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本殿扉に刻まれた紋章・・剣花菱



イメージ 1 【本殿扉】


○剣花菱紋と郡上鷲見氏


 本殿扉には、十六菊の紋と五七桐の紋、そして一番外側には「剣花菱紋」が掘り込まれています。
高賀山の麓をぐるりと取り巻くように配置されている星宮神社や新宮神社、本宮神社などは、十六菊の紋と五七桐の紋が社殿の屋根などに記されていますが、剣花菱紋が神社に記されているのは高賀神社だけのようです。

 剣花菱紋と高賀神社との関係を調べてみると、中世以降、美濃国郡上の御家人鷲見氏(鷲見氏の家紋は代々丸に剣花菱である。)との関わりが考えられます。


イメージ 2 【紋】



 郡上市那比新宮神社にある大般若経の第581巻の奥書(正慶二年)には、次の内容が綴られています。

「正慶二年之二月三日未時許、書写畢、楠木正成於金剛山構城郭、応党宮御軍之最中成り」

この内容は、正慶二年(元弘元年・1331年)二月三日午後二時に大般若経の書写が終ったことを書き記した終りに、楠木正成は金剛山に城を構え、大塔宮(護良親王・・後醍醐天皇の子)は合戦の最中であると書き記しているのです。この奥書の文字は、ただ単に風評を添書したものか、或いは、それ以上の意味を込めているのかは議論の余地はありますが、単なる偶然の文字ではないように思われます。


 大塔宮は、元弘二年(1332年)十月に吉野で挙兵してからは、各地の寺社に味方するよう書状を出しています。その中には、播磨の大山寺や、紀伊の粉河寺などがありますが、大塔宮の書状は美濃の高賀山も含んでいたと考えられます。

 そのころの高賀山一帯は、修験者の道場であり、さらには当時有力な新興宗団であったからです。

こうした集団を、大塔宮は陣営に引き入れようと苦心していたはずであり、美濃の高賀修験団を見落とすはずもありません。

この時の情報が、写経の奥書の文字となったと考えられるのです。高賀の修験者たちは、当時新興の虚空蔵菩薩を信仰とする集団であって、既成の権力とは関係が薄かったため、大塔宮の働きかけも強かったと想像されます。


 ここで元弘三年、大塔宮の指令を受けて参戦した御家人が、美濃国郡上北部を本拠とする鷲見藤三郎忠保です。

鷲見氏は早くから後醍醐天皇側に味方しており、高賀山の修験者たちとも関係があったのではないか、その関係を示すものとして、高賀神社本殿の扉に、鷲見氏の家紋である剣花菱があるとしたら、鷲見氏と高賀山の修験者との密接な関係が浮かび上がってくるのだと考えます。


 ただ、郡上の鷲見氏と高賀山の修験者との関わりを示すものは何も残されておらず、詳細は不明、鷲見氏は建武の中興後、美濃の守護土岐家の傘下に入っており、土岐家は足利方であったため、北朝方の軍勢として延元元年(1366)京都へ出陣しています。

 その後、鷲見氏の動きを見ると同じく郡上の東氏と組んで、南朝側の尾崎宮と関、旧武儀郡、長良あたりで交戦し、尾崎宮(高倉天皇の玄孫)の軍勢を敗退させているのです。
大塔宮(南朝側)に頼られていたはずの高賀の修験者達も、親交のあった鷲見氏と敵対する南朝の尾崎宮に援軍を送ることも出来ず、歴史が流れてしまったのではないかと考えられるのです。


 高賀山を取り巻くようにある高賀六社を見てみると、鷲見氏と近い郡上の本宮、新宮、星宮神社には、剣花菱紋はどこにも見えず、郡上と反対側の高賀神社だけに見受けられるのです。


その点については、郡上の中心から南部を納めていたのが東氏、後に遠藤氏といった有力な武将が勢力を持っていたため、郡上の北辺の地の鷲見氏としては、東氏等の影響力が及んでいない高賀山の西側洞戸にある高賀神社、高賀の郷を拠点としている修験者らとの関係を構築して、都の情報を確保する拠点としていたのではとも考えられるのです。



○洞戸の鷲見姓は郡上高鷲がルーツ!


 現在、高賀地区に鷲見姓はないが、洞戸地区には何件かの同姓があり、家紋は丸に剣花菱です。
 その鷲見家は藤原北家の祖である藤原房前をルーツとしています。

 そして鷲見家は、昔高賀にあったと伝えられていて、現在は美濃市乙狩にある大洞山金谷寺(臨在宗妙心寺派)の檀家であるということから洞戸に残る鷲見家は、その昔郡上の高鷲から渡ってきた鷲見氏の系統であると思われます。



○高賀に移り住んだ鷲見氏の目的は・・・


 それでは、鷲見氏がいつ頃高賀の郷に入り込んできたかと考えると、南北朝の時代、鷲見忠保、あるいはその子鷲見禅峰(干保)の頃ではと推察されます。

 ちなみに、鷲見氏の最も活躍した時期が南北朝時代で、それは忠保、忠保の子禅峰のころ、その内容は、観応三年(1352)、禅峰は尾張大山寺合戦に功を立て、同年熱田宮口の合戦にも奮闘しています。

 また、文和元年(1352)伊勢国に従軍し、阿波坂・同中村口の合戦で戦功を立ててもいるのです。

 その後、美濃国守護土岐頼康の死後、世継問題で一族の間に争いが起こった時に、幕府は、鷲見禅峰に土岐家の養子土岐康行を討たせています。

 
 鷲見氏の活躍は、美濃国内ばかりか、尾張、伊勢の国にも及んでおり、郡上の最北端に根拠地を持つ一守護が、これだけ広範囲に活躍できた背景には、郡上意外の地各所にそれなりの拠点が必要であったと考えられます。
 南北朝時代、その拠点の一つが、高賀の宮とそこを本拠として当時一代勢力を誇っていた高賀修験者団であったことは間違えないと言えます。

 そして、鷲見氏はさらに勢力を美濃国南部に広げていきます。鷲見美作守保重は、鷲見氏の菩提寺として、岐阜市山県北野にあった天台宗の寺を、雲黄山大智寺(臨在宗妙心寺派)として明応9年(1,500年)に再建し、鷲見氏の新たな拠点としています。その後、保重は美濃国守護代斎藤氏との関係が悪化し、永正七年(1510)斎藤利良は北野城に攻め寄せ、保重は敗れて自刃。このとき、殉死者が十三人に及んだと言われています。


イメージ 3 【鷲見美作守保重が再建した雲黄山大智寺(岐阜市山県北野)】

その後も鷲見氏の動きは複雑で、天文10年(1541)鷲見貞保の時代には、東氏に攻められ洞戸方面へ落ち延びて来ていますが、おそらく高賀修験を頼っての動きだと考えられます。

鷲見氏の最後は、斎藤氏に仕えていたが、永禄10年(1567)織田信長に攻められた後、高富を経て郡上へ落ち延びていくかたちとなって、「武勇に長けた」と評されてきた鷲見氏の、歴史舞台からの降板を見ることとなります。


 郡上高鷲の鷲見氏一族が、中央勢力と関わって美濃国で勢力を張っていく手段として、高賀の宮と、その修験者たちが巻き込まれていったのではと考えられ、その唯一の証として、高賀神社本殿扉に刻まれた家紋、「剣花菱紋」が残っているのだと言えるのです。








 

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    前にこの鷲見氏の話を聞いたような気がするな。
    確かに郡上の白鳥、高鷲あたりには鷲見という名字が多いけど。
    本宮神社と考え合わせると、高賀との繋がりも捨てがたいし。

    私の家も古くて私が十代目なんやけど、数えても江戸末期だろうし、この鷲見氏とは関わりがないはずなんだよな。
    でもね、うちの家紋は丸に剣片喰なんよ。だから関係ないね。

    [ taki ]

    2012/12/22(土) 午後 9:21

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    家紋で歴史が読めてくるか??高賀に秘められた歴史にナイスです。

    [ 雄明丸 ]

    2012/12/23(日) 午後 0:05

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  • こんばんは♪
    身近な所ではあまり気にしたことが無いのですが、洞戸には深〜い歴史があるのですね!ナイス

    岐阜であそぼ!

    2012/12/23(日) 午後 8:44

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    家紋が語る歴史ですか。

    興味を魅かれる話しです。ナイス!

    houzan

    2012/12/24(月) 午後 3:04

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    夏林人さん< 修験者は歴史的な書物を殆ど残していませんし、明治の廃仏運動で貴重な資料が焼かれてしまっていますから、歴史の解明が難しいのでしょうね。

    got*t*711

    2012/12/24(月) 午後 6:00

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    定次郎さん< 中世から戦国の、郡上の武将たちの動きは実に複雑ですね。 鷲見氏の動きには特に興味があります。
    一度、高鷲村史を拝見してみたいと思ってますが、定次郎さんは持ってませんよね?

    got*t*711

    2012/12/24(月) 午後 6:07

    返信する
  • 岐阜に多い苗字ですか?鷲見さんという社長と取引がありました。そういえば美谷の生ゴミ処理機も鷲見社長の紹介です

    熱田北条

    2012/12/25(火) 午前 0:07

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    神聖丸さん< 日本の家紋は、実に多種多様で、数の多さでは世界でも類を見ないほどではと思います。
    そんな家紋にこだわる、日本人の歴史って、結構面白いものですよ!

    got*t*711

    2012/12/26(水) 午前 0:08

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    岐阜であそぼさん< ナイス、ありがとうございます。

    今まで、不思議思っていても、誰もそれ以上のことは知らないし、何も残っていないというのが、地方の伝説や歴史なんですね。
    そういうものを掘り起こして行くことは、結構面白いですよ。

    got*t*711

    2012/12/26(水) 午後 10:09

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    houzanさん< 日本の歴史、特に中世以前は、解っていない事が実に多いです。美濃地方の一地域の歴史も十分にわかっていないことが沢山あります。
    少しずつ、自分なりに解明していけれると面白いのですが!

    got*t*711

    2012/12/26(水) 午後 10:17

    返信する
  • 郡上白鳥だったかに今はあるかどうか分かりませんが鷲見病院だったかあった気がしますが記事を拝見していてあのあたりは鷲見姓が多いのかな?なんて思いました。
    高賀山を中心とした文化が関係しているのかな?なんて思いました。

    g2lens★赤影

    2012/12/27(木) 午後 9:47

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    熱田北条さん< 鷲見姓は、郡上市や山県市に多く見受けられますよ。
    元を辿ると、藤原一族から派生した武勇の氏族のようです。

    got*t*711

    2012/12/27(木) 午後 11:37

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    赤影さん< そうですね、私も良く目にしていましたのでその病院は知っていますよ。鷲見姓は、郡上市の高鷲方面に多いのではと思います。
    高鷲では、「大鷲」を退治した武将が朝廷から拝領した姓が「鷲見」だったとか言う伝説があるようです。

    got*t*711

    2012/12/29(土) 午後 6:01

    返信する
  • 藤原系ですか。熱田家は尾張の藤原系も血か混じりました。北条氏を養子に迎えたというのが真実のようです。それは鎌倉幕府滅亡後です。尾張氏系藤原氏が熱田大宮司のときがありました。

    熱田北条

    2012/12/30(日) 午後 11:51

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    非常に興味深いお話です。古社の扉に僅かに残された神紋によって、歴史パズルのピースが見事につなぎ合わされる訳ですね。ナイス

    [ nir*k*ai ]

    2012/12/31(月) 午前 6:34

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    熱田北条さん< 藤原氏は、古代日本の政に深く関わっています。
    政治や宗教などあらゆる要職に一族を張りつけていっていますから、熱田家もその血が入っているのでしょうね。

    got*t*711

    2012/12/31(月) 午後 4:41

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    nir*k*ai さん< はっきりとした古文書もなにも残っていませんので、あくまで私の推察です。
    ナイス、ありがとうございます。

    got*t*711

    2012/12/31(月) 午後 4:49

    返信する
  • とても参考になりました。 名門 鷲見家!
    会社や取引先でたまにいらしゃいます。親切で皆さんから慕われ、上に立つ方が多いイメージがあります。

    [ zfj**290 ]

    2018/8/23(木) 午後 10:25

    返信する
  • [ zfj**290 ]

    2018/8/23(木) 午後 10:26

    返信する
  • > zfj**290さん

    姓からルーツを探るのは、とても面白いと思います。

    鷲見氏についても、郡上誌を紐解けばもっと詳しく解るのでしょうが、いろんな事柄がリンクしてきて、地方の歴史もなかなか奥が深いです!!

    got*t*711

    2018/8/24(金) 午後 10:34

    返信する

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