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蕨生 厳島神社


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 美濃市から板取川沿いに洞戸方面に向かって進むと、蕨生地内の県道沿い右手
に見えるのが厳島神社。


 その昔、高賀山麓加部のタラガ谷の上流で、高賀山を水源とするオオレ谷のベザイ
の杜には弁財天がお祭りしてあったそうで、それが 大洪水で流され、美濃市蕨生の川岸に光るものを見つけた土地の人が拾い上げお祀りした のが、この弁財天だったという伝説があります。


 もともと、高賀山麓にある諸社は、白山信仰の影響を受け、その勢力下にあって観音
信仰が盛んで、七社権現、七谷戸として巡礼するルートがありました。

考えられるルートは、「粥川寺」−源蔵峠−「那比新宮」−「本宮」−タラガ谷峠−板取加部−「白谷観音」−イバラ坂−「高賀蓮華峯寺」・・・といった険しい山中を歩くルートで、後に「高賀六社」めぐりの基となっているとも考えられます。


 観音霊場の代表的なものは西国三十三箇所霊場で、それが整備されたのは室町末期と考えられますが、ここの巡礼はもっと古く平安末期ではと思われます。

 
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 板取加部には、こんな 伝説 も残っています。

 藤原高光の高賀魔物退治の一つとして、 「高光の放った矢が加部洞まで飛ん出来て根付き、今も矢の竹が生えている」 という説話が語り継がれています。

  
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 この厳島神社は板取川沿いにあって、その昔は境内周辺まで川の水が来ていたので、境内が川面に浮かぶ島のようになっていて、まさに海神の女神を祀るにふさわしい場所だったのでしょうね。 

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猿虎蛇退治伝説の絵

津島神社の猿虎蛇退治画 復元




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▲復元された「猿虎蛇退治画」(津島神社蔵)

高賀山信仰にまつわる「高賀魔物退治伝説」の絵馬は、高賀神社の宝物殿

に収蔵されているのですが、それと内容がほぼ同じ物が、洞戸片地区の津島

神社にもあります。


 
 津島神社と言えば、「牛頭天王」をお祀りした神社ですが、それが何故、

高賀魔物退治伝説と同じ内容の絵が奉納してあるのかは良く解っていません。 

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▲洞戸片にある津島神社




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▲これが、高賀神社にある「猿虎蛇退治」の絵馬、安政五年に描かれたものです。


 修復前の画像が無いので比較がしにくいのですが、津島神社にあった絵は、

傷みが酷く、修復の依頼を受けた地元の画家の方も随分困ったそうです。

 それで当然のごとく、高賀神社の絵馬を参考にされたそうですが、とても

鮮やかに甦りました。


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 魔物退治伝説の主役、 藤原高光 です。  

 高光は、都では歌人で有名でしたが、武者としての勇敢な話は残っていません。

都から派遣された武将は、藤原家の家臣でしょうが、高光とは別人だったのでしょ

うね。 

  

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 猿虎蛇に切りかかっているもう一人武将、 「義盛」 と名前が書かれてあります。

この人物、昔、高賀の郷にあった「山崎白羽根の神社 高賀山矢作大明神」の創建者

 と言われていて、高光の家来、 山崎権之頭藤原義盛 とされています。


 この高賀山矢作大明神は現在、矢作神社として洞戸菅谷地区にあります。 

 その昔、高賀の郷が大洪水に遭い、殆どの社殿が押し流されてしまい、高賀山矢作

大明神も同様で、後に義盛の子孫と名乗る山崎権太夫が再建したと高賀宮記録には記

されています。


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▲義盛の子孫 山崎権太夫が再建した矢作神社

 この神社は、高光が魔物退治をする前に、ここで矢を作って奉納した場所と伝え

られています。
 
   
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■場 所 岐阜県関市洞戸片地内
       

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両面宿儺の伝説

両面宿儺伝説


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▲日龍峰寺(通称高澤観音)に伝わる「両面宿儺像」

もう節分ですね。暦の上では春なのですが、まだまだ寒い日が続くようです。

 今日は古代の鬼退治とも言える、美濃、飛騨に伝わる両面宿儺伝説について
ちょっと書いてみます。



両面宿儺とは・・・
「日本書紀」仁徳天皇六十五年(五世紀初葉)に「両面宿儺の戦い」が記載され
ていますが、高山の千光寺や美濃の武儀日龍峰寺では『飛騨国蜂賀の岩窟より
宿儺出現』と伝えられています。

 宿儺の姿は異形にして、身の丈一丈・躯は一つで両面・四手四足と日本書記
は伝えていますが、人並み外れた技と武勇の比喩とも思われます。


 宿儺は飛騨・美濃の各地に残された恩顧の伝説から、神祭りの司祭者として
飛騨から美濃に及ぶ地域を統率し、農耕の指導者としても偉業を成したとも伝
えられています。


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▲両面宿儺がお祀りしてある高澤観音本堂

『宿儺』の文字の意味・・・

宿(やどる)・儺(ついな・疫鬼を追い払う行事)
『宿儺』とは人に宿る悪いものを追い払うという意味があります。



■朝廷と対立した両面宿儺・・・


※大和朝廷の力が飛騨にも及んできた頃、両面宿儺は朝廷に従わなかったの
で、仁徳天皇の命を受けて、都から武振熊命(タケフルクマノミコト)が討伐
の兵を進め、飛騨に向かった。

 宿儺は部下を連れて美濃の国まで赴き、高沢山(現在の関市下之保)で待ち
伏せをしていたが、武振熊命はうまく隙を突いて攻めたので、宿儺は山の中
へ姿を消してしまい、その後、命は北へ逃げる宿儺を追い詰め、乗鞍の山中
での一騎打ちとなった。宿儺はそこで、武振熊命に討ち取られてしまい、飛
騨国は朝廷に平定されてしまった。





 両面宿儺の名は『日本書紀』に一度登場して、誅殺されたあと正史に姿を
見せていませんが、美濃・飛騨ではいまでも敬愛された存在となっています。

 現地(飛騨)での伝承の根強さを思えば、両面宿儺の実在をむげに否定する
わけにはいけませんし、大和朝廷と戦った現地の英雄が、伝説の中で超人化
した、というあたりで話を落ち着けるのが打倒と考えますが。。


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▲背面から見た宿儺像


 ちなみに、美濃の高賀山一体での魔物退治伝説は、それよりも三百年以上
も後の話となっていますが、近江より東の地、つまり「美濃、飛騨は大和
朝廷にまつろわない異族の国であって、両面宿儺はその首長であると考えら
れるのです。



宿儺を討伐した後も、美濃国では、大和朝廷とは相反する民族が頻繁に反旗
を翻したため、朝廷が討伐を繰り返してきた歴史があると思われます。当時
その東の前線拠点の一つが高賀山であり、魔物を封じた社それが、高賀六社
や峰稚児権現だったのではと解釈します。

■場 所  岐阜県関市下之保  日龍峰寺

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夜鳥柳の伝説


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 山懸郡誌によると
「・・高富町に在り、仁平中武儀郡高賀岳に大なるヌエ棲めり、藤原高光勅を
奉じて之を退治せんとて、三田神宮に籠もり祈願する時に、三更白鳥金光を放
ち、北高賀岳に向い飛行きて向導せし神鳥の立ちし跡なりとて、今に夜鳥柳は
神柳とも云伝へ・・・」

要約すると、

藤原高光が御門の命で、都から高賀山を目指して魔物退治に来る途中の話で、
高賀山に住むヌエ(鵺=夜鳥)つまり魔物を退治しようと、三田神宮(神明神社)
に籠もって祈願すると、白鳥が金の光を放って北の方角にある高賀山に向って飛び
、高光を先導した。その白鳥は神の鳥で、飛び立った跡地に生えた柳を「夜鳥柳」
、神の柳とも言うと伝えられている・・・


 との伝説が山県市旧高富町に残っています。

 その「夜鳥柳」のあった場所を、高賀の古老に聞いて行ってみましたが、

 場所は、山県市の中心地。 
 近くには岐北病院があり、肝心の柳の木はなかったのですが、「夜鳥柳の跡」
と印した新しい石碑が建てられていました。

 地元高富町郷土を語る会の人たちで建てたもののようで、衣料品店と県道と
の狭い場所にあって、一見すると店のまん前で見逃してしまうような場所です。


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 高賀の魔物退治伝説の一端が、20キロ以上離れた山県市にも残されていた事に
驚きました。また、その伝説を後世に残そうと、石碑が建てられていた事に対して、
地元の方々に感謝します。

 この「夜鳥柳の伝説」から解るように、都からやって来た藤原高光の足取
りは、今の高富街道を北上し、洞戸菅谷の九頭師坂を越えて矢作の郷に入って来た。

そして、上菅谷から高賀山を眺めて、作戦を練った場所とされる 「思案大権現」 や、高
光が矢を作ったと伝えられている砥石ヶ原には 「矢作神社」 があり、高賀山を目指し
て行った藤原の武士団の動きがこれではっきりとしてきました。





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猿丸太夫の墓

猿丸太夫の墓と伝説


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▲瀧神社参道 

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▲これが猿丸太夫の墓

小倉百人一首にあるおなじみの歌
「奥山に もみじ踏み分け鳴くしかの 声聞くときぞ秋は悲しき」  
 猿丸太夫(さるまるだゆう)の歌です。

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 この猿丸太夫の墓が、高賀山に連なる今渕ヶ岳の麓、瀧神社参道横にあります。

 墓といっても、何の変哲もない自然石があるだけで、文字も刻まれいいません。
この墓石の隣りに、近年に、この歌を刻んだ「石碑」がありました。


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猿丸太夫伝説


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ここ美濃市乙狩板山地区には、高賀の魔物退治と絡んで、猿丸太夫の伝説があります。

 高賀の魔物退治をしたと言われている藤原高光。
 高光の命によって集まった矢作りの人々の中に「あきよ」という娘がいました。
 高光とあきよの間に一子が生まれ、猿丸と名づけられました。猿丸は、やがて都に登って
 父に会い、天皇から賞賛されるような歌人になりました。しかし猿丸は、父の迷惑を考え
 て終生素性を語りませんでした。
 ○美濃市史通史編上巻より

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▲瀬織津姫をお祀りしている瀧神社
 

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▲瀧神社奥にある、神社のご神体そのものである「瀧」


「猿丸太夫」は、いつ生まれ、いつ亡くなったかも解っていないようです。
平安初期の歌人で、36歌仙の一人としても知られていますが、まさに伝承上の人物で、
歌の有名度に比べ、生涯の詳しい実像は明らかでないようです。各地に遺跡や言い伝えは
多く残っています。
兵庫県芦屋、大阪府堺、長野県戸隠、新潟県東蒲原、山形、金沢、福島県南会津など、
ゆかりの地は数多くあります。

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これらの地の多くは、金やマンガンといった鉱山との結びつきがあったり、虚空蔵菩薩
信仰のある所もあり、そういった条件は、今渕ヶ岳を含む高賀山一帯と全く同じ条件が
揃っていることではちょっと驚きでした。

また、猿丸太夫 = 柿本人麻呂説もあり、都から東国征伐に派遣された武将のイメージ
さえ浮んできます。

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