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<大納戸櫓の石垣>
関ヶ原合戦後に、小早川秀秋が築き、池田利隆が大幅に改修したとみられる石垣である。
加工をあまり施さない自然石を用いているが、上部ほど傾斜が強くなる特徴を持っている。
上には建っていた大納戸櫓は南北長20m、三階建ての雄大な建物であった。
【岡山市教育委員会】
<鉄門跡>
下の段の南側から表書院へ通じる櫓門。
木部の全体を鉄板で覆った厳しい門があった。
【現地案内板より】
<多門櫓>
石塁の上に建てられた長屋を多門櫓といいます。
大納戸櫓と伊部櫓の間には長さ37m、幅4mの平屋の多門櫓が建っていました。
壁には下見板が張られ、格子窓や石落としが設けられていました。
【現地案内板より】
<不明門>
表書院(藩庁)の南端から本段(城主居館)へ上る石段の入口に設けた渡櫓門、天守閣のある本段全体の入口を固めた大形の城門であるが、平素の出入は北端の渡り廊下を使用し、この門はほとんど閉ざされていたことから、「不明門」と呼ばれた。
明治の廃城後取り壊されたが昭和41年、鉄筋コンクリートで再建された。
【現地案内板より】
<岡山城天守閣>
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岡山城沿革
備前の国邑久から起った宇喜多直家が、岡山の地・石山の城にいた金光宗高を亡ぼして城郭を拡張し入城したのは天正元年(1573)の秋であった。
それまでは金川の松田氏に属する小城に過ぎなかったが、直家はこの城を本拠として城下町の経営に着手し、岡山の繁栄の基礎を作った。
その子八郎秀家は、豊臣秀吉の殊遇を受け、直家の遺領である備前、美作のほかに備中の内の高梁川以東をも加え、57万石をこえる大領主となった。
ここにおいて秀吉の意見に従い、石山の東に本丸を移して城郭の拡張整備を行ない、慶長2年(1597)、3層6階の天守閣が落城するにおよんで、城ぶしんは一段落した。
これがこの地に豪壮きわまりない石垣と内堀を残す岡山城本丸であって、さらに西南の平地に二の丸、三の丸などが城域を画し、近世城下町の骨格ができあがったのである。
宇喜多秀家は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに西軍の総大将となって出陣、一敗地に塗れて八丈島へ流された。
その後小早川秀秋が筑前の国・名島から移って岡山城主となったが、在城わずか2年余りで急死し、後継者がいなかったのでこの家は断絶した。
そのあと姫路城主池田輝政の子、池田忠継に備前一国を与えられ岡山城に入る。
以後池田氏31万5千石の時代が続き明治維新におよんだ。
岡山城の歴代城主と在城期間は次のとおりである。
宇喜多直家 天正元年(1573)〜 9年間
宇喜多秀家 天正10年(1582)〜19年間
小早川秀秋 慶長5年 (1600)〜 2年間
池田 忠継 慶長8年 (1603)〜 13年間
池田 忠雄 元和元年 (1615)〜17年間
池田 光政 寛永9年 (1632)〜 40年間
池田 綱政 寛文12年(1672)〜42年間
池田 継政 正徳4年 (1714)〜38年間
池田 宗政 宝暦2年 (1752)〜12年間
池田 治政 明和元年 (1764)〜30年間
池田 斉政 寛政6年 (1794)〜39年間
池田 斉敏 天保4年 (1833)〜 9年間
池田 慶政 天保13年 (1842)〜21年間
池田 茂政 文久3年 (1863)〜 5年間
池田 章政 明治元年 (1868)〜 1年間
【現地案内板より】
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登城日H26.5.4 |
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