 主張し続けることが、彼であることの証。 「カン・サンジュン」であることの証なのだ。 この気持ち、生き方、痛いほどわかる。 |
|
終戦後5年が経った1950年、アインシュタインはルーズベルト大統領夫人のTV番組で、水爆開発の影響についてこのメッセージを読み上げたという。
彼は過去5年を振り返り、米ソの間で熾烈な核開発競争が行われていることに懸念を表明し、アメリカ国民に核の廃絶を訴える。そしてその中で、次のような「世界政府」の構想を発表する。
ただし こういった暴力の放棄は そして、こう結ぶ。
結局 人類の全ての平和協力は 国家間の信頼に基づく世界政府機関の創設。
彼は、そんなことを夢見ていたのだ。
そして核の廃絶も、暴力の放棄も、世界政府の創設も、
人類の平和共存と繁栄を望んだからこそ訴え続けた。
それから半世紀以上経った現在に至っても、
人類は同じ夢を見ることすらできないでいる。
(了) |
|
もう10年以上、ネットの掲示板やチャット、そしてリアルで“議論”してきた。 いつしか議論することの目的は、相手を打ち負かす(論破する)ことではなく、 議論の発展(昇華)を求めることになってきた。 ところが、これは独りよがりでは成立しない。 いかに自分が議論の「昇華」を求めていても、 相手は「論破」しようと、あるいは「論破」されまいと構え
全力で向かってくる。そうなると、こちらも迎え撃つしかない。
しかし作中で、カーネギーはこうも引用されている。 人生はまさにブーメランだ。 ならば、相手が論破しようと敵愾心を剥き出しにしても、 それに対して誠意で接したらどうなるか。必ず返ってくるか? といえば、そうでもない。というより、ほとんど返ってこない。
それは、期待してはだめなのだ。果報は寝て待て。 善行はいつかは報われるが、自分の望む時とはかぎらない。 ケンカも、同じ。 勝つことが目的のケンカでは、勝ちにいけばいい。 しかし、分かり合いたいからするケンカは、どうだろう。 勝てばよいわけではないし、負けるのもしゃくに障る。 が、「負けるか勝ち」という発想で、そしてカーネギーの 考えを応用して、臨んでみたらどうなるだろうか。
きっと、相手の信頼を得られるだろう。 そうして得た平和は、きっと得難いものとなるだろう。 そしたら、平和を大切に思うようになる。 平和を維持したいと思うようになる。 そのために工夫するようになる。 男女の関係もそう、交友関係もそう。上下関係すらそう。そして・・・ 国家関係もそう外交だって、人と人の営み。最終的には人同士の信頼感に行き着く。協議(議論)するときの目的は、国益を実現(論破)することにある。 あからさまにそれを求めては、相手も国益を守るため論破を目指す。 ではあからさまでなければいいのか、といえば外交はほとんど あからまさまでない形で相手に国益を受け入れさせる形をとる。 でも、相手も構えてるし、論破されまいと必死になる。 では、外交において協議(議論)の発展(昇華)を求めるとは、どういうことか。 それはつまり、WIN-WINの関係を目指すということ。ほら、外交にも適用できる。 WIN-WINを目指す関係というのは、つまり互いが平和を望んでいるということ。 一方を打ち負かしたいと考えていれば、この関係は成立しない。
また一方を劣等だとか、下に見ていては、相手の尊敬も信頼も得られない。
さて、「議論に勝つ方法はそれを避けること」とカーネギーはいうが では国家間の場合、これはどういう意味になるのだろうか。 少し考えてみたくなった。 (了) |
|
彼ら官僚には彼らなりの誇りがある。それは十分に理解できる。 彼らが、日本の今日の安定した繁栄を築き上げた立役者の 一部であることに異論を唱える人は、殆どいないだろう。 作中の成瀬官房副長官は、言霊の言葉を吐く前にこう言う。 政治家は選挙で落選すればそれまでだ。 彼らは、この成瀬官房副長官が言うように、国会議員とは異なる ライフスパンを持つ存在だ。だが、それはわかりきっていることだ。 議会制民主主義とはそういうシステムなのだ。それは何故かといえば 「時の権力」に権力を与えすぎないための保護措置だからだ。 しかしここに重大な錯誤が生じた。 国会議員は選挙により選ばれ、限られた任期を持つ。 それは権力の腐敗を予防するための保護措置に過ぎない。 それでも、国会議員の腐敗は実在し司法により裁かれてきた。 「時の権力」ではなく「恒久の権力」を維持してきたのは、官僚だ。 つまり日本の議会制民主主義における「権力の腐敗」の抑制は、 議会のみに向けられてきた。憲法の定めにより在職中は刑事訴追 を免れるが、失職すれば司法の裁きの対象となる。 だが作中の成瀬官房副長官が言うように、官僚は違う。 官僚には決まった任期がなく、天下りなどにより永久就職など 一般の人間が享受し得ないような完全なる保障権を保持する、 まさに「恒久の権力者」だ。権力者には相応の責任が付随する。 皮肉にも、成瀬官房副長官の自信に満ちた言葉には、こう返せる。 そう、時の権力ではなく、恒久の権力である貴方がたには
自ら「時の権力」を否定し、「恒久の権力」たる責任を持つと、 |



