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先日更新した記事について、とある読み手の方から、日本人への配慮を欠いているのではないかというご指摘をいただいた。最後の一文の表現だ。
1年前に東北地方を中心に起こった巨大な地震は、その後に襲ってきた大津波とともに多くの人々の命を奪った。さらに、原子力発電所の事故も重なり、生き延びた人々の命を脅かしている。
そのような中、たとえ表現の矛先が外国であっても、あのような書き方をするのは不適切だという趣旨だろう。
おっしゃるとおりだ。このブログの読み手の中にも、震災で肉親を失ったり、自らも被災し苦しんでいる方がいらっしゃるだろう。そのような読み手の方に、また、このブログの存在を知らない被災者の方にも、不快感を与えたことについて、この場を借りて謝罪したい。
私は、裁判や親権の問題があってイタリアから出国できないため、かの震災を経験していない。しかし、出身は被災地に近い北関東であり、そこに肉親や友人・知人、元同僚が暮らしている。また、これまで幾度となく救いの手を差し伸べてくれた大学時代の友人は福島市の出身だ。彼女の場合、放射能の問題があるため、里帰りできない。自身の祖父母に子供たち(ひ孫)の顔を見せてやりたくてもできないのだ。
よって、身をもって経験してはいなくとも、無縁ではない。それなのに、今回のような不祥事を起こしてしまったのは、なぜか。
誤解を恐れずに言えば、時間と空間の距離の仕業だろう。実は、あの記事を書いていたとき、何か引っかかるものを感じて一瞬立ち止まったのだ。しかし、あのままにしてしまった。
日本とイタリアの距離は、航空機の直行便で13時間の距離だ。時差は、7〜8時間。シチリアの気候・風土は日本と大きく異なり、またそこに暮らす人々の容貌も生活習慣も異なる。さらに、シチリアは日本人の数が少なく、聞いた話では、パレルモにも10人程度しかいないという。フィレンツェのように、石を投げれば日本人に当たるというようなことは決してない。当然ながら、日本についての情報もごく限られたものになってくる。
そのような環境に“少数民族”として暮らしていると、日本という国や日本人がとても遠いものに感じてしまうのだ。
子供の頃、私は、東京という街がテレビの中につくられた架空の街であり、実際には存在しないのではないかと感じていた。東京に比較的近い北関東に生まれ育ったにもかかわらず、だ。
それが、受験・進学で東京を肌で感じるようになり、この街が“日常”になることで、架空の存在ではない(現実である)ことを実感したのだ。
そう、再び誤解を恐れずに言えば、今の私と日本との関係は、子供時代の私と東京のそれだ。空間の距離ゆえに、日本が“非日常”、“非現実”になってしまっている。だから、報道(直後はイタリアでもかなり大きく扱われた。)を見ても「本当に起こったことなのか?」と信じられない部分があるのだ。受け入れたくないという気持ちもあると思う。
海外在住者の中には、日本在住者と同じように心を痛めている方がたくさんいらっしゃる。思うに、これらの方々の大多数は、震災後に一時帰国する機会があり、震災後の緊迫した日本を肌で感じたのではないだろうか。また、衛星放送で日本のニュースを見ることができる環境にあれば、震災の細かな情報がリアルタイムで入ってくるため、日本にいるのと同じように震災を“日常”もしくは“現実”として受け入れられるだろう。
これはつい先日、とある日本人から聞いたのだが、震災直後のニュースで現地レポーターの背後に犠牲者の身体の一部らしきものが映っていたという。。。まさか、日本のテレビでと信じ難いが、もしも本当なら、それくらい被害が甚大であり、状況が緊迫したものだったということだろう。
このようなシーンを眼前にすれば、またテレビで頻繁に目にしていれば、“地震”という言葉や桑田佳祐氏の某曲など耳にしたくなくなるのは当然だ。
もうひとつは、時間の距離だ。
震災直後は、イタリアでも大きく取り上げられていた(むしろ、原発の方ばかり強調され、震災については置き去りにされてしまっていたが)ため、イタリア人同士の世間話(路上やバスの中など)に震災が頻繁に登場していた。また、私が日本人だということを知っている人から声をかけられたこともあった。
それが、1ヶ月、2ヶ月と時が経つと報道されることはなくなり、人々の関心は別のものへと移って行った。世界は日々動いているのであり、新しい事件(関心事)が次々に起こってくるのだ。日本と深い関係がある人(肉親が日本に住んでいる、または日本関係のビジネスをしている等)以外は、新しく、もっと身近な問題に目を向けるようになるだろう。
これは、大学時代に何かの講義(恐らく、心理学)で聞いたように記憶しているのだが、人間というものは、何か大きな出来事に接してそのことで頭が飽和状態になっても、しばらくするとそれが解消する方向へ向かうのだという。自己防衛のために忘れるようにできているということだろうか。
よって、ここイタリアでの状況は、関連する報道が減ったということもひとつの要因であるが、自然の成り行きなのかもしれない。
翻って私の場合、日本関連の情報が不足している(衛星放送を見ることができず、また日本人との接触もほとんどない)こと、今日・明日の生活もどうなるか分からないという生活をしていること、解決が難しい(しかし、この地で子供と生き延びるためには解決しなければならない)問題を複数抱えている(いまも、緊急で解決しなければならないものが2件ある)こと等のため、どうしても目先のことに関心が行ってしまい、震災関連のことは優先順位が落ちてしまうのだ。
もっと、経済的、精神的に余裕があれば、能動的にインターネットなどで関連する情報を多数集め、震災の日常性を保つことができるのだが。そして、今回のような不適切な表現をすることもなかったはずで、それを思うと、今の状況からなかなか抜け出せない自分の無力さが情けない。
ところで、今回のご指摘は、日本人向けに日本語で書いたのなら問題だというものだった。
このブログは、日本人のみを対象にしているわけではない。日本語という国際語ではない言語で書いているため、どうしても読み手の多くは日本人になるだろうが、日本人以外の人が読むことやコメントすることはやぶさかではない。
私が日本語で書いている理由は、2つだ。1つ目は、最も堪能な言語が日本語だからだ。時間に追われた生活(貧乏暇なしとも言う)をしていると、複雑な内容の記事を短時間で書き上げるには、語彙や表現がすぐに出てくる言語が適しているのだ。
2つ目は、このブログが友人・知人に宛てた“達者でやっています”報告から始まったものであることだ。これらの友人・知人の中には日本人でない人もいるが、大多数の人が辞書を引くことなく読める言語が日本語だったのだ。このブログを始めて4年になる今では、友人・知人は少数派になってしまってはいるが。
日本人でなくとも日本語の読み書きができる人はいる。YouTubeなどを覗けば、日本関連の映像に日本人でない人々が日本語でコメントしあっているものもみつかるだろう。日本文化の普及やインターネットの発達によって、日本語はもやは日本人だけのものではなくなりつつあるのだ。
ということは、だ。日本語で書けば日本人以外は分からないだろうから、彼らに配慮する必要はないということであってはならない。
地震は日本だけの専売特許ではない。1年前に日本を襲った地震は歴史に残る大被害を出したが、これと同じくらいの規模の地震がインド洋付近で発生し、インドネシアを中心とした地域を大津波が襲ったことが10年ほど前にあった。たとえ約10年前のことであっても、被災者にとっては昨日の出来事だ。今でも物心両面で傷を負っているだろう。
ややもすると、「日本語で書いているから、インドネシア人は分からないだろう。だから、彼らのことは考えなくて良いのだ。」になってしまわないだろうか?彼らの中には日本語を解する人もいるはずだし、いや、たとえ相手が解さない言語であっても配慮を欠いてはいけないと思う。
かつて、アジア系航空会社で客室乗務員をしている人が、彼女のブログの中でこのような内容の記事を書いていた。
成田に到着し、日本人でない同僚たちと通路を歩いていると、某日系航空会社の機長が部下たちを連れて歩いているのに遭遇した。彼女たちを見た機長は、蔑視の言葉を日本語で発したという。彼女は書いていた。たとえ日本人でなくとも日本語を解する乗務員はいるし、日本人乗務員も働いている。誰もが憧れるあの会社の機長は、もっとレベルが高いと思っていた、と。
航空機の機長としがないブログの書き手では、それこそレベルが異なるが、自身の考えを表現するときは、どの言語であっても万人に対して配慮を怠るべきではないと思う。このような積み重ねが、日本語や日本の国際化につながっていくのではないか。そんな気がしてならない。
たとえしがないブログの書き手であっても、書き続けるからには万人に対して配慮しなければ。もちろん、人間である以上ミスを犯してしまうこともあるだろうが、努力はしなければならないと思う。
最後に、このように考える機会と(私自身にとって)新たな視点を得るきっかけとなった読み手の方に感謝したい。
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徒然バナシ
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私の夏休みもあとわずか。ということで、暇を見つけては子供をモンデッロに連れて行っている。
さて、そんなある日のことだ。
ユウキと一緒に波打ち際を歩いていると、母親らしき女性と一緒に海からあがってきた10歳くらいの女の子に遭遇した。彼女は、どういうわけか、私たちに水をかけ、「中国人、あっちへ行け!」と言った。
私は冷静に、「私たち、中国人じゃないわ。それに、この子はイタリア人でもあるのよ。」と訂正した。
すると彼女は、プイと顔を背け、無言で立ち去り、会話が聞こえていたはずの母親も、「我、関知せず。」という感じで娘と一緒に立ち去った。
誤解のないように言っておくが、私がここで問題にしているのは、この子の母親が娘に注意しなかったことであって、私たち親子が不適当な発言を受けたことではない。
なぜ注意しなかったのか?それは、母親自身も中国人(東洋系外国人)があまり好きでなく、娘と同感だったからかもしれないし、単に、注意するのが面倒だっただけかもしれない。
外国人嫌いというのは、イタリア人に限らず、無知から来ることが多い。外国人嫌いの人の多くが、「外国人は自分たちの仕事(生活)を奪うから、けしからん。」と言う。
しかし、イタリアで働く外国人の多くは、もやはイタリア人がやりたがらない仕事に従事している。清掃、レストランの皿洗い、介護、力仕事。。等々、いわゆる3Kの仕事は、出稼ぎや移民してきた外国人が大半を占めていると言っても過言ではない。
もしも、彼らが一斉に祖国へ引き上げてしまったら、イタリア経済は潰れてしまうだろう。そのくらい、外国人労働者はイタリア経済の中で重要な存在になっているのだ。
このことをイタリア人は理解しなければいけない、とイタリア語のロザンナ先生も話していたものだ。全ては無知から来るのだから、親や学校が次代を担う子供たちにしっかりと言い聞かせるべきものだ。
しかし、周りの大人も無知であったり無関心であれば、この無知の輪は繰り返される。外国人差別の払拭には、イタリア(シチリア)社会がどれだけ啓蒙を受け入れられるか、に左右されるだろう。そう、イタリア人(シチリア人)に啓蒙は相容れないものなので、あまり期待できないのだが。。。
一方、こんな光景を目にしたことがある。
バスに乗っていたときのことだ。検札係が2名乗車してきて、各乗客のチケットをチェックし始めた。
と、彼らの1人が、肌の浅黒い青年にどこの国の出身かきき、「Vattene nel tuo paese!」とつぶやいた。
これを耳にした20代前半と思しき若いイタリア人女性が、検札係に抗議し始めた。もしもあなたがフランスに行けば、フランス人に「おまえはイタリア人か。マフィア野郎め、とっとと国へ帰れ!」と言われるだろう。だから、決してこのようなことを言ってはならない。
彼女は、父親ほども歳の離れた男性に、しつこいと思われるくらい長く説教し、それは多くの乗客が聞いていた。バスの中で検札係と言い合いをする乗客はよくいるが、これは珍しい事例だ。いつもは強気に出る検札係が、そのときは言われっぱなしだったのだから。注意を受けた検札係は、ほどなくして黙ってバスを降りた。
検札係が去った後、乗客の一人のシニョーラが、「Brava!(えらいわね。)」とつぶやいた。恐らく、誰もがそう思ったに違いない。
この彼女は、シチリアの外に出て“差別”を受け、身をもって外国人差別が良くないことを理解したのだろうか、それとも、育った環境だろうか?
どちらかは分からないが、若い世代に彼女のような人がいることは素晴らしいことだと思う。願わくば、感動するよりも、これが当たり前だと言える社会が早く来てほしいものだ。
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昨日(土曜日)、エディーコラ(新聞や雑誌を売っているスタンド)の前を通りかかると、相撲少年の写真と日本語の見出しが目に入った。
「災禍のあとの生活」とあったため、地震・津波災害とその後の原子力発電所問題を取り上げているのだろうと考え、イタリアがどんな報道姿勢をとっているのか興味があって購入した。
この雑誌は、「il sole 24 ore」という新聞と(初日は)セットで販売されていた 「IL」というものだ。
中を開けて少し驚いた。単なる震災報道、放射能汚染の恐怖をあおるものかと覚悟していたが、それらにはほとんど触れず、日本という国や日本人を理解するための手引き的な内容だったのだ。 表紙タイトルの下に、20年にわたる(経済)危機と原子力問題の勃発にもかかわらず、日本は立ち上がるだろう、という内容の言葉が書かれていた。
要するに、今回の大災害にも負けず、日本は復興するだろう。なぜそんなことが日本にできるのか?それは、日本人がこうだからだ、日本人とはどんな民族か理解しようじゃないか、ということだ。
イタリア人向けであるため、当然ながらイタリア語で書かれているが、見出しは日本語でも書かれており、執筆者陣は日本通をそろえているようだ。
なかなかユニークな特集だと思うので、以下、見出しを引用しようと思う。
伝統と力(←なぜか、相撲少年たちの写真を多数掲載している。日本の国技=相撲ということか。)
・マンガという惑星
・無の伝説
・無駄を作り出すすべての才能
しかし、神話だけでは不十分な日本
・キャプテン翼のキック
自然から文化へ、10の考察(←おや、トトロがいる!)
リーダーたるための教育(管理者養成講座の潜入レポート。ある意味、象徴的なシーンが多数。)
・笑っちゃうくらいばか騒ぎ的な
・折り目の芸術家
・ロボットだけでは不十分
イタリア人には真似ができない
扇子の要に
・スイカは四角い
・流行を生み出すブログ
広告ページを除いて17ページにわたる大特集だ。0.5ユーロで買えるので、興味のある方はエディーコラへ。
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東北地方を中心とする今回の大地震では、未曾有の被害が出ていると報道で知った。
私はテレビを見られる環境にないため、もっぱらネット経由の報道に接しているが、ひとつの町全体が更地状態になった写真や、大きな炎が街を飲み込もうとする映像を目にし、何ともいたたまれない気持ちになった。先の記事でとある方がコメントされているように、見るのが辛い。
報道される写真や映像は、遠くから撮影されることが多い。特に、災害が起きている瞬間を捉えているようなものは。よって、そこには、押し流される家屋や燃えるビルといった「モノ」しか見えない。しかし、その家屋やビルの中には、恐怖におびえ逃げ惑う人々がいるのだ。
ニューヨークの高層ビルに、イスラム原理主義者のテロリストがハイジャックした航空機が激突し、乗客乗員全員死亡、ビルも崩壊し、ビル内の従業員を含む多くの人々が命を失った事件。これも、ニュースで激突と崩壊の瞬間を目にしたが、そのようなことが頭の中を駆け巡り、ショックですべての思考が停止してしまったことを覚えている。
地震で怖いのは、その後に訪れる津波と大火事だ。倒れた建物の中で救援を待っているときに、火や水に襲われるのは地獄だ。私なら、むしろ、地震そのもので即死したい。
16年前の阪神淡路大震災では、6千人あまりの方々が亡くなったが、地震後の火事で亡くなった方も多いと思う。
今回は、10メートルに達する大津波も襲ってきたということなので、被害は阪神淡路大震災を超えるのではないだろうか。物的な被害はもちろんだが、精神的な被害もかなりのものになるだろう。
「すべてを失った。思い出も何もかも。」と答えた方がおられるそうだ。すべてを失ったショックと悲しみ、そして、これからどうなるのかという不安、慣れない避難所暮らしでのストレス等、被災地の方々が置かれた環境を想像するに、何もできない自分が悔しい。
直接被災することはなくとも、今回の地震が日本人全体に与えた(ている)ショックは測り知れない。
思えば、阪神淡路大震災が起きた16年前は、バブル崩壊後の大不況真っ只中で、就職難やリストラの嵐で人々の心はすっかり冷え込んでしまっていた。さらに、震災から2ヵ月後に東京の地下鉄でサリン事件が起こり、日本はこれからどうなってしまうのだろうという沈んだ気持ちに誰もがなっていた、そんな時代だったと記憶している。
しかし、日本人は、海外紙が絶賛するように、勤勉さ、忍耐強さ、高潔さを備えた国民だと私は思う。これは、我々日本人が持っている世界に誇る美徳であって(行き過ぎることもあるが)、金で買えるものでもなければ、どこかの経済大国からの援助物資の中に入っているものでもない。この精神でもって、難局を乗り越えることができると信じている。
今回の大震災でお亡くなりになった方々にお悔やみ申し上げますとともに、被災されたすべての方々にエールを送ります。
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このブログを読んでくれている人の中には、育児ブログ的なものを期待している人もいるんじゃないかしらねぇ。外国でのハーフの子供の育児バナシって興味深いと思うもの。 でもね、そういう記事を書いている人っていっぱいいるでしょ。だから、敢えて私が書く必要はないんじゃないって思うのよ。 それに、このブログって “ネオレアリズモ的シチリアの現実” を浮き彫りにするのがテーマ。“育児日記”って、ちと雰囲気が違うでしょ。 だから、期待してくれている人には申し訳ないんだけれど、“ほのぼの系育児ブログ”にするつもりはないのよ。まぁ、ネオレアリズモ的なものがあったり、これからイタリアで子育てする予定の人への情報提供になるものがあったりすれば書くけれど。 でも、一番大きな理由は別にあるのよ。それは、読者の中にこういうテーマが辛い人だっているんじゃないかっていうこと。 このブログを読んでくれている人の多くは、独身の女性が多いんじゃないかって思うのよ、コメントしてくれる常連さんと読者全体の傾向が同じならね。だから、“欲しいのに授からない”人の辛さってピンと来ないかもね。でもね、一見すると万人受けしそうな育児バナシは、こういう人たちの心を傷つけてしまうものなのよ。 こんなこと考えるのは、ある経験があるから。高校時代の友人にTっていう子がいるのよ。大学時代に学生結婚した彼女は、めでたく懐妊。でも、産科検診で胎児が育っていないことが分かって、泣く泣く中絶(>_< ![]() それから数ヶ月経ったある日のこと、彼女から「最近、時期的にちょっと落ち込み気味なの・・・。」っていうメールが来たのよ。まだ独身だった私には、妊娠&出産って遠い存在だったもんだから、何も考えずに「えっ、何のこと?分からないんだけど?」って返信したのよ。 で、それから数日後、共通の友人に会ったら「この前Tに会ったけど元気なかったよ。本当なら今頃は生まれていたもんね。」って。 あ〜〜〜、やっちゃった〜(>_< って思ったわ。自分のことで精一杯だった私は、意図せずに彼女を傷つけていたのよ。 彼女は人を恨むタイプの性格じゃないから、その後も何も変わらずに私と友達でいてくれたけど、かなりかなり辛かったと思うし、彼女を気遣って上げられなかった自分を責めたのよ。 その後、彼女は何回か妊娠したけれど、残念ながら流産。「私は、妊娠は出来るけど、流れやすい体質なのかも。」って気丈にも言ってはいたけれど、本当は絶対に辛かったと思う。あるとき、「子供が一緒に写っている年賀状をもらったりするとため息が出る。」っていうようなことを漏らしたことがあったものね。 だから、Tへの「あの時はゴメンね・・・。」っていう気持ちもあって、育児関係の記事は“条件付き”で書こうと思うのよ。読者のみなさんも、わたくしジャコミーナがこんな気持ちで書いていることを頭の片隅に入れて読んでくれるとありがたいわ〜。 |





