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2008.10.25 訪問
【史跡 犀ヶ崖】
元亀3年(1572)12月22日、「三方ヶ原の戦い」で甲斐の武田信玄に大敗した徳川家康は、命からがら浜松城に逃げ込みました。
家康は、攻め返すように見せかけて、なんとか武田軍の城攻めを免れました。
その夜、家康はどうにか一矢を報いようと犀ヶ崖近くで夜営する武田軍を急襲しました。
地理に不案内な武田軍は混乱し、崖に転落して多くの死者を出しました。
犀ヶ崖は浜松城の北側約1㎞にある断崖で、三方ヶ原古戦場として昭和14年(1939)に、静岡県の史跡に指定されております。
史跡の現況(昭和60年3月現在)は、長さ約116m・幅約29m〜34m・深さ約13mです。
しかし、当時の崖の大きさや深さははっきりと分かりません。
(犀ヶ崖資料館配布パンフレットより。)
【旗立ての松】
大久保七郎衛門忠世は犀ヶ崖に旗を立てて、退却して来る味方の兵を集め、安全を確保し士気を鼓舞した。
この時、旗を立てた松を旗立の松という。
旗立ての松は現在の犀ヶ崖資料館南東の一角にあったが、昭和48年(1973)マツノザイセンチュウの被害により枯死、昭和50年(1975)8月伐採された。
【本多肥後守忠真顕彰碑】
この碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24年に建立されました。
本多忠真は、徳川家草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将です。
本多忠真は、三方原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍の中にあって、撤退に際し殿(しんがり)を買って出ました。
道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、39歳をもってこの地で討ち死にしたと伝えられています。
忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し浜松城に無事退却しましたが、父の最後を前にし友が次々と死んでゆくのを見た彼は無常を感じ、父の遺骸を三河に葬ったあと出家の道を歩むことになりました。 この碑には本多家が代々松平家・徳川家に仕えたこと、本多忠真が数々の戦で功績を残したことが記されています。
また、碑の題字「表忠彰義之碑」は、徳川家16代家達公によって書かれています。
(現地案内板より。)
古戦場石碑。 |
古戦場
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2008.10.25 訪問
【三方原古戦場】
元亀3(1572)年12月22日、徳川家康は武田信玄の上洛を阻止せんと、武田軍およそ二万五千の兵力に対し徳川軍は、およそ一万一千の兵力を以って戦いを挑み、戦闘約二時間といわれるも、結果は大敗に終わった。
これが三方原合戦である。
戦いが展開されたのは、この三方原台地であるがそのことろは定かではない。
われわれは、この三方原の一角に、この碑を建て、その歴史の場を永く後世に伝えようとするものである。
(石碑文章より。)
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