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隠山と近世洞戸の禅

洞戸で育った 隠山惟琰(いんざんいえん)


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▲隠山画像
   
・生まれは郡上市石徹白、白山神社の宮司杉本伝右エ門の子。(1751年〜1814年)
・宝暦9(1759)年、隠山9歳の時、興徳寺(関市洞戸市場)の老山(ろうざん)のもとで修行を始める。そして、16歳まで興徳寺で修行をし、その後老山のもとを離れ、岐阜の瑞昌寺、武蔵国永田の宝林寺で修行を重ね、26歳で雲水として諸国暦参の旅に出る。            
・30歳で洞戸に戻り、梅泉寺二世住職となる。
・41歳で、梅泉寺の住職を務めながら、当時臨済禅の中興の祖と仰がれていた白隠(はくいん)の禅法を、我山(がざん)より得とくする。
・47歳で梅泉寺を明峰に譲った後、高富の堅相寺、岐阜の瑞龍寺、鶴棲院など多くの寺院を再興し、57歳で光格天皇より紫衣を賜う。翌年には、京都妙心寺開山の関山慧玄(かんざんえげん)450年法要の導師を務める。
・64歳で亡くなった年には、光格天皇より「正灯円照禅師」の勅諡号(ちょくしごう)を賜う。


隠山が修行した寺・・興徳寺

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・万治三(1660)年に大仙庵と言われていた堂庵を、太源祖徹(たいげんそてつ)が開山となり、岐阜市鏡島の瑞甲山乙津寺 第八世蘭友祖善(らんゆうそぜん)を勧請開山として大仙山興徳寺を創建。当寺は修行場として多くの雲水が訪れた場所でした。

・興徳寺第五世曇霊(どんれい)は当時、臨済禅中興の祖と言われる白隠と並び評せられていた古月(こげつ)の禅法を継いだ。

 洞戸の山中で、当時九州の名僧と言われた古月の禅法を勉強して、その教えを会得したとは、情報手段 の乏しい当時、どうやって勉強したのでしょうかねぇ。・・それだけ、多くの人や雲水、それに物資の 往来も想像以上に多かったのでしょうね!


・隠山の育ての親とも言うべき興徳寺第六世の老山は、雲霊の禅を学びつつ隠山を育て、後に、武藤家の菩提寺である梅泉寺の開山として、興徳寺から梅泉寺へ移る。興徳寺で修行した隠山は、古月や白隠といった近世日本の臨済禅を代表する教えをここ洞戸の地で学んだ。


隠山が最初に住職となった寺・・梅泉寺

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▲観音堂のみを残した梅泉寺跡地

・寺の起こりは寛延二(1749)年八月、洞戸の豪商、武藤嘉右衛門と、その弟文蔵の二人で、亡き父とその子(武藤家六代目瑞峰宗現上座、俗名紋右衛門とその子、早くして亡くなった梅嶺正香、俗名甚兵衛)の菩提を弔うため寺を建立した。(寺の山号の「瑞宝山」は紋右衛門の戒名から、寺名の「梅」は甚兵衛の戒名の一時を取ってつけられている。)

・勘請開山として興徳寺第五世の曇霊、開山が興徳寺第六世老山で、第二世に興徳寺で修行した隠山が住職を務め、後に隠山は白隠の禅法を継ぐ。

・当時、洞戸の一商人が一代で寺院を建立し、さらにその寺の鎮守として金毘羅神社をも建て商売繁盛を祈願しています。

・梅泉寺境内には、全国でも類を見ないほどの型の整った「最勝王経塔」があり、石柱四面にはびっしりと、同塔の建立にまつわる経緯が刻み込まれています。


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▲最勝王経塔(本堂跡の裏山に建立)

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●整然と並ぶ梅泉寺境内の石仏群の中には、隠山を初めとする歴代和尚が建立した「石写大乗妙法典経塔」が六基あり、これほどまでに石写大乗妙法典経塔が多く残っているのは、全国でも珍しく、洞戸の禅の特徴ともいえます。

石写大乗妙法典経塔:玉石の一つに一字ずつお経を書き、それを埋めて供養、所願成就を祈願したもの。
昔の人は、本当に根気があります。・・現代人は見習うべし。

いずれにしても、全国でも珍しい石像仏が残されていることは、洞戸の豪商武藤嘉右衛門の財力が想像を超えるものであったこと、また、 東西両雄の白隠、古月の禅法 が洞戸の禅寺で合流しており、多くの雲水が修業に訪れていたこと、さらには、 白隠 までもが雲水の時代に、菅谷の保福寺第五世南禅の下で修業をしており、当時の臨済禅をリードする禅文化の発信地が、ここ洞戸であったことを物語るものです。


白隠慧鶴(はくいんえかく)(1685〜1768)


駿河国原宿(静岡県沼津市原)の出身、名は長沢岩治郎。
十五歳のとき松蔭寺で出家、十九歳より旅に出て修行し、五百年間に一人と言われるほどの高僧となり、後に臨済禅中興の祖と仰がれるようになった。禅画を好み、釈迦、観音、達磨などを描き、現在各所の寺院に多数保存されている。また「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」とも歌われた。
明和五年(1768年)八十四歳で示寂、後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号(おくりごう)を、また明治天皇からは正宗国師の諡号を賜った。
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▲白隠が修行に訪れた保福寺(関市洞戸菅谷)


古月禅財(こげつぜんざい)(1667〜1750)


九州日向(宮崎県)の出身
「西に古月、東に白隠」、「鎮西の古月、東海の白隠」と言われたほど有名な禅僧。近世臨済禅の双璧として古月、白隠が常に並び評されてきた。
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▲古月が興徳寺の曇霊に与えた「般若窟」(興徳寺蔵)
               
※ 現在、臨済宗の約六割に当る3,400の寺院が妙心寺派であり、その妙心寺派の教えは、白隠の禅法を継いだ隠山と卓州(たくじゅう・名古屋 総見寺)の二人に受け継がれ、現代に至っています。現在ある妙心寺派の寺院は、隠山、卓州のどちらかの禅法を継いでいるのです。



隠山の略年


宝暦元 (1751)年 ・郡上郡石徹白(現在の郡上市白鳥町)で生まれる。
宝暦九 (1759)年 ・興徳寺で修行を始める。(隠山九歳)
明和三  (1766) 年 ・十六歳で老山のもとを離れ、岐阜瑞昌寺の万国和尚のもとで学ぶ。
明和六  (1769) 年 ・十九歳、武蔵国永田の宝林寺、月船禅慧(げっせんぜんえ)のもとで修行
安永五  (1776) 年 ・二十六歳、雲水として諸国歴参の旅に出る。
天明元 (1781)年 ・三十歳で老山の跡を継いで梅泉寺二世となる。
寛政四 (1792)年 ・四十一歳、白隠の法系を継いだ峨山和尚に印証を受ける。
寛政九 (1797)年 ・四十七歳、高富の堅相寺を再建し、梅泉寺を明峰道質(みょうほうどうしつ)譲 る。(隠山の名声を聞き、堅相寺へ集まった雲水は五十名にも及んだ。)
同      年  ・梅龍寺(関市)で講義を行う。
寛政十一(1799)年 ・梅泉寺で講義を行い多くの雲水が集まる。
文化元 (1804)年 ・五十五歳、堅相寺を経岩祇典(きょうがんぎてん)に譲り、播州の松源寺住職となる。
文化三 (1806)年 ・岐阜市瑞龍寺を復興。(参集して修行に励んだ雲水七十人。)
文化四 (1807)年 ・興徳寺で講義を行う。
文化五 (1808)年 ・五十八歳、光格天皇より紫衣を賜う。
文化六 (1809)年 ・妙心寺おいて開山の関山慧玄450年法要の導師を務める。
文化八 (1811)年 ・六十一歳、鶴棲院(岐阜市)を中興。 文化十一(1814)年 ・四月二十九日、六十四歳で示寂。鶴棲院に墓所がある。
同      年  ・光格天皇より「正灯円照禅師」勅諡号(ちょくしごう)を賜う。                        
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▲隠山が再興した瑞龍寺(岐阜市)

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▲隠山の墓所がある鶴棲院(岐阜市)

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梅泉寺跡と石仏 その2

石写大乗妙法典経塔


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◇隠山和尚の建てた経塔

石写大乗妙法典経塔( 一字一石経供養塔 )とは、一つの石に一文字ずつ経を書いて、その石を埋めた上に塔を建てたものです。


紙に経文を書いて、土中に納めてもいいのですが、末代までの供養のしるしと、半永久的に経文を残すことを目的とした場合、石に文字を書くことが最良と考えられていたのでしょう。


この梅泉寺跡にある石仏には、 六基 もの 「石写大乗妙法典経塔」 があり、建立時期は江戸中期から明治初めのものです。

それにしても、一つの寺院の敷地内にひこれだけの数の「石写大乗妙法典経塔」があるとは、全国を見回しても稀なことだと思います。

中には、「梅泉寺跡と石仏 その1」でも書きました、現代の臨済禅の基礎をつくった' 隠山 'が建立した経塔もあります。

石材は、どれも信州は 高遠 の良質な石なのだそうで、石工も当然のように、当時の最高の技術集団とうたわれた「高遠の石工」の作品ばかりのようです。

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それにしても、江戸中期から明治初期にかけて、これだけの一字一石経供養塔を建てるだけの財と信仰心の篤さがあったことは、美濃国山中の' 洞戸 'の特異性と、' 禅文化 'の水準の高さを物語っているように思えてなりません。
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最勝王経塔


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梅泉寺跡にある観音堂の裏山の中腹に、 「最勝王経塔」 があります。
形からすると「宝きょう印塔」に見えるのですが、「最勝王経塔」としっかり刻まれているので間違いないでしょう。 

この塔は、当時梅泉寺の住職であった瑞岩祖陽(ずいがんそよう)が天保九年に建立したもの。


天保九年と言えば、天保の大飢饉があった頃。 洞戸地域も天候不良による食料不作で、飢餓に苦しむ人々が多く居たようで、衆生の救済を祈り、世の中の安泰を願って建立したものではと思われます。

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塔の中央にある石柱には、四面にびっしりと文字が刻まれていますが、漢文なのではっきりと意味が読み取れません。・・・勉強不足です。


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◇最勝王経とは
正式には『金光明最勝王経』と言って、四天王による国家鎮護の教説を含んだ経典で、10巻から出来ています。  
奈良時代、聖武天皇が全国に国分寺、国分尼寺を建立してこの経典を納め国家鎮護を祈ったとされています。


◇梅泉寺と 隠山 : 以前ブログで紹介しています ・・(http://blogs.yahoo.co.jp/go003322/29631532.html)
この寺で、中世臨済禅の名僧と言われる 隠山惟琰 (いんざんいえん1751年〜1811年) が、梅泉寺二世として住職を務めています。
のちに岐阜市の瑞龍寺をはじめ多くの寺院を再興、さらに文化五年(1808)には 光格天皇より紫衣を拝領し、翌年文化六年、京都妙心寺開山の関山和尚 四百五十年法要の導師を務めた。64才で示寂。この時、光格天皇より「正灯円照禅師」の勅諡号を賜る。

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◇梅泉寺本堂の跡地には、観音堂と、石仏、そしてこの寺を建立した武藤家の墓石が整然と並んでいます。
 
梅泉寺跡地:岐阜県関市洞戸通元寺地内  

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興徳寺 その

大仙山 興 徳 寺


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   ▲本堂の写真

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   ▲興徳寺からの見下す洞戸の景色
            
万治三(1660)年に大仙庵と言われていた堂庵を、太源祖徹(たいげんそてつ)が開山となり、岐阜市鏡島の瑞甲山乙津寺 第八世蘭友祖善(らんゆうそぜん)を勧請開山として 大仙山 興徳寺を創建した。


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   ▲ 海衆塔

当寺は修行寺であり、多くの檀家を持たず、雲水の厳しい修行の場としての寺でした。
また、境内には 「海衆塔」 (かいしゅうとう)が建立されています。
これは、多くの若くして没した修行僧の霊を慰める塔なのだそうです。

住職から、随分多くの雛僧(修行僧46名)がこの寺で亡くなっているお話を聞きました。
特に冬の厳しい寒さと、貧しい食事に耐え切れずに若くして亡くなった話を聞くと、
飽食の中で贅沢をしている現代人は、これでいいのかと考えさせられました・・・合掌。


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▲ 境内前の石仏


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興徳寺 第五世 曇霊宗珪(どんれいそうけい)十七歳の時、興徳寺第四世 東岳により出家。 古月禅材 に九州日向国(宮崎県佐土原町)で学びその印証を得た。後に興徳寺五世として享保六(1721)年住持となる。

曇霊は、全国に名の知れた 古月 の法系を継ぎ、その法系は後の興徳寺 第六世 老山弁愚(ろんざんべんぐ)そして 隠山 へと受け継がれています。
ここで注目すべきことは、臨済禅の中興の祖と言われる 白隠(はくいん) の禅が興徳寺で修行した隠山に受け継がれており、当時の東西両雄の法系がここ洞戸の興徳寺で合流していることになります。 


古月禅材(こげつぜんざい): 「西に古月、東に白隠」 と言われたほど有名な禅僧。

  興徳寺のお宝

興徳寺には、古月が曇霊に宛てた板額 「般若窟」 (はんにゃくつ)、老山に宛てた 「讖桂庵」 (せんけいあん)が保管されています。
また、当寺の 「涅槃図」 は随分立派なもので、以前、住職に特別に拝見させていただいた画像をアップしてみます・・・軸が大きいため、上手く撮ることが出来ませんでした。

                      
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 ▲古月筆「般若窟」      ▲古月筆「讖桂庵」
     

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▲「涅槃図」

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白隠と保福寺

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名僧白隠が禅を学んだ保福寺・・白隠の禅を引き継いだ隠山





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【保福寺の本堂】
 明徳元(1390)年、釈能源により開創、以後約百六十年、宗旨・住僧ともに不明。その後、開山である東華慧光(つんげえこう)( 〜1594)により庵であったものを現在の寺院とし、長泉山保福寺とした。洞戸地区では最古の寺院です。

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【本尊 薬師如来と脇仏日光・月光菩薩、十二神将】

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【隠山筆の保福寺の山号 「長泉山」】

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【境内にあるお地蔵さま・・信州高遠の石工の作、洞戸で一番大きいお地蔵さまです。】

・近世随一の禅僧といわれた 白隠慧鶴 (はくいんえかく・静岡出身)(1685 〜1768)は、若き日に、当寺を二度勉学のために訪れています。
なぜ静岡から、わざわざ美濃の山中、洞戸の山寺へって? 疑問になりますよね。

 
《ここ洞戸は、古くから高賀山信仰が盛んで、多くの修験者や一般参拝者が詣でた所。  修行僧たちの間ではただの山奥ではなく、宗教的には随分進んだ聖地であったため、修行の地として多くの雲水が訪れたのだと考えられます。》

一度は、白隠二十一歳の時、大垣の瑞雲寺から当寺に来て、保福寺の中興開山とされる 南禅化龍 (なんぜんけりょう)(1662〜1710)に教えをうけています。この時白隠は南禅より 「不生禅」 を学び、 「大灯国師」 の語録を閲覧しています。

二度目は、三十一歳の時に老僧南禅を訪ねて当寺に来ているが、南禅はすでに没していて、南禅の隠居所と思われる庵も無くなり麦畑になってしまっていた。(白隠自伝の『壁生草』(いつまでぐさ)より)

白隠の教えはその後、洞戸の興徳寺で修行し、後に梅泉寺の住職となった 隠山 に引き継がれ、 現代臨済禅の基礎 となっているのです。

 隠山の略歴
・洞戸の梅泉寺を洞水和尚に譲った後、岐阜市瑞龍寺を復興。  
・文化六(1809)年 ・京都 妙心寺において、開山の関山の四百五十年の法要の導師を務める。
・ 同       年 ・ 光格天皇 に拝謁。 「正灯円照禅師」 の称号を得る。
・文化八(1811)年 ・瑞龍寺の鶴棲院を中興。
・ 同       年 ・四月二十九日、六十九歳で示寂。鶴棲院(岐阜市)に墓所あり。

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※洞戸の禅宗寺院は、すべて臨済宗妙心寺派であり、中世の開創と伝えられている保福寺、興徳寺、近世に開創された梅泉寺は、いずれも臨済宗の中興の祖とされる白隠、その法系を継いだ隠山が学び修行した寺なのです。
美濃の山深い洞戸の地で、近世日本の臨済禅の基礎が築かれたことは特記すべきことではないでしょか。

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境内にあるモミジとイチョウ、静かな山寺は紅葉真っ盛りです。

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