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鎌倉時代、なぜ高賀虚空蔵菩薩信仰が隆盛を極めたのか ?



 高賀山信仰については、岐阜県史で詳しく解説されていますが、白山信仰との関係や、虚空蔵菩薩信仰流入の経緯等、解明出来きれていない部分があり、謎の多い山岳信仰と言っていいと思います。

 そもそも、修験者が中心の山岳信仰には、書き記した書物が非常に少なく、修験者の修行じたい、山中深い俗世間と隔離されたところで行われてきたため不明な部分も多く、歴史の中に埋もれてしまっているのです。
 そんな、高賀山信仰の歴史やその背景を、少ない資料から、私なりに考察したものを記してみます。



理由その1 : 白山長滝寺の焼失による裏禅定道の繁栄



 白山信仰の美濃国側登り口の拠点で、通称「美濃馬場」と呼ばれていたのが、郡上市白鳥町にある白山長滝寺。
 長滝寺は多くの僧坊を持ち、「山に千人、麓に千人」と言われるほどの信者が美濃、尾張、三河・伊勢方面から訪れた場所である。

この白山信仰の拠点が火災に合い(1272年11月)、十四の堂宇が全焼、その後復興するまでに66年の歳月を費やしている。
 この時、白山長滝禅定道が機能不全を起こし、美濃馬場の代わりを果たしたのが、高賀山麓で虚空蔵菩薩信仰を中心に修験者が行きかっていた、蓮華峯寺、新宮、本宮、粥川寺、滝神社、金峰神社といった、後に「高賀六社めぐり」が行われるようになった、神宮寺らである。

 これらの宮を拠点として、修験者らは「裏禅定道」と言われるルート(高賀・板取・滝波山・石徹白・別山・・)で白山の登頂を目指す者が増えた。このことが、高賀山一帯の虚空蔵菩薩信仰が隆盛を極めた一つの要因と考えられる。

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▲白山長滝寺

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▲長滝寺の大伽藍

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▲虚空蔵菩薩坐像(高賀神社 虚空蔵堂 本尊)
  
 

理由その2 : 醍醐寺沙門の高賀修験への流入



■醍醐寺と後醍醐天皇

京都伏見にある醍醐寺、この寺は、修験道を体系化した理源大師聖宝 (りげんたいししょうぼう) が開き、 後に、修験道当山派の総本山になる寺院である。
後醍醐天皇の影にあって、各地の修験者を後醍醐天皇方へ引き込むよう画策したのが醍醐寺の座主文観。

その文観の人脈と醍醐寺の寺縁によって、全国の修験系の寺院が、鎌倉幕府倒幕運動に加わり、これが宮方(南朝)を支える基盤となったことはあまり知られていない事実である。

建武の新政が僅か数年で行き詰ると、足利尊氏が京の都に北朝を建て、後醍醐天皇は、都から吉野に逃れ、そこで南朝を宣言しここに南北朝時代の到来となる。

この時、京の都にある醍醐寺の沙門らは、都を逃れ、地方の修験系寺院に分散して南朝方を支えていくこととなり、高賀の宮にも多分に漏れず、醍醐寺沙門が押し寄せたと考えるのが自然だと言える。

 
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▲当山派修験者の拠点てなっていた醍醐寺



■高賀修験と南朝との繋がり

修験者が、当時の都の情報を高賀の修験者に伝えたとみられる文言が、郡上市那比の新宮神社の大般若経の奥書に書き残されている。

大般若経の第581巻の奥書(正慶二年)には、次の内容が綴られている。
「正慶二年之二月三日未時許、書写畢、楠木正成於金剛山構城郭、応党宮御軍之最中成り」
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この内容は、正慶二年(元弘元年・1331年)二月三日午後二時に大般若経の書写が終ったことを書き記した終りに、楠木正成は金剛山に城を構え、大塔宮(護良親王・・後醍醐天皇の子)は合戦の最中であると書き記している。 

これは、当時の情報を伝える役目として、修験者が動いていたのだと想像できるもので、この奥書の文字は、ただ単に風評を添書したものか、或いは、それ以上の意味を込めているのかは議論の余地はあるが、単なる偶然の文字ではないように思われる。



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▲大般若経の奥書に、南朝との繋がりを思わせる文言が発見された新宮神社


 大塔宮は、元弘二年(1332年)十月に吉野で挙兵してからは、各地の寺社に味方するよう書状を出している。その中には、播磨の大山寺や、紀伊の粉河寺などがあるが、大塔宮の書状は美濃の高賀山も含んでいたと考えられる。

 そのころの高賀山一帯は、修験者の道場であり、さらには当時有力な新興宗教集団であったからだと考えます。こうした集団を、大塔宮は陣営に引き入れようと苦心していたはずであり、美濃の高賀修験を見落とすはずもない。
この時の情報が、写経の奥書の文字となったと考えられ、高賀の修験者たちは、当時新興の虚空蔵菩薩を信仰とする集団であって、既成の権力とは関係が薄かったため、大塔宮の働きかけも強かったと想像される。
                                                                                
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▲高賀神社 宝物殿蔵の「懸仏」 
(高賀神社には、二百七十面余りの懸仏が残されているが、殆どが明治の廃仏毀釈で破壊されてしまっている。)



 白山信仰の美濃国側の拠点であった長滝寺の全焼による、「美濃禅定道」の代替として、高賀山を中心とした地域の神社が、言わば「裏禅定道」の拠点として、虚空蔵菩薩信仰を中心に大いに繁栄したと推察される。
 さらに、建武の新政から南北朝時代にかけて、後醍醐天皇を支援するかたちで、醍醐寺沙門を中心とした修験者らが都を離れ、高賀修験に合流していったことによる、繁栄を上げることができる。

以上の二点についてが、13世紀後半から14世紀にかけて、高賀虚空蔵菩薩信仰、高賀修験が繁栄した大きな要因と考えられる。


 
南北朝時代の終焉(1392年)と丁度同じころ、高賀の虚空蔵菩薩信仰も徐々に廃って来たようで、江戸後期には、最も繁栄を極めた鎌倉後期とは、見る影もない状況に陥っていたと思われる。

 その状況を打破すべく、高賀、新宮、星宮神社では、虚空蔵菩薩を本尊とし、魔物退治伝説を絡めてそれぞれが共通の縁起書を作成し、「六社めぐり」と称して、往時の繁栄を取り戻そうと画策したものだと考えます。

 「高賀宮記録」が最後に原本を転写されたのが文化九年(1812)であるため、他の縁起書もこの時期に書かれたものと解すれば、「六社めぐり」が盛んになる前に、明治維新を迎えてしまい、廃仏毀釈の波に高賀六社も飲み込まれていく中で、「六社めぐり」も時代の流れに流されてしまったのだと言えます。



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▲高賀宮記録

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本殿扉に刻まれた紋章・・剣花菱



イメージ 1 【本殿扉】


○剣花菱紋と郡上鷲見氏


 本殿扉には、十六菊の紋と五七桐の紋、そして一番外側には「剣花菱紋」が掘り込まれています。
高賀山の麓をぐるりと取り巻くように配置されている星宮神社や新宮神社、本宮神社などは、十六菊の紋と五七桐の紋が社殿の屋根などに記されていますが、剣花菱紋が神社に記されているのは高賀神社だけのようです。

 剣花菱紋と高賀神社との関係を調べてみると、中世以降、美濃国郡上の御家人鷲見氏(鷲見氏の家紋は代々丸に剣花菱である。)との関わりが考えられます。


イメージ 2 【紋】



 郡上市那比新宮神社にある大般若経の第581巻の奥書(正慶二年)には、次の内容が綴られています。

「正慶二年之二月三日未時許、書写畢、楠木正成於金剛山構城郭、応党宮御軍之最中成り」

この内容は、正慶二年(元弘元年・1331年)二月三日午後二時に大般若経の書写が終ったことを書き記した終りに、楠木正成は金剛山に城を構え、大塔宮(護良親王・・後醍醐天皇の子)は合戦の最中であると書き記しているのです。この奥書の文字は、ただ単に風評を添書したものか、或いは、それ以上の意味を込めているのかは議論の余地はありますが、単なる偶然の文字ではないように思われます。


 大塔宮は、元弘二年(1332年)十月に吉野で挙兵してからは、各地の寺社に味方するよう書状を出しています。その中には、播磨の大山寺や、紀伊の粉河寺などがありますが、大塔宮の書状は美濃の高賀山も含んでいたと考えられます。

 そのころの高賀山一帯は、修験者の道場であり、さらには当時有力な新興宗団であったからです。

こうした集団を、大塔宮は陣営に引き入れようと苦心していたはずであり、美濃の高賀修験団を見落とすはずもありません。

この時の情報が、写経の奥書の文字となったと考えられるのです。高賀の修験者たちは、当時新興の虚空蔵菩薩を信仰とする集団であって、既成の権力とは関係が薄かったため、大塔宮の働きかけも強かったと想像されます。


 ここで元弘三年、大塔宮の指令を受けて参戦した御家人が、美濃国郡上北部を本拠とする鷲見藤三郎忠保です。

鷲見氏は早くから後醍醐天皇側に味方しており、高賀山の修験者たちとも関係があったのではないか、その関係を示すものとして、高賀神社本殿の扉に、鷲見氏の家紋である剣花菱があるとしたら、鷲見氏と高賀山の修験者との密接な関係が浮かび上がってくるのだと考えます。


 ただ、郡上の鷲見氏と高賀山の修験者との関わりを示すものは何も残されておらず、詳細は不明、鷲見氏は建武の中興後、美濃の守護土岐家の傘下に入っており、土岐家は足利方であったため、北朝方の軍勢として延元元年(1366)京都へ出陣しています。

 その後、鷲見氏の動きを見ると同じく郡上の東氏と組んで、南朝側の尾崎宮と関、旧武儀郡、長良あたりで交戦し、尾崎宮(高倉天皇の玄孫)の軍勢を敗退させているのです。
大塔宮(南朝側)に頼られていたはずの高賀の修験者達も、親交のあった鷲見氏と敵対する南朝の尾崎宮に援軍を送ることも出来ず、歴史が流れてしまったのではないかと考えられるのです。


 高賀山を取り巻くようにある高賀六社を見てみると、鷲見氏と近い郡上の本宮、新宮、星宮神社には、剣花菱紋はどこにも見えず、郡上と反対側の高賀神社だけに見受けられるのです。


その点については、郡上の中心から南部を納めていたのが東氏、後に遠藤氏といった有力な武将が勢力を持っていたため、郡上の北辺の地の鷲見氏としては、東氏等の影響力が及んでいない高賀山の西側洞戸にある高賀神社、高賀の郷を拠点としている修験者らとの関係を構築して、都の情報を確保する拠点としていたのではとも考えられるのです。



○洞戸の鷲見姓は郡上高鷲がルーツ!


 現在、高賀地区に鷲見姓はないが、洞戸地区には何件かの同姓があり、家紋は丸に剣花菱です。
 その鷲見家は藤原北家の祖である藤原房前をルーツとしています。

 そして鷲見家は、昔高賀にあったと伝えられていて、現在は美濃市乙狩にある大洞山金谷寺(臨在宗妙心寺派)の檀家であるということから洞戸に残る鷲見家は、その昔郡上の高鷲から渡ってきた鷲見氏の系統であると思われます。



○高賀に移り住んだ鷲見氏の目的は・・・


 それでは、鷲見氏がいつ頃高賀の郷に入り込んできたかと考えると、南北朝の時代、鷲見忠保、あるいはその子鷲見禅峰(干保)の頃ではと推察されます。

 ちなみに、鷲見氏の最も活躍した時期が南北朝時代で、それは忠保、忠保の子禅峰のころ、その内容は、観応三年(1352)、禅峰は尾張大山寺合戦に功を立て、同年熱田宮口の合戦にも奮闘しています。

 また、文和元年(1352)伊勢国に従軍し、阿波坂・同中村口の合戦で戦功を立ててもいるのです。

 その後、美濃国守護土岐頼康の死後、世継問題で一族の間に争いが起こった時に、幕府は、鷲見禅峰に土岐家の養子土岐康行を討たせています。

 
 鷲見氏の活躍は、美濃国内ばかりか、尾張、伊勢の国にも及んでおり、郡上の最北端に根拠地を持つ一守護が、これだけ広範囲に活躍できた背景には、郡上意外の地各所にそれなりの拠点が必要であったと考えられます。
 南北朝時代、その拠点の一つが、高賀の宮とそこを本拠として当時一代勢力を誇っていた高賀修験者団であったことは間違えないと言えます。

 そして、鷲見氏はさらに勢力を美濃国南部に広げていきます。鷲見美作守保重は、鷲見氏の菩提寺として、岐阜市山県北野にあった天台宗の寺を、雲黄山大智寺(臨在宗妙心寺派)として明応9年(1,500年)に再建し、鷲見氏の新たな拠点としています。その後、保重は美濃国守護代斎藤氏との関係が悪化し、永正七年(1510)斎藤利良は北野城に攻め寄せ、保重は敗れて自刃。このとき、殉死者が十三人に及んだと言われています。


イメージ 3 【鷲見美作守保重が再建した雲黄山大智寺(岐阜市山県北野)】

その後も鷲見氏の動きは複雑で、天文10年(1541)鷲見貞保の時代には、東氏に攻められ洞戸方面へ落ち延びて来ていますが、おそらく高賀修験を頼っての動きだと考えられます。

鷲見氏の最後は、斎藤氏に仕えていたが、永禄10年(1567)織田信長に攻められた後、高富を経て郡上へ落ち延びていくかたちとなって、「武勇に長けた」と評されてきた鷲見氏の、歴史舞台からの降板を見ることとなります。


 郡上高鷲の鷲見氏一族が、中央勢力と関わって美濃国で勢力を張っていく手段として、高賀の宮と、その修験者たちが巻き込まれていったのではと考えられ、その唯一の証として、高賀神社本殿扉に刻まれた家紋、「剣花菱紋」が残っているのだと言えるのです。








 

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月日神社を氏神とする長屋氏とは・・



イメージ 1 
【月日神社】

 高賀神社本殿(虚空蔵堂)に向かって右隣に鎮座しているのが「月日神社」です。
この神社の祭神は社名からも想像出来るとおり、天照皇大御神とその弟とされる月読尊、つまり太陽神を意味する天照皇大御神と、夜を支配する神である月読尊、この両者をお祀りする社殿が月日神社なのです。


○家紋から考察する長屋氏のルーツ

 

イメージ 2 【三つ柏葉紋】

イメージ 3 【丸に立ち沢瀉紋】

                           
 洞戸地区の長屋姓のほとんどが、「三つ柏葉」か「立ち沢瀉」のいずれかのようですが、月日神社の扉には「立ち沢瀉」の紋が刻まれており、長屋氏と関わりがあることを暗示させています。


 「三つ柏葉」の長屋氏の祖は、源義家に従い、後三年の役に勇名をあげた鎌倉権五郎景政の子孫とされ、承久の変で戦功を認められ関東は相模国を所領しています。


後に源氏が三代で滅ぶと、北条氏は有力御家人の排斥に向かい、比企氏、畠山氏、和田氏など、これに危機感を持った御家人は、奥州征伐で手に入れた奥州や、承久の乱で手に入れた西国に子孫を逃したケースが多かったようで、長屋氏もその一氏族であったろうと考えられます。
 南北朝の頃に美濃国本巣郡長屋に住み、ついで、不破郡垂井に移住したと伝えられていま
す。


以後、代々垂井に本拠を置いて美濃守護土岐氏に属し、後に斎藤氏に仕えるようになると、天文年間武儀郡に移封され板取田口に居城を構えています。その田口を本拠とした長屋氏については、家紋を「三つ柏葉」から「立ち沢瀉」に変えているとの説があります。 
田口城主長屋氏の菩提寺は長水寺で、現在も板取田口地区にあり、寺の紋章を「立ち沢瀉」としています。

 ちなみに、「三つ柏葉」の家紋は神職が多いとも言われており、江戸時代には、高賀の武藤家と長屋家が毎年交代で祭りの宮座を勤めていたとの記録も残されています。



○ 相模の国の長屋氏が高賀へ・・?


 高賀の長屋氏については、14世紀頃に、北条氏の追手から逃れてきた相模国の長屋氏の一団が、先に高賀山に根を下ろしていた木地師と交わり、長屋氏の姓のままで居ついたとも考えられます。


関東から美濃国へ入ってくる経路として、内陸経路で甲州から信州、美濃の郡上から洞戸、そして本巣、垂井へと移動し、その一部が高賀谷に残ったのではと考えられます。さらに、本巣から垂井で城を構えているのですが、垂井といえば南宮大社があります。


同社は、金山彦尊を祭神としていて、古代より鉄や金といった鉱物が産出されてきた重要な土地柄です。ここに、長屋氏が城を構えて治めることが出来たということは、山師、あるいは木地師としての素地があったためではとも考えられます。
であるなら、東国から、北条氏の排斥を逃れるため西国の美濃を目指し、鉄や金、銀といった鉱物を支配するためにやってきた長屋氏が、垂井まで行き着く途中の高賀へも、その本体の一部をそこに残して、さらに西へと進んで行ったとも考えられるのです。

 では、なぜ高賀谷に長屋氏が居付いたか、それは当時高賀山一帯には、金をはじめとした鉱物が産出されていたためであり、鉱物の採取等の技術を長屋氏が持っていたと考えられるからです。
               

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【長屋氏の菩提寺 清龍山 長水寺】  


 

○大般若経は、長屋氏が高賀へ持ち込んだ?



 ここで、長屋氏が高賀の宮へもたらしたのではと考えられるものがあります。それは、高賀神社
に納められている 「大般若経」 です。
12世紀に甲斐の国の岩泉寺、大善寺で写書された「大般若経」が高賀の宮にもたらされており、欠如した巻については後に、熊野新宮や関の新長谷寺から補配されています。

「大般若経」は、国家安泰・五穀豊穣、天災・災害の鎮静をもたらす経典であるため、これを高賀の宮(西高賀蓮華峰寺)に奉納したと言う事は、それによって同宮が、国家鎮護の社寺の体裁を整えたことになり、それだけ高賀山一帯の地域が、大変重要なポイントであったことを伺わせます。

つまり、長屋氏の新たな本拠地が垂井であること、その丑寅の方角、鬼門に当たる位置に高賀山があるため、高賀の宮に「大般若経」を納め安泰を祈願したのではともと考えられます。

 さらに、高賀の宮と垂井の長屋氏との繋がりを示すものが、高賀神社に残されています。それは、現在の大垣市赤坂町にある金生山明星輪寺の僧侶寿阿が納めた 「錫上」 です。その錫上には、「奉施入西高賀社壇 延文5年 子庚六月一日 美州不破郡羽禰住僧寿阿敬白」と刻印されています。

延文5年(1360年)と言えば、当時、高賀の宮では、虚空蔵菩薩信仰が隆盛を極めていた時代、垂井の領主であった長屋氏は、不破郡羽禰(現在の大垣市赤坂町)も所領しており、そこにある虚空蔵菩薩信仰で有名な明星輪寺の僧が、高賀の宮へ「錫上」を奉納しているのです。

虚空蔵菩薩信仰と鉱山支配、そして鬼門に当たる丑寅の方角と高賀山といったキーワードが、高賀の宮と長屋氏を繋ぐ手がかりになっているのではと考えます。




イメージ 5 【錫丈】
                
イメージ 6 【金生山明星輪寺】
                  

                   

             

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武藤家の氏神 牛頭天王社


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 高賀神社本殿に向かって一番左端にある社殿が牛頭天王社です。

 この牛頭天王をいつ頃からお祀りしているかは定かではなく、「高賀宮記録」にも一切登場してきませんが、牛頭天王社は代々武藤家の氏神として祀られてきています。

イメージ 2 牛頭天王社

 高賀地区の武藤家は、代々高賀の宮の神主を勤めてきた家柄で、高賀の魔物退治をしたとされている、藤原高光の末裔とも伝えられています。


○牛頭天王信仰とは

 そもそも牛頭天王は、疫病(古代一番恐れられていた病は天然痘と言われています。)から救ってくれる、元は怖い祟り神で、大陸から入って来たものです。この 崇神 である牛頭天王を祀り込めることで、疫病の蔓延を防ぐことが出来ると信じられてきました。

 都で疫病(天然痘)が大流行したのが天平九年(737年)で、この時、朝廷を思いどおりに動かしていた、藤原不比等の四人の兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が相次いで 病死 。この死の原因が、先の「長屋王の変」で、藤原不比等に自殺に追い込まれた長屋王の怨霊の仕業とされ、都中が恐れたと言われています。牛頭天王信仰は、この頃より疫病封じの神として全国に広まったとされています。

 後に日本の「スサノオノミコト」と習合して牛頭天王信仰となり、牛頭天王を祭る京都で有名な神社が八坂神社、そして、そのお祭りが祇園祭りです。また、尾張の国では、牛頭天王をお祀りする神社を津島神社といい、津島市にある津島神社の天王祭りは、大きな行燈船を川に浮べる勇壮なお祭りです。洞戸地内にも津島さまが二社鎮座していますが、通元寺の津島神社で行われる提灯祭りは、津島の天王祭りを基にしたものと思われます。

 明治の神仏分離令が出された後、「牛頭天王」のテンノウと言う言葉が、天皇陛下のものと同じ発音と言うので、全国にあった牛頭天王社の名前を「須佐之男神社(スサノオ)」、または「津島神社」と改称したところが多かったようですが、そんな中、高賀の宮の牛頭天王社は改名することなく現在に至っています。

●高賀に残る伝説・・「牛戻し橋」


イメージ 3 通称「牛戻し橋」(現 宮前橋)


 ここで、高賀の郷に古くからある 「牛戻し橋伝説」 について触れたいと思います。

 牛戻し橋について今に語り継がれている内容は、 「牛をこの橋より中に入れてはならない。 だから、牛戻し橋というのだ。」、なぜかと言うと「高賀の神々が牛を嫌ったため」 というものです。なぜ、高賀の神々は牛が嫌いなのか謎です。


 高賀の郷にいつ頃、牛頭天王信仰が入って来たか定かではありませんが、大行事神社の勧請先が白山であると考えられることから、午頭天王信仰も同じように 白山信仰 との関わりがあるように思われます。
白山信仰については、渡来系の人たちによりもたらされたと言われており、白山信仰の開祖とされる 泰澄大師 との関係も考えられます。


 ここで、白山を開山した 泰澄 (たいちょう)について触れてみます。白山開山の祖である泰澄は 秦氏 の出身とされています。秦氏は、中国の史書『魏志韓伝』によると、大陸から半島へ移住して来たという秦人のことで、その秦人が半島を経てさらに日本に渡り、「秦氏」になったとすれば、「漢神信仰」 と同時に彼らを通して古代朝鮮の山岳信仰が持ち込まれたものと思われます。牛を生け贄として神に捧げ、雨乞いや五穀豊穣を祈ったもので、白山を抱く「越の地」(北陸から新潟にかけての地域)に、古代朝鮮半島の信仰の残照である殺牛祭が各所にあったとされています。


 『続日本紀』には、七世紀頃の「越」の地域一帯「牛を殺して漢神を祭る・・」とあり、その信仰的系譜に、朝鮮半島からの渡来人がもたらした「殺牛祭」の内容が読み取れます。
 
・・越前国に対しては朝廷より、延暦十年(791)と延暦二十年(801)の二回、殺牛祭の禁令が出されています。 ちなみに、泰澄が白山を開山したのは養老元年(717) とされるので、殺牛祭禁令が出される半世紀以上も前のことです。(養老元年(717)は、高賀神社が創建された年と全く同じ年代です。)泰澄、殺牛祭と白山信仰を通して、日本史上最大の渡来集団であるこの氏族「秦氏」の姿が見えることは大変興味深いことです。そして、それが、高賀山信仰にも深く関与しているとなると、高賀の宮に古くから鎮座する「午頭天王社」は、大行事神社を勧請したと同時に、祀られたと考えられるが、あるいは、この場合「漢神」=「午頭天王」とするならば、大行事神社を勧請する以前から、高賀の地で祭られていたとも考えられます。
つまり、古代高賀の郷は、大陸系の渡来人(「秦氏」系の氏族)が支配する地であり、「漢神信仰」を中心として、牛を生け贄とする殺牛祭を行っていたという説も成り立ちます。


このことは、古代、高賀の郷には、お祭り時に牛肉を食する習慣の民が居て、生け贄の牛を神と一緒に食することで、疫病から免れようとする考えの民、すなわち大陸系の人たちが居たことを裏付けるものと考えます。(参考: 伊藤信博氏 「言論文化論集」より) 

ここで、「牛戻し橋」伝説をもう一度考察してみると、現在語り継がれている内容は、「牛をこの橋より中(高賀の郷)に入れてはならない。 だから、牛戻し橋というのだ。」、その理由は「高賀の神々が牛を嫌ったため」というものであるが、実はそうではなく、 「牛をこの橋より中に入れると、生け贄にされて戻って来られなくなるため、ここより牛を入れるなよ。」という意味にとる方が自然ではないだろうか。


伝説については、いろんな角度から考察すると、また新たな考え方も出てきて大変興味深くなるものだと思いますが、高賀の牛頭天王信仰ついては、随分歴史が古いと考えられ、大陸文化が色濃く出ているもので、渡来人たちがこの地で勢力を持っていた証なのではと考えられます。

イメージ 4 通称「牛戻し橋」が架かる高賀渓谷

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第二の魔物を封じた峰稚児神社その2


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第二の魔物その正体 = それは「木地師」、それも、ここ高賀山は「東西木地師の合流地点」であることを前回で記しましたが、第二の魔物退治の仮説その2を次のように書いてみました。


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△ 峰稚児神社の祭礼で奉納されていた子ども神楽、現在は後継者不足で途絶えて
  しまっています。

第二の魔物退治・・仮説その


仮説その2・・・都の権力闘争に敗れた惟喬親王(これたかしんのう)、この皇族を後押ししていたのが近江の国に拠点を持つ木地師集団、皇位継承に関わった木地師の残党を追って都から武士団が高賀へ入って来たとしたら・・

○木地師の祖と仰がれる惟喬親王

ここで、木地師と関係が深いとされている皇族で、轆轤(ろくろ)を開発し木地師の祖と仰がれている惟喬親王について触れてみます。
惟喬親王(承和11年(844年) 〜 寛平9年(897年)は平安時代前期の皇族で文徳天皇の第一皇子、母は紀名虎(きのなとら)の娘とされています。


『大鏡』の裏書(登場人物や事項についての注釈)には、文徳天皇が惟喬親王を皇太子にと希望しながらも 周囲の反対をはばかられ、また、右大臣藤原良房に気を遣われて、その娘・明子(あきらけいこ)の惟仁(これひと)親王(=後の清和天皇)を皇太子に立てられたことが伝えられています。
また、『平家物語』には、立太子を巡って、惟喬親王の母方である紀氏が惟喬親王を立てて真済僧正を、また、藤原氏が惟仁親王を擁して真雅僧正をそれぞれ祈祷僧に起用し、死力が尽くされた・・・という話まで伝えられており、こうした伝承が発生するほど、生母(=紀名虎の娘静子)の出自の低さにもかかわらず、惟喬親王への信望が高かったことがうかがえます。

つまり、皇位継承をめぐって、惟喬親王の母方の紀氏と藤原氏との争いがあって、木地師の祖と仰がれていた惟喬親王を押す木地師の一団が、高賀山一帯に勢力を張っていたとすれば、当然藤原氏はその勢力を潰すために武士団を高賀の郷に派遣したと考えられます。

木地師の集団を、高賀宮記録が記す第二の魔物(キジのような鳴き声を発する大鳥)として、藤原氏が退治したことが、高賀の魔物伝説として今に語り継がれているのではないだろうか。

都で繰り広げられている皇位継承に絡んだ豪族間の争いの余波が、美濃国の高賀山一帯にまで及んでいたとしたら、古代史はますます面白くなってくると思うのですが。

ここで一つ気になるのは、年代のずれがあると言う事です。惟喬親王の時代は承和11年(844年)〜 寛平9年(897年)で、高賀の二回目の魔物退治は天慶2年(939年)と宮記録にはあり、50年ほど年代のズレがあるということです。高賀宮記録が19世紀初頭に書かれたもであることから、これぐらいの年代の違いは仕方のないことかも知れません。

※ 紀氏: 「土佐日記」の作者紀貫之は、この紀氏の出身とされています。


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木地師と皇族とはどこに接点があるのか?・・・


それではなぜ、木地師のような浮遊の民と皇族が関わってくるのか、轆轤の技術をなぜ皇族が木地師に伝授したのか、疑問を持つ人も多いと思います。 


律令体制を整えたばかりの当時としては、農地に縛り付けられた農民を良民として位置づけ、方や農地を耕さない山師や木地師、鋳物師、芸能民といった非農耕民(社会の最下層の人々を意味する。)は、裏社会で、皇族への身の回りの品々を届ける「供御人」(くごにん)として、皇族との繋がりを持つようになり、天皇家から特権を得るようになっていきました。木地師の場合、その特権に当たるものが、山々を自由に行き来し、トチやクヌギを自由に伐採できる権利でした。


また、木地師や山師、修験者といった人たちの多くは、朝鮮半島からの渡来系民族であり、高度の技術集団でもあった。朝廷内の要職を務める者の中にも渡来人が多く登用されていたため、天皇家と木地師との繋がりも、必然的に発生してきたと考えるのが自然だと思われます。

最下層民と位置づけられていた木地師と、天皇家との繋がりはこれで何となく理解していただけたでしょうか。


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△ 高賀山山頂付近には、いくつかの巨石があります。
 この「天狗岩」もその一つ、修験者たちが山頂付近で修行した場所と伝えられています。


律令社会で最下層の民と位置づけられてきた、山の民である木地師たちは、歴史上表舞台には出てこないものの、実質彼らが活躍したであろう歴史的な事件がいくつか上げることができます。
たとえば、南北朝時代に後醍醐天皇が吉野の山中に引っ込み、京の都(「北朝」)に対抗して「南朝」として兵を挙げたのも、吉野山中の山の民(修験者や木地師)の勢力を頼りにして、数十年も争ったものと考えられます。


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△義経が都から平泉へ逃げるために、一路目指した先が石白徹中居神社(郡上市白鳥町)。
ここは、奥州藤原氏が都の情報をキャッチするためのいわば前線基地だったと思われます。

あるいは平安末期、源義経が頼朝に都から追われ、弁慶ら僅かな側近を連れて奥州まで落ち延びた経路は、通説には都から滋賀の湖北を抜け越前から北陸道を経て奥州へと言われていますが、鎌倉時代の正史「吾妻鏡」には、都から滋賀の甲賀、伊賀、そこから美濃国を目指し石徹白へ、そして越前から奥州へとの経路が記されています。

つまり、義経は、奥州藤原氏の情報拠点であった石徹白(白山)に勢力を張る修験者の力を頼り、都から石徹白を目指したと考えられます。ここで注目したいのは、伊賀から美濃国そして石徹白へ向う前に、義経たちを助け石徹白へ手引きしたと考えられるのが、高賀山に居た修験者や木地師たちではないだろうか。この時期、十二世紀後半は高賀山一帯では山岳信仰が盛んな時であって、高賀の宮には多くの堂宇が建ち並び、修験者の往来も多かったと考えられるため、義経一行を石徹白まで手引きすることは容易で
あったと考えられるのです。

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