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2008.10.05 登城
天守閣。
【小田原城天守閣】
天守閣は、城の象徴として本丸に構えられたものである。
寛永11年(1634)には、三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っている。
元禄16年(1703)の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまうが、天守閣は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていた。
現在の天守閣は、昭和35年(1960)5月に、市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したもの。
内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっている。
標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができる。
(現地案内板より。)
【小田原城 常盤木門】 本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも、最も大きく堅固に造られていた。
古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かる。
元禄16年(1703)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に、多門櫓と渡り櫓から構成される枡形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。
現在の常盤木門は、市制30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建したもので、昭和46年(1971)3月に完成した。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれている。 (現地案内板より。)
【銅 門】 天守閣へ通じる登城ルート上に設けられた、二の丸の表門。
扉の飾り金具に銅を使用していたことから、その呼び名がついたと言われている。
当時の工法により平成9年(1997)に復原。
櫓門の梁:マツ
柱・扉:ヒノキ
【小田原城跡】
戦国大名北条氏の本城である小田原城は、当時としては全国屈指の雄大な規模を誇っていたことで知られています。
豊臣秀吉が天正18年(1590)に小田原城を攻めた時には、小田原城本体のさらに外側に全周約9kmもある大外郭を設けて城下町をも包み込み、城と城下町の守りを固めて秀吉を迎え撃ちました。
これは「総構」などと呼ばれています。
江戸時代になると、小田原城は範囲を縮小され、天守がそびえる石垣の城として生まれ変わりました。
ここは御用米曲輪といい、江戸時代には江戸城に送る御用米を貯える米蔵が建てられていました。
御用米曲輪の周囲は石垣ではなく土塁で囲まれており、北条氏時代の姿を残している部分と考えられています。
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神奈川県の城
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