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山梨県の城

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2008.11.09 登城
 
 
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別名:舞鶴城
 
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遊亀橋。
 
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水堀。
 
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 石切場跡
甲府城の石垣の石材はこのような岩山からも切り出しました。
岩盤の表面には、石を切り出すための、古い技術が残っています。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 数寄屋櫓跡
城内で最も東側に建てられた櫓で、明治初年までは残っていたことが古写真でわかっています。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 稲荷曲輪門
稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ門です。
発掘調査によって、柱の跡などが見つかりました。
享保の火災でも焼けず、明治初年までは残っていたものを、平成11年に復元しました。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 二重の石垣
石垣の解体調査をすると、その背後からも石垣が現れ、積み直しをしていることがわかりました。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 庄城稲荷跡
ここには築城以前から、一条小山の守護とも言われている庄城稲荷がありました。
現在は移転して、遊亀橋の東側にあります。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 天守台
お城が建てられた当時の姿がそのまま残っています。
天守台はお城のシンボルとしての天守閣が建てられる場所です。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 稲荷櫓
城内の鬼門(北東)に位置することから艮櫓(うしとらやぐら)とも呼ばれ、江戸時代には武具蔵として使われていた建物です。
明治初年まで残っていたことが古写真などでわかっており、発掘調査でも2度にわたり建物を建築した痕跡(遺構)と、土地の平安を祈るための輪宝(地鎮具)が6点見つかりました。
今の建物は、この遺構や残っていた絵図や史料などをもとに、できるだけ当時の姿に復元したもので、平成16年に建築しました。
                                                 (現地案内板より。)
 
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櫓内部。
 
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 煙硝蔵跡
ここには甲府城の火薬庫だった建物がありました。
このような建物は全国のどのお城にもありましたが、地下構造で特別な防湿構造をもっている珍しい遺構です。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 石垣の構造
隅角部(石垣の角)には石垣の重みが集まるため、石材の長短を交互に組み合わせて積む算木積みという手法で積まれています。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 鉄門跡
天守曲輪から本丸へ通じる南側の門です。
礎石はお城が建てられた当時のものです。
                                                        (現地案内板より。)
 
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  銅門跡
天守曲輪から本丸へ通じる西側の門です。
礎石はお城が建てられた当時のものです。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 暗渠(あんきょ)
雨水などが盛土や石垣内部にたまると石垣は不安定になるので効果的に排水する必要があります。
暗渠はそのための施設です。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 【本丸櫓跡
城内の中心に建てられた櫓で、明治初年までは残っていたことが古写真でわかっています。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 内松陰門
屋形曲輪と二の丸をつなぐ門です。
明治の初めまでは残っていたものを絵図や発掘調査の成果をもとに、平成11年に復元しました。
                                                       (現地案内板より。)
 
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 中の門跡
天守曲輪・本丸へ通じる門です。
絵図には柵の門として描かれています。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 坂下門跡
鍛冶曲輪と天守曲輪・二の丸をつなぐ門です。
江戸時代の本『裏見寒話』には、城を建てる前にあった一蓮寺の門を使用していたとあります。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 水溜跡
発掘調査によって初めて確認された、水を溜めておく所です。
                                                        (現地案内板より。)
 
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 鍛冶曲輪門
鍛冶曲輪と楽屋曲輪をつなぐ門です。
明治の初めまでは残っていたものを絵図や発掘調査の成果をもとに、平成8年に復元しました。
                                                        (現地案内板より。)
 
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城址碑。
 
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甲府駅前の武田信玄公之像。
 
 甲府城跡
甲斐国は、天正10年(1582)武田家滅亡後は、織田信長・徳川家康(城代平岩親吉)の時代を経て、天正18年(1590)豊臣秀吉の支配となり、羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政・幸長親子により治められました。
甲府城は、慶長5年(1600)頃に浅野氏により完成したと考えられます。
関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川家一門が城主となり城番・城代制がしかれました。
宝永2年(1705)には、徳川家以外の大名として武川衆出身の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)・吉里(よしさと)親子が領主となり、この時期に城下町も大きく発展しました。
柳沢氏の大和郡山移封後は、甲府勤番制となり、また、大火にもおそわれ、次第に壮麗な姿は失われていきました。
明治時代には廃城となり、建物はほぼなくなり、葡萄酒醸造所が造られるなどして、明治37年(1904)に舞鶴公園として開放されました。
大正6年(1917)には払い下げを受け県有地となり、戦後の市街地復興に併せて公園整備を進め、昭和39年(1964)に都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定され、昭和43年には県の指定史跡となりました。
その後広く県民に利用されてきましたが、施設の老朽化などの理由により、昭和60年代に入り公園の改修を求める声が高まってきました。
そこで山梨県は、平成2年から舞鶴城公園整備事業を実施し、石垣の改修、園路・広場の再整備、堀の浄化、占有物件の移転、門(鍛冶曲輪門・内松陰門・稲荷曲輪門)や塀の復元、稲荷櫓の建設などをおこないました。
またそれに伴う発掘調査で、本丸や天守台の周辺からは金箔を貼った鯱瓦、鬼瓦が多く出土しました。
                                                        (現地案内板より。)
 
 
 

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2008.09.21 登城
 
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本丸があったとされる谷村第一小学校内の城址碑。
 
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小学校近くにある公衆電話BOX金鯱付でした。
 
 谷村城
享禄5年(1532)小山田越中守信有が中津森から谷村へ居館を移し、以後小山田氏3代に渡り、郡内を治める。
この居館の位置について明らかではないが、中津森館や郡内地方の館の大部分が河岸段丘や湖岸に沿って築かれている事から、桂川に面したこの近世谷村城の場所に築かれていたと考えられています。
天正10年(1582)武田家が織田信長に攻め滅ぼされると、小山田信茂も討たれ、郡内は北条氏、その後徳川氏が支配し、徳川家家臣鳥居元忠が天正18年(1590)下総に転封になるまで治め、この間、同11年8月から12月まで、服部半蔵正成率いる伊賀組が谷村の守りにあたった。
その後城主は目まぐるしく変わり、宝永元年(1704)当時の領主秋元氏が武州川越に移封すると、詰城であった勝山城と共に廃城となりました。
谷村第一小学校付近が本丸であったとされ、勝山城とは桂川を挟み内橋で連絡されていたという。
                                                        (現地案内板より)
 

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