kkの気儘日記

おっちらと、活きましょうか

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【老いの才覚】  曽野綾子 著   その2

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自立した老人になるための才覚の持ち方を書いた本です。

父の介護に隠岐の島に来て、自分はどうだろうか、子供たちに対してどのような老人であればよいのか考える書でした。


第一章  なぜ老人は才覚を失ってしまったのか

第二章  老いの基本は「自立」と「自律」

第三章  人間は死ぬまで働けなくてはいけない

第四章  晩年になったら夫婦や親子との付き合い方も変える

第五章  一文無しになってもお金に困らない生き方

第六章  孤独と付き合い、人生をおもしろがるコツ

第七章  老い、病気、死と馴れ親しむ

第八章 神様の視点を持てば、人生と世界が理解できる



第四章のつづき

  親にも、やはり慎みと、労わりと、折り目正しさがいると思います。

  だからといって、まともな親子ならよそよそしい関係にはなりません。

  お互い「忙しい中を訪ねてくるのは、大変だろう」

  「年老いても明るい顔をして頑張ってくれているんだ」

  という感謝と尊敬に変るのが、成熟した子供と親の関係ですから。

  親子だからと気を許して、親はほうっておいてもいい、というものでもない。  

  子供にはどんな弱みを見せてもいい、というものでもないと私は思います。


 身近な人に感謝する。  

   人間は、一日だけなら、どんないい人にもなれます。

   毎日毎晩」、顔をつき合わせといれば、お互いアラも見えます。

   いつも優しくするなどということは、なかなかできるものではありません。

   そうすると、同居していない娘や次男の嫁のほうがいいように思えてきて、

   同居している長男の嫁を疎んじたりする。

   でも、老人を引き受けているのは、

   毎日一緒に暮らしている長男の嫁という場合が多いんですね。

   私はやっぱり、身近にいる人を大切にしたい。

   いろいろなことでいつもお世話になっている周囲の人たちに、ほんとうに感謝しています。

   世間には、長男の妻に親の面倒を任せきりにしておきながら、

   「何を食べさせているの」とか「もっと優しくしてあげて」とか、

   何かと口出しをする小姑もいます。

   しかし親が、毎日面倒を見てくれている人に感謝して、

   その気持ちを表していれば、皆がうまくいくのではないでしょうか。

   お小遣をあげるなら、たまにやって来る娘や甥姪よりも、

   同居中の嫁や老人ホームで世話になっている職員にあげてほしいですね。





第五章
  
 日本では、万が一、生活が保てなくなれば、生活保護を受けられます。

  しかし、国家に頼って人の税金で食べていこうというの姿勢、

  他人のお金をあてにしなければ自分の生活が成り立たないというのは、

  どこかおかしいと思います。

 人はいきなり老人になるわけではありません、

  老後の暮らしに備えて、貯蓄はしておくべきでしょう。

  今の日本人の間違いは、古くから「備えあれば憂いなし」と言われているのに、

  備えもしない人が、かなり増えてきたことだと思います。

 分相応、身の丈に合った生活をする。

  必要なおかねがないなら、旅行も観劇もきっぱりあきらめる。

  収入は、労働報酬が一番無難です。

  美味しいものを最優先というのも、

  日ごろは節約して旅行だけは贅沢するかは、その人の自由。

  皆、自分の価値観でいいのです。

 義理を欠く 冠婚葬祭から引退する。

  収入が少なくなれば、支出を減らすのが当然です。

  しかし、食費はあまり削ると、健康によくありません。

  冠婚葬祭くらいから切るのが一番いいように思います。

  遠慮というのは、相手の立場に立つことです。

  身内の葬式でも、

  お年寄りに平気で「ちょっとでもお顔をお出しください」などと言うのは、

  残酷なきがします。


 自治体や病院によっては、扱いが悪いところもあるでしょう、

  たとえどんなひどい目に遭っても、老年のよさは、

  それほど長く生きなくても済む、ということでもあるのです。


第六章
 老年の仕事は孤独に耐えること、曽野仲で自分を発見すること。

  結局のところ、人間は一人で生まれてきて、一人で死ぬ。

  人間の過程の一つとして、

  老年は孤独と徹底して付き合って死ぬことになっているのだ、

  と考えたほうがいいのではないか。

  そして、孤独だけがもたらす時間の中で自分を発見する。

  自分はどういう人間で、どういう風に生きて、それにどういう意味があったのか。

  それを発見して死ぬのが、人生の目的のような気がします。

  一人で遊ぶ習慣を身につける。

  一人旅は、知恵を働かさないといけないし、緊張していなくてはならないから、

  惚け防止にも役立ちます。

  毎日料理することと、時々旅をすること。それは精神を錆付かせない方法です。

  生涯の豊かさは、どれだけこの世で「会ったか」によって図られる。

  人間だけではなく、自然や出来事や、

  もっと抽象的な魂や精神や思想にふれることだと思うのです。


 何も見ず、誰にも会わず、何事にも魂を揺さぶられることがなかったら、

  その人は、人間として生きていなかったことになるのではないか、という気さえします。

  どんなことにも意味を見出し、人生をおもしろがる。

  してもらうことを期待していると不満が募って、つい愚痴が出る。

  老人の愚痴は、他人も自分もみじめにするだけで、いいことは一つもありません。

  愚痴ばかり言う老人の傍には、人間が集まらなくなります。

  愚痴が日陰の感じを与えるからです。

  反対に、何でも面白がっている老人には日の匂いがして、人が寄ってきます

 異性とも遊ぶ

  男性は背骨を伸ばして、ギャラントリーの精神で女性に接する。

  男も女も毎年初々しい気持ちで身だしなみを整える。

  そうすると、健全な色気があって、お互い楽しいし、縁のある、

  気の合った他人と少しずつ共有することが出来たら、それは大きな幸福です。


第七章
 老い、病気、死と馴れ親しむ

  老人になって身に付ける「老人性」に、二つの柱があります。

   一つは利己的になること、もう一つは忍耐がなくなることです。

   年を重ねることの特徴、あるいは悲しさと言ってもいいのですが、

   程度の差こそあれ、この二つはだれにでも見受けられます。

   老齢にやや意図的に逆らって自分を若々しく保ちたいなら、まず利己心を戒め、

   耐力をやしなうことだと思います。

   若くても、他者への配慮がなくなったら、それが老人なんですよ。

   電車の中で足投げ出して座ったり、眠りこけている人は二十歳でも老年です。

   言葉を言い換えて言えば、他者への気配りがあれば七十代でも壮年なのです。

  七十五歳くらいから肉体の衰えを感じ始める

   老化する体になんとか思考と運動機能を細々と保ち続け、健康保険を出来るだけ

   わないようにすることが私の願いです。

 健康を保つことを任務にする

  病気も込みで人生、という心構えを持つ

  病人になっても明るく振舞うこと、喜びを見つけること

  病人は老人と同じように「労ってもらってあたりまえ」という精神構造に

  陥りやいので、たいていは自己中心です。

  体が辛い時やはり不機嫌にもなるし、

  「なんで自分の辛さがわからないんだ」と腹立つ。

  それは仕方のないことだとおもいます。


  しかし、長く生きたものとしての強みがあれば、そこで少しばかり、

  周囲の人たちが不愉快にならないように、内心はどうあろうと、

  明るく振舞うという配慮をしなければいけない。

 死に馴れ親しむ

   私は、生きながら人間性を失っていく人を沢山見てきました。

   大儀で口を利かなくなる、耳が良く聞こえなくなる、反応が鈍くなる。

  そうやって、老いと共に、長い時間をかけて部分的に死んでいきます。

  この部分死が存在することを承認しなくてはならないし、
  
  それが本番の死を受け入れる準備になるでしょう。

  耳が遠くなれば、補聴器をつけたりして少しは改善することが出来ます。

  しかし、もし私が歩けなくなったら、何処へも行けなくなるという意味で、

  足から死んでいくことになるでしょう。

  餌を取れませんから、動物だったらもう死ぬ運命です。

 一日一日、「今日までありがとうございました」と心の帳尻あわせをする。

  もう一つ、自分の最後を考えておかなくてはなりません。

  子供をあてにしてはいけないし、子供が先に死ぬこともあります。

  「どうにか頑張って一人で暮らします」と言っても、できない場合もありますから。

  私は、その時はお金と相談の上で施設に入れてもらうつもりです。

  常に過去にあった、いいこと、楽しかったことをよく記憶しておいて、   
  
  いつもその実感とともに生きればいい。

 これだけ、おもしろい人生を送ったのだから、もういつ死んでもいい、ということです。

  そしてまともに祈りができない時には、

  「今日まで、ありがとうございました」と、たった一言、

  神への感謝だけはすることにしています。
 


第八章
 あの世があるか、ないか、わからないが、分からないものはあるほうに掛ける

  私は、なんとなく死んだ人の視線を感じることがあります。

  視線としか言いようがありませんが、その眼差しの中で、遺族はやはり幸せになってほしい。

  亡くなった人が家族を見るとき、だれもが今まで通りに元気で暮らしてくれてているのが

  一番うれしいだろうと思います。

 引き算の不幸ではなく、足し算の幸福を

  生まれてきた時は、皆ゼロです。

  それを考えたら、わずかなものでもあればありがたいと思う。

  ああ、こんなこともしていただいた、あんなこともしていただいたという

 足算で考えれば不満の持ちようがありません。

  でも、あって当然、もらって当然と思っていると、

  わずかでも手に入らなければマイナスに感じて、不服や不満を言い始める。

  これを引き算の不幸と言います。

 最後に、自分の好きな勉強をし、社会の一部に組み込まれて働き、

  愛も知り、人生の一部を選ぶことができ、自由に旅行し、

  好きな読書をし、趣味に生きる面も許され、家族や友達から信頼や尊敬、

  好意を受けたなら、もうそれだけで、

  その人の人生は文句なしの「大成功」だった、と言えます。 

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第5章が一番悩ましいですね。
貯蓄する余裕がありません。
困ったなぁ・・・

2011/6/14(火) 午後 0:20 [ dalichoko ]

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