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2008.10.26 登城
狼煙場にある物見台。
【狼烟場について】
この地は狼烟場と呼ばれ、昔より蒲原城の、東北方面を補強するための物見台、危急を知らせる狼火台が置かれたとされる伝承の地であります。
保健休養林整備事業の実施にあたり、この地に歴史的な背景を踏まえた物見台を築造しました。
この物見台に立つと蒲原城の全体が眼下に、遠く富士川河口から沼津、伊豆内浦方面、北は富士山麓一帯が展望でき、戦国時代に行われた戦の様子が容易に連想できます。
(現地案内板より。)
蒲原城鳥瞰図。
土塁。
石垣。
空掘。
発掘調査出土品。
【善福寺曲輪について】
この場所(曲輪)は、善福寺曲輪と呼ばれ本城(本曲輪)を守るための最後の曲輪として築かれたとされ、戦国時代の永禄12年12月には駿河今川氏の要請でこの城を守るために相模後北条氏より派遣された北条新三郎と駿河侵攻をねらう甲州武田氏の武田勝頼との間ではげしい戦いがあったとされる場所であります。
甲陽軍鑑より
蒲原町は、この蒲原城址を整備するにあたり昭和63年と平成元年の2年間にわたり発掘調査を行い、その結果より想定される物見台、掘切、逆茂木、木柵など築造し、遠い戦国時代の戦の様子が容易に連想されるように善福寺曲輪を再現いたしました。
(現地案内板より。)
本郭南曲輪。
本郭南曲輪からの眺望。
本郭南曲輪に建つ城山八幡宮。
北条新三郎を顕彰した碑。
【北条新三郎氏信】
北条幻庵の第2子、生年は不明であるが、没年は永禄12年12月(1569)。
兄三郎が若くして死んだためその遺領を継承す。
正室は公家西園寺公朝の娘。
1554年、今川義元・武田信玄・北条氏康らの三者同盟によって、この地方も小康状態を保っていた。 今川義元が桶狭間の戦いで戦死しすると今川氏の旧領は武田氏と北条氏が奪い合う状態になり、北条氏康から蒲原城の守備を命じられた新三郎は武田信玄との戦いに敗れ、戦死する。
生前、氏信によって建立され祐泉寺にて葬儀が行われ、埋葬された。
墓所は墓地入り口より正面北側にある。
戒名は三光院殿孝誉良玄大居士。
氏信には嫡男氏隆がいたが、北条氏滅亡後は当主氏直にしたがって高野山に入山、赦免後は讃岐生駒家に仕え、慶長14年(1600)に没した。 その後の子孫は不明。
城址碑。
【蒲原城址】
由来
蒲原城は、蒲原丘陵から孤立した城山層を要塞化した山城で、築城時期は室町時代の前期の頃か。
築城者は今川氏が駿河守護として入国した後、その一族によって築城したものと思われる。
文献上には特定の城主はなく、戦乱の折城代、城番が置かれた。 永享13年(1441)正月における牟禮但馬守範里、天文13年(1544)から同14年にかけての飯尾豊前守、永禄4年(1561)の佐竹又七郎、同雅楽助、永禄12年(1569)1月今川氏の盟友関東北条方の北条新三郎守城の折本郭を大改築したが、同年12月6日武田氏の攻撃にあい落城、蒲原城は武田方に移る。
その後、天正10年(1582)2月徳川勢による落城まで武田氏の治下にあって当地の土豪、地侍による「蒲原衆」を編成しこの地を治めたが、天正18年(1590)3月、小田原征伐の折徳川勢の着陣を最後に廃城となった。
現在小字名に残る城関係の地名には的場、狼烟場、橋台、陣出ヶ谷、根古屋、柵がある。 (現地案内板より。)
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初めまして。
今日、蒲原城行ってきました!
2010/4/11(日) 午後 1:29 [ - ]
長島駿河守さん>コメントありがとうございます。
返事が遅くなりました。;;
蒲原城行ってきたんですね。以外に整備もされてて遺構もわかりやすくて良い城でした。
2010/5/5(水) 午後 8:51