|
2013年12月29日南米のエクアドルでタクシーに乗った日本人夫婦が「特急誘拐」とみられる被害に遭い、男性が死亡。妻が重傷を負った。夫婦は新婚旅行中だったようで、ガラパゴス島への中継地点となっているエクアドルの最大都市グアヤキルで流しのタクシーに乗って、襲撃された。宿泊先とは別のホテルで夕食をとった後、流しのタクシーを道で拾って事件に遭った。日本人男性はタクシー内で胸に3発の銃撃を浴び、現金や所持品を奪われ妻は夫と共に車外に放り出された後に撃たれた。
かなり兇悪な手口だ。
犯人は複数いるようだ。
エクアドル政府は2000万円の懸賞金をかけて犯人を捜している。
日本政府は現地危険情報を出していたという。
料金が高いホテルのタクシーを使わず、流しのタクシーを拾ったことで事件に巻き込まれた。
被害に遭われたご本人やご家族の皆様に心から哀悼の意を表します。
早く、犯人を逮捕してもらいたい。
海外旅行注意点
・日本政府が出す海外情報などを注視
・海外個人旅行はなるべく行わない。
特に紛争地帯などへの旅行は絶対に避けるべき。
・海外での夜間外出は極力避ける。
↓日本人海外受難簿
|
旅の予備知識
[ リスト | 詳細 ]
|
|
イングランド「ケルト」紀行
アルビオンを歩く
武部好伸著 彩流社
2006年10月31日発行
イングランドはゲルマン系アングロサクソン人の地であるが、先住はケルト系ブリトン人で、イングランドにはブリトン人の足跡が 残っている。
島のケルト:中央ヨーロッパで鉄器文化を興したケルト人の一部が、紀元前6世紀以降、大陸からイギリス本島やアイルランド島へ移住し、独自な「ケルト」の文化や風習を生み出したと言われてきたのが「島のケルト」と呼ばれ「大陸のケルト」と区別されてきた。それが最近になって、一部の考古学者から、大陸から住人や物質的文化が島に渡った形跡がないという説が出された。それを決定的に裏付けたのがDNAのデータである。すなわち大陸からはケルト人は移住してこなかったのだ。しかし「島のケルト」はゲール語やスコットランド・ゲール語といったケルト語が島(イギリス本島とアイルランド島)で今なお使われていることを考えれば「島のケルト」は厳然と存在するというのが武部氏の主張である。「大陸のケルト」と「島のケルト」ではともに限りなく抽象的なデザインと様式で似通っておりまた広くドゥルイド教が浸透していることを考慮するとケルトはひとくくりにまとめられるという。
ハドリアヌスの城壁:本書では古代ローマ帝国の歴史に関して多くのページを割いている。ハドリアヌスの城壁は第14代皇帝のハドリアヌス帝(在位117−138年)によって建造された。イングランドとスコットランドの国境近辺に117キロにわたり花崗岩の城壁を巡らし北方からの蛮族の侵入を阻むのを目的に建築が行われた。建築工事にはローマ兵自らが行い、その兵士の数は15000人を数えたという。私もハドリアヌスの城壁を訪れたことがある。イメージしていたのは高く聳える城壁だったが、見たのは背の高さもない城壁でガッカリしたのを思い出した。ただ周囲の景色は羊や牛がのんびりと草をついばむ美しい牧草地であった。
ボーダーの町、カーライル はイングランドに属するが僅か12キロ北に行けばスコットランド。10世紀末から1603年までイングランドとスコットランドの間で国境をめぐり果てしなく攻防がくり返された。とりわけスコットランド独立戦争(1296〜1357年)の時代には熾烈を極め、スコットランド軍が9回もカーライルを攻撃した(うち占領したのは一度)1603年とはエリザベス1世の死後スコットランド国王のジェームズ6世がイングランド王を兼ね、両国が同じ元首を抱くようになったためである。一応これで争いも収まったかのように見えたが、その後1644−45年のピューリタン革命の勃発で王統派についたカーライルは清教徒のスコットランド軍に包囲され町が破壊された。さらに100年後の1745年にはスコットランドで蜂起したチャールズ・エドワード・スチュアートの軍勢がカーライルに攻めこんできた(ジャコバイトの乱)。このように国境近辺はいわば常時紛争地とあって治安は乱れに乱れ無法地帯と化していた。カーライルにはアームストロング家、グラハム家、エリオット家など悪名高い「リーヴァーReiver(泥棒・略奪者の古い英語)」と称する一家が現れた。リーヴァーにはイングランド人にスコットランド人がいたが双方とも家畜泥棒、放火、強盗、殺人、誘拐など狼藉の限りをつくした。両国政府とも彼らの非道な行いを黙認し何の手段も講じなかったため住人は自衛のため武装し見張り台や小さな砦などをあちこちに建てた。
マン島はアイリッシュ海の真ん中に浮かび、北にスコットランド、西にアイルランド、南にウエールズ、東にイングランドがほぼ等距離にある。マン島はイングランドに属さず自治王室保護領という位置づけである。イギリス色が濃厚でありながらそれでいて限りなく独立国家に近いのがマン島だ。イングランド北西部のヘイシャムからフェリーで行ける(3時間半)。首都ダグラスにはヴィクトリア朝の建造物が建ち並び古色蒼然としているがここはリゾート地で華やいだ雰囲気という。標高621mのスネフェル山の山頂からはスコットランド、アイルランド、ウエールズ、イングランドが一望できるようだが、武部氏がいざ出発しようとしたところ霧が発生し何も見えなくなってしまった。マン島は霧が深い場所らしい。マン島はローマの支配を受けなかったので長らく伝統的な「ケルト」の社会が保たれた。800年になってスカンディナヴィアからヴァイキングが襲来し、新たに北欧の息吹が吹き込まれた。1825年に現在の自治王室保護領となった。マン島に於いてキリスト教の中心地がモゴールドであった。ここにマンクス・クロスと呼ばれるケルト十字架がある。マン島にはケルト語の一種であるマン島語がある。
女傑、ボウディッカの反乱:ロンドンのウィンチェスター橋のたもとにボウディッカ母子の像がある。紀元43年イケニ族の領土がローマに征服された。イケニ族の王プラスタグスに嫁いだボウディッカは二人の娘を設けた。夫の死後、夫の財産はすべてローマの属州ブリタニアの主席財務官にとられてしまった。しかもイケニの国はもはや独立国ではなくその領土がローマに併合されることになった。プラスタグスの親族は奴隷にされ、王の財産と土地が戦利品としてローマに渡った。そんな悲惨な状況を見かね、彼女は主席財務官の部下や兵士に「やめてほしい」と食い下がった。それに対し兵士たちは彼女を鞭打ちにし、さらに二人の娘を陵辱する行為に及んだ。
ボウディッカの怒りは爆発し、ロ−マに対する報復を決意した。次々に彼女に従おうとする者が現れ、近くの部族にも呼びかけ軍を整え、主席財務官が駐在するロンディニウム(現在のロンドン)を襲い、破壊の限りをつくした。ブリトン人であってもローマに協力しているものを容赦せず、多くの市民も殺された。ローマの属州ブリタニアに於いて極めて重要なロンディニウム、カムロドゥヌム、ウェルラミウムの三都市がボウディッカの軍勢の手に落ちた。ここに至り、ローマ帝国の威信にかかる事態と皇帝ネロはローマの正規軍にボウディッカ軍の壊滅を言明した。こうなるとボウディッカ軍はローマの敵ではなかった。戦場にはブリトン軍の屍が累々と重なっていった。女傑ボウディッカは二人の娘に毒を飲ませ自らも自死した。反乱は完全に鎮圧された。ケルトの女性は何よりも名誉を重んじる。その名誉をけがされたボウディッカの怒りは信じがたいほど大きかった。一般市民をも多く殺害したことは行き過ぎであったが、当時世界に名だたるローマを敵に回して一時はローマを圧倒した彼女の戦績がロンドンに住む人たちに強い印象を与えたのだろう。
大英博物館の50室は「鉄器時代とケルトのヨーロッパ」という展示室。
ツノつきの兜とパターシーの盾。ローマ支配期の展示が充実しているロンドン博物館にはツノつきの兜とパターシーの盾のレプリカがある。
イギリスでストーンヘンジに次ぐ神秘的な古代の造形物といわれる
「アフィントンの白馬」の最寄り駅はロンドンから列車で西に約100kmの町
スウィンドン(列車で約1時間)にある。全長が112メートルもある。
イングランドの南部には白亜(チョーク)層が広く堆積しており、地表を掘れば真っ白な土が露出する。この一帯には巨大な白馬がいくつも描かれていてホワイト・ホース・カントリーと呼ばれている。殆どが18世紀後半からのもので、第二次大戦中はドイツ軍の爆撃の標的になるとの理由からすべての白馬に覆いがかけられたそうだ。馬ではなくてドラゴンという説もある。
私がイギリスに行きながらまだ足を運んでいないのがソールズベリーにあるストーンヘンジ。ロンドンから日帰りでストーンヘンジを見てきた妻は観光客が多くてあまり良い印象を持たなかったようだ。武部氏はこのストーンヘンジを飽きがこなくて質量感に圧倒されたという。一番重い石の重量は
45トンもある。ソールズベリー大聖堂のすぐそばにある”ソールズベリー&南ウィルトシャー博物館”のストーンヘンジギャラリーにストーンヘンジがいつどのようにして建造されたのかがわかりやすく展示解説されている。
サーンアバスの巨人は丘の斜面に描かれたコミカルな巨人。ドーチェスターから北へ11km(バスで23分)のサーン・アバス島にある。アフィントンの白馬と同様、白亜による造形物。
メイドゥン・カースルは敷地が20ヘクタールもあるヨーロッパで一番大きな鉄器時代の遺跡でドーチェスターにある。ドーチェスターの州立博物館で詳しく解説されている。
グラストンベリーはキリスト教が広まる前、ブリトン人の宗教ドゥルイド教の聖地だったとみられる。アーサー王伝説に魅了された人たちにとっては欠かすことのできない地である。大修道院跡地にはアーサー王と王妃グィネヴィアの墓がある。
コーンウォールにはアーサー王の生誕地ティンタジェル城やアーサー王最期の地スローター・ブリッジ、セント・マイケルズ・マウントがある。セント・マイケルズ・マウントはフランスの世界遺産モンサンミシェルを一回りも二回りも小さくした巡礼地である。
本著も観光案内書としても通用する。私は何度かイギリスを訪れているが、まだまだ知らない場所がたくさんある。次ぎにイギリスに行ける機会があるかはわからないが、行ってみたい場所がたくさん。時間がいくらあっても足りない。
理由がわかりませんが、画像が表示されません。
画像制限容量以内なのに おかしいな?
見苦しいのでNo Imageを削除しました。
|
|
スコットランドケルトの誘惑
幻の民ピクト人を追って
武部好伸著 言視舎
2013年7月31日発行
筆者の武部氏はヨーロッパに点在する「ケルト」関連地をほぼくまなく回ってきて、その足跡を「ケルト」紀行シリーズ10巻にまとめた。しかしスコットランドの本土だけは取材しなかったために、内心もやもやしていたそうだ。スコットランドはアイルランドと共にケルト文化圏の中でも重要な地位を占めているからだ。
そこで筆者は2010年の夏に3週間をかけてスコットランド本土の取材旅行に出かけた。その旅行のエッセンスをまとめたのが本書である。
シェットランド諸島の南約80kmに浮かぶオークニー諸島には約200ものブロッホが点在する。ヴァイキングがやってくる前の紀元前3世紀から1471年にスコットランド王国に譲渡されるまでオークニー諸島にもピクト人が定住していた。
ケルトとは:武部氏のケルトにかかる書籍をいくつか読んできたが、どうもケルトとは何かがはっきりしなかった。本著ではケルトに関してまとめてあるのでそのエッセンスを掲げよう。
かつてケルト人は中央ヨーロッパに住んでいたがローマ人やゲルマン人に追われて、ヨーロッパ各地からイギリス本島とアイルランド島へ渡っていったとされてきた。しかし遺伝子解析によってこの説は否定されたという。
そして2010年に調査報告書「Celtic from the West」において新説が発表された。それはケルト人は中央ヨーロッパではなく、イベリア半島からイギリス諸島、アイルランドにわたるた大西洋エリアで勃興したのではないかというものだ。遺伝子解析も踏まえ、青銅器時代(紀元前2000年〜同750年)にすでに大西洋沿岸の広範な地域にケルト人が定住していたと主張している。武部氏はこの説が「ケルト発祥説」の決定版と断言するのは時期尚早とし、さらなる科学的なメスが入れられるべきとしている。彼はケルトのミステリアスなところに魅力を感じているそうだが、徐々に彼が考えるような世界に引き込まれそうな自分を感じる。
謎の民族ピクト人
ピクト人はスコットランドの先住民といえる。はるか北方のシェットランドやオークニーに足跡を残しているほか、スコットランド本土の飛び地のような場所に広範に彼らが住みついていた。それはスコットランドの各地にある博物館を訪ねれば必ずといって良いほどピクト人について解説されているという。ピクト人という名は、3世紀末、イングランド北部まで進軍してきたローマ人兵士がハドリアヌス城壁の向こうにいる蛮族を称して名づけたものである。具体的には297年、ラテン語の誌の中でピクト人の名が初めて出てきた。それまで彼らはカレドニア人と呼ばれていたが、なぜ呼び方が変わったのかは不明。ピクトの語源は「彩色した人、刺青を入れた人」で、実際、体を色で染めた部族をローマ人が目撃し、詩に書き入れたかもしれないというが、本当のところは闇に包まれている。ピクト族は鉄器時代にスコットランド北部に住んでいた諸部族の子孫という考え方が有力。ピクト族の存在が際立ってきたのは6世紀以降のことで6世紀半ばにはピクト族の王も出現する。8世紀の終わりにはオークニー諸島など北部の島がヴァイキングに奪われる。そして9世紀も末になるとピクト人は歴史の闇の中に埋もれる。ピクト人は固有の文字を待たない民族であった。私がピクト
(pict)から想像するのは”picture”だ。ピクト人が刺青を入れていたらしいと言うことを会わせれば根拠は希薄だが、”picture”の語源はピクト人なのかもしれないと思った。
ピクト・ストーンはシンボル・ストーンとも呼ばれる。ピクト人の足跡を辿ると、必ずピクト人が彫った石(殆ど花崗岩)であるシンボルストーンと出会う。シンボルのない無装飾のストーンもあるが、殆どは渦巻き文様や人物、動物、楽器など様々なものが彫られている。中にはケルト十字架にグロテスクな動物が描かれたストーンもある。特に興味が惹かれたのは、ピクト人の戦いを描いたストーンの絵柄。685年ピクト人の軍勢が南から北進してきたゲルマン系アングル人を打ち破った戦いの場面を3段にわたり描いたストーン。ピクト人にとってこのネクタンズミアの戦いがよほど印象に残ったのだろう。ピクトストーンが現れたのは6世紀以降のことでピクト人が姿を消す9世紀末まで作り続けられた。このストーンがいかなる目的で作られたのかも良く知られていない。ただピクトの黎明期から衰退期にかけての過程を如実に記録している極めて重要な遺物であることは確かだ。ピクトにしてもケルトにしてもわからないことだらけで、またそういうところが興味深いところではある。なお、私がこの夏訪れたイギリス本島の最北の町であるサーソー(Thurso)にもピクトのシンボルストーンがあるとのことだ。
ネス湖畔のアーカート城:スコットランド観光の最大ハイライトされる怪獣ネッシーが棲むというネス湖畔にはピクト人が砦を築いていた。ここにキリスト教を広めた聖コロンバ(521年〜597年)が訪れている。ピクト人が歴史の舞台から姿を消した後もアーカートは砦としての機能を失わず、1230年にダーワード一族が堅牢な城を築いた。1692年になって、当時の領主グラント一族がジャコバイト派の軍勢に乗っ取られるのを防ぐため、城を破壊した。以降320年以上廃城のまま今日に至っている。
セント・アンドリューズはゴルフ発祥の地であり全英オープンの開催地としても知られている。伝承によれば、ギリシャでXの形をした十字架で磔の刑に処された聖アンドリューの遺骸がコンスタンティノープルから船で運ばれ漂着したのがこの場所だったため、セント・アンドリューズの地名ができたという。そのためブルーの下地に白いX型の十字架をあしらったスコットランドの国旗(セント・アンドリューズ旗)が生まれたという。セントアンドリューズにある大聖堂は12〜14世紀に建てられた壮大な建物であるが、1539年、宗教改革で民衆によって破壊され、今は芝地の中に伽藍の壁の一部と塔しか残っていない。
スコットランドでは2014年9月18日に、イギリスからの独立を問う住民投票が実施される。結果がどうなるか興味津々。
|
|
北アイルランド「ケルト」紀行
アルスターを歩く
武部好伸著 彩流社
2010年11月30日発行
この8月に北アイルランドに行ってきたばかりなので興味津々。旅を思い出しながらこの本を何回も読み直した。
北アイルランドはイギリスの西に寄り添うようにして浮かんでいるアイルランド島の北西部に位置する。アイルランドでありながら、南のアイルランド共和国とは別の国でイギリスに属している。
イギリス本島にあるイングランド、スコットランド、ウェールズとともに北アイルランドは連合王国の一翼を担っている。
イギリスの正式名称は「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」だ。
副題の「アルスターを歩く」のアルスターとは古代、アイルランド北東部にあった王国の名に由来している。今日のアルスター地方は北アイルランドの六つの州にアイルランド共和国の三州を加えた九つの州からなっている。従って北アイルランドはアルスターの一部であってアルスター=北アイルランドではないことに注意する必要がある。
北アイルランドというとまず思い浮かべるのはテロの多い紛争地というイメージだろう。同じキリスト教のプロテスタント系住民とカトリック系住民の衝突が背景にあるのだ。
北アイルランドの映画
北アイルランドには、そうした紛争がらみの映画が多い。最も著名な映画はキャロル・リード監督の「邪魔者は殺せ」だ。その他「怒りの日(75年)」
「エンジェル(82年)」「キャル(84年)」「死に行く者への祈り(87年)」「クライング・ゲーム(92年)」「パトリオット・ゲーム(92年)」「ボクサー(97年)」「ブラッディ・サンデー(02年)」などテーマがIRAによるテロか主人公がIRAの工作員か元工作員あるいはそのシンパということで共通しているようだ。
「世界でもっとも風光明媚な海岸道路」:アントリム海岸
ベルファストからコールレーンまでの約160kmの海岸線。とりわけ東部の港町ラーンから北海岸の保養地ポートラッシュ間ではジャイアンツ・コーズウェイやダンルース城などの名所旧跡が点在するダイナミックな光景を見ることができる。またアントリム渓谷には「ケルト」に関する伝説、神話、言い伝えが多く残っている。
巨人が創ったジャイアンツ・コーズウェイ(世界遺産)
吹き飛ばされそうな傘を必至で握りしめ、ジャイアンツ・コーズウェイまでの坂道を下っていった。15分ほどで景色が一変した。灰色の世界の中に夥しい数の六角形の石柱(柱状節理)が海のほうまで一面に敷きつめられていた。いや、石柱が岩盤に突き刺さっているというほうが的確かもしれない。見渡す限り黒っぽい玄武岩の造形物がびっしり。その数、約4万。そこに大西洋の荒波が容赦なく打ち寄せ、もはや海と一体化していた。その先端に立って振り向くと、高さ110mのシェパーズ・ステップスの絶壁が威風堂々と聳えていた。東方には、背の高い奇妙な石柱が数本突っ立っている。海に突き出たポート・レオスタンの岬だ。この光景は何度見ても圧倒される。
*武部さんは二度ジャイアンツ・コーズウェイに行かれているが、二度とも荒天で相性が良くないらしい。私は2013年の8月に行ったが素晴らしい天気のハイキング日和だった。
ジャイアンツ・コーズウェイの成り立ち
今から6000万年前、北アントリム一帯は活発な火山活動によって激しい地殻変動が生じていた。地中から流れ出した高熱の溶岩が海に押し寄せ、その時急速冷却され凝固する過程で規則正しい割れ目ができ、最小エネルギーで凝縮する正六角形の柱状節理になったという。
ロープ・ブリッジ
バリーカッスルとダンズヴェリックのほぼ中間地点にあるカリック・ア・レイドのロープ・ブリッジは巨大な岩礁と本土とを長さ20mのロープで結んでいる。海からの高さが25m。少しでも風が吹こうものなら渡るのに相当の勇気がいる。毎年4月、サケ漁のために漁師がロープを張り替えており、漁が終わる9月末まで自由に渡れる。このロープ・ブリッジを渡るのが北アントリムを訪れた観光客の”使命”となっているのだが、今日のような暴風雨まがいの天候ではとても無理。
*武部氏は2000年8月にここを訪れたが、私が観光バスツアーでここに立ち寄ったのは今年(2013年)8月の13年後。吊り橋が当時ロープ・ブリッジだった。風もあまりなく好天だったにもかかわらず、私は高所恐怖症なので渡れなかった。ここを渡るのが観光客の”使命”とはちょっと驚いた。現在は橋を渡るには5£を用意する必要がある。
ダンルース城
ジャイアンツ・コーズウェイからだと南西に8キロの所。高さ30mの巨大な玄武岩の上にドカッと根を生やしたように建っている。かなり朽ち果てているが、まだ往時の面影を宿しており、アイルランドで一番美しい城だと言われている。いかにも古城といった風情が濃厚に漂い、大西洋を背景にしたロケーションも申し分ない。この城は10世紀頃に築かれた砦を、14世紀にマッキラン一族が修復し、居城にしていたが、16世紀半ばからマクドネル一族の所有となった。スペイン艦船ジローナ号が遭難したときの金貨・財宝が1968年に発見された。1660年の王政復古後マクドネル一族がバリーマガリー城に移ったことから、城は次第に見捨てられるようになった。
ジャイアンツ・リング
ジャイアンツ・リングは英国イングランドのストーン・ヘンジやスコットランド・外ヘブリディーズ諸島のカラニッシュ、フランス・ブルターニュのカルナックなどと同じ巨石建造物。雑草が生い茂った円形の空間を高さが4mほどの盛土がぐるりと囲んでいる。その中央にドルメン(卓石)らしい黒っぽい石が積まれていた。高さが1.5mほどでいびつな形の石を積み重ねただけのように見える。このドメインは紀元前4000年頃のもので「ドゥルイドの祭壇」と名づけられている。ここでいろいろな祭祀、儀礼が行われていたのだろう。言い伝えによると、ジャイアンツ・リングは「妖精のすみか」だという。このドルメンの地下深くに妖精が棲んでいるという。古代ケルトの神々がキリスト教の到来によってもはや居場所がなくなり、次第に身体が小さくなっていったのが妖精だと考えられている。
聖パトリックゆかりの地
毎年3月17日はセント・パトリック・デーの祭りがある日。アイルランドだけでなくアメリカやオーストラリア、南アフリカなどでも大々的にお祭りが行われる。聖パトリック(4世紀末〜461年?3月17日)はアイルランドの人をドゥルイド教からキリスト教に改宗させ、キリスト教化の礎を築いた人。彼がもたらした教会制度がのちにケルト教会という名の高度な修道院文化を生み出し、アイルランドを「聖人と学僧の島」としてヨーロッパ中にその名をとどろかせた・その聖人に最もゆかりのある地がパトリック・カントリー。聖パトリック教会や聖パトリックの墓、修道院跡などがある。
聖なる都アーマー
アーマー州のアーマーは「アイルランドの聖なる都」と呼ばれている。歴史の重みを感じさせる整然とした町並みとなっている。街の真ん中の丘の上に聖パトリックが445年に建てたと言われる聖パトリック大聖堂がドカッと腰を据えている。アイルランドにおけるキリスト教の総本山ともいえる地位に君臨。
ナヴァン・フォート
古代アルスター王国の都があったとされる地がナヴァン・フォート。 直径が250mのほぼ円形で高さが30mある丘にあり、現在は遺跡らしきものが見あたらない。1960年代から発掘調査が本格的に行われ、後期中石器時代(紀元前5500年〜同4500年)の古墳と確認された。
鉄器時代(紀元前300〜紀元400年)のいわゆるケルト文明がその頂点を極めた時代の泥板岩の腕輪、ビーズ玉、青銅器のビンなどが発掘された。丘の上にはかや葺きの丸い家屋が建てられ、そこで古代ケルト人が信仰していたドゥルイド教に基づく生贄の儀式が行われていたようだ。
伯爵の逃亡
16世紀末、アイルランドはイングランドによる植民政策で土着のアイルランド人がプロテスタントのイングランド人に土地を奪われ、さらに生活・文化面でもイングランド化が進行し、ゲール文化が衰退していた。そんな中唯一カトリックのゲール人が頑強に踏ん張っていた地域がアルスター
だった。そのリーダーがヒュー・オニール。イングランド化阻止のため、イングランドと敵対するスペインの協力を得てイングランドに対し宣戦布告した。いわゆる「9年戦争」である。結果はイングランド軍が勝利し、オニールは帆船に乗って脱出した。この脱出劇は「伯爵の逃亡」と名づけられた。オニールはフランスのノルマンディーからローマに赴き、1616年にローマで永眠した。伯爵の逃亡後古いゲールの文化・慣習はぬぐい去られ、プロテスタント国家イングランドの文化がどっと流入し、英語が広く浸透していった。オニールらが所有していた広大な土地は没収され、そこへイングランドやスコットランドの移民を入植させた。「伯爵の逃亡」のあと大規模な植民政策が行われたのである。
ブラッディー・サンデー(血の日曜日事件)
それは北アイルランド紛争たけなわの1972年1月30日の日曜日にデリー州のデリーで起こった。公民権デモを行っていたカトリック系住民に対しイギリス軍パラシュート部隊が発砲、14名の死者と14名の負傷者を出した事件である。事件の3ヶ月後、事件の全責任はデモ行進を計画した公民権協会にあるとし、イギリス軍の発砲を一方的に正当化した。それから26年。北アイルランド和平に前向きなトニー・ブレア英国首相が当時の調査が不十分、不適切だったとして再調査が行われた。
オマーの大規模爆弾テロ
1998年8月15日、ティローン州オマーの繁華街で大規模な爆弾テロがあり、市民29人が死亡、200人以上が負傷した。30年に及ぶ北アイルランド紛争での犠牲者は約3600人に及ぶが、一度に29人もの犠牲者が出たテロ事件は初めて。事件の4ヶ月前に和平合意がなされたばかりの出来事だった。無差別爆弾テロを敢行したのは自ら「真のIRA」を名乗る組織で
あった。
アルスター移民
ティローン州にあるアルスター・アメリカン・フォーク・パークには18,19世紀、アルスターからアメリカに渡った移民たちの歴史と暮らしぶりを展示している。アイルランドの人口は南北あわせてもたかだか500万人なのに、
全世界に7000万人以上のアイリッシュ系住民が散らばっている。
なかでもアメリカ合衆国に4000万人が暮らしている。ジャガイモの大飢饉(1845−9年)による200万人以上の貧しいカトリック移民の話は有名だが、それより前の1695年カトリック処罰法が施行されてから「宗教的弾圧」「不作」「高い地代」「閉塞した状況」に嫌気がさしたカトリック系住民は新天地アメリカを目指した。最初のうちは冨のある人たちが移民したがやがて貧しい小作農たちも続いた。18,19世紀にアルスターからアメリカに渡った人の数は200万人にのぼると推定されている・
|




