三河國の大相撲錦絵場所

相撲の錦絵はどのぐらいあるのだろうか

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 境川の4点目、今回は着物姿の境川です。新大関の明治3年(1870)4月場所、増位山から境川と改めた1場所だけ、増位山時代に名乗っていた大四郎をそのまま使用。次場所から通り名の浪右エ門となる。
 堂々たる恰幅の関取姿。バックの風景は「東都地名尽くし 本所一ッ目」とあり、遠景に富士山と、大川(隅田川)が見える。力士仲間の面倒見が良く、一ッ目の大名大関と慕われた。

 一雄斎国輝画(二代国輝) 両国太平版 慶応2年4月印
 
なお、この絵は当初慶応2年3月場所四方山から増位山と改めた場所に摺られたもので、新大関の場所改名とお抱え替えに伴い、版を改めて出されたものです。

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 今回は境川の横綱姿です。大関を7年13場所の長きにわたり勤めてきたが、明治9年10月横綱を免許された。この絵は大関昇進時に出され、26日に紹介した境川の「化粧廻し姿」の板木を使い、横綱と5本のシデを彫り加えました。そのため、真ん中のシデの一部が鳩八の印紋にかかり不都合が生じたために、鳩八の印紋をいじりなにかぼやけた鳩になつてしまいました。
 横綱免許の大関として4年8場所勤め、明治14年(1881)1月場所限りで引退。年寄専務となったが、一門の巡業では断髪後のザンギリ頭で横綱土俵入りを演じ、その姿は錦絵に残されている。 

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 昨夜、丸善で展示した錦絵史料無事戻る。会場に置かれた「芳名録」にサインしてくださった方々のお名前を拝見し、忙しい時間を割いて県内外から見に来てくださったことを知り、感謝多々。
近頃はこの「芳名録」も個人情報なんとかに触れると聞かされ、こちらは訪れてくださった方のお名前を知り、お礼を伝える目安との純粋な気持ち。いやはや、へんな事になって来ました。

画像の化粧廻し印紋は鳩の親子が向かい合い八の字になっていて、鳩八と呼んでいる。今回名古屋での展示ということで、尾張藩お抱えの化粧廻し姿の力士たちをまず前面に据えました。境川は鳩八紋の化粧廻しを最初に締めた力士として知られる。なお、この鳩八紋は後に名古屋市の丸の中に八の文字が入った市章のもとになったと伝わっている。
姫路藩のお抱えで増位山大四郎といっていたが、明治3年(1870)4月師名の境川に改め、同時に尾張藩にお抱え替えになった。

二代国輝筆 両国太平版 明治3年4月印

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 今月18日から今日24日まで1週間、名古屋・栄の丸善で私の持っている
錦絵から「愛知の相撲錦絵展」を開催。
愛知県出身の力士、行司、愛知に関係のある力士など36点を展示。
皆さんに御覧いただき、無事閉幕しました。
 御覧になれなかった方に、ブログで紹介していきます。

 尾張徳川家拝領の鳩八印紋(しるしもん)の付いた横綱土俵入り用
三つ揃いの化粧廻しをつけ、太刀持ち、露払いを従え、堂々の横綱を
する境川。明治9年(1876)10月五条家より横綱を免許された。
千葉県市川市出身。

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 いまからおよそ40年ほど前、市内の古本屋さんで求めた3点の内の1枚。
この絵が相撲錦絵探しの旅の始まりでした。
 さて、「小野川才助」といえば寛政の谷風の好敵手、小野川喜三郎
その人か。のちに才助と改めている。
当時の私はこの程度のことしか判りませんでした。
そのころ手にした酒井忠正著「日本相撲史・上卷」をめくり、やっと
探し当てた小野川は時代も下り、幕末の安政5年(1858)11月場所入幕の
虹ヶ嶽杣右エ門(にじがたけ そまえもん)。鬼面山、陣幕、大鳴門と
ともに「阿波四天王」とうたわれた力士と判りました。
 万延2年(1861)2月場所、久留米藩にお抱え替えとなり、藩ゆかりの
「小野川才助」を襲名。関脇、小結を勤め、明治維新前に古巣の
京都相撲に戻り、京都相撲の初代横綱となる。
 二代国貞の作品で、改印は文久元年(1861)12月印。版元は両国太平板。
虹ヶ嶽から小野川に改名したその年に発行されている。

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