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洞戸 円空和歌集展

   

第三回 洞戸円空和歌集展


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 洞戸円空記念館では、今回で三回目となる、円空和歌集展が開催されています。

江戸時代前期の遊行僧 円空聖人の作品約 千二百首 が所蔵されている洞戸円

空記念館では、そのほんの一部を、解説を付けて展示されています。



円空と言えば、鉈彫りの仏像を作る仏師のイメージが強いのですが、彼は歌人

としての才能を発揮していた、多才な人だったのですね。


 
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 これだけの和歌がどうやって保存されていたかというと・・・

 高賀神社に納めてあった「大般若経」を、円空の手で補修しており、その補修材料と

して、円空の和歌の書かれた和紙を使用して、大切に保管してあったためで、六百巻

ある大般若経の補修は、大変なものだったと想像します。






【高賀神社所蔵の大般若経】  

宝物殿に所蔵してある 大般若経 は、全部で595帖あり本来なら600帖あるは
ずなのですが、5帖紛失しているようです。
書かれた年代は随分ばらつきがあり、 保延五年〜建保六年間(12世紀〜13世紀) に書写された写経が中心で、このほかに14世紀中ごろの写経と16世紀に補写されたもので構成されています。

この大般若経は、高賀神社で書かれたものではなく、 甲斐の国や熊野新宮神社 等から 寄せられたものばかりで構成されています。
年代の解る一番古いものでは、 「願主 當社氏人前介 三枝守廉芳・保延五(1139)年」と記されています。
ちなみに、「三枝氏」について調べてみると・・・ 山梨県勝沼郡勝沼の大善寺 の創建者で平安時代、甲斐の国の在庁官人です。

残りの大部分が文治二(1189)年から建保六(1212)年にかけて 甲州岩泉寺 で書写されたもので、いずれも甲斐の国で書かれたものです。

甲州以外からのものでは、「奉施入熊野新宮」の墨書銘があるものが26帖あり、和歌山県那智郡熊野新宮から補配されたものです。


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もともと大般若経は巻子装であったのが、江戸時代、円空の手で冊子装に補修された

ようです。それは、経典の補修材に円空の和歌を書いた紙や神符が使われており、円空

が高賀で修行中に、痛んだ大般若経をすべて補修してたいことになります。


今回の和歌集展は、確かに円空自筆の和歌の展示ということで、興味もあるし、ここ

の記念館には、円空愛用の「硯」と「硯箱」、円空彫りのされた「錫杖」まで所蔵され

ていることからも、高賀の郷と円空聖人の深い関係が想像できますね。


 
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和歌も貴重なものなのですが、私がもっと興味をもって見てきたのは、やっぱり

「大般若経」でした。古いものでは平安末期に書写されたものが、この高賀の郷にあ

ると言うことと、それが何故か、お経の大部分が甲州から持ち込まれているという事

実。誰が、どうしてこの美濃の国の山奥に持ち込んだのか、とっても興味があります!


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  洞戸円空和歌集展は、平成28年9月24日〜 11月20日まで開催されています。

  円空彫りの体験もやっていますよ!!

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第二回円空和歌集展

洞戸円空記念館 20周年記念 円空和歌集展



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 洞戸円空記念館創立20周年を記念して、現在「第二回円空和歌集展」が 

開催されています。


 6年前の2009年にも一度、「円空和歌集展」を開催していますが、今回は、

円空聖人の和歌に対する情熱と、知識の深さを感じさせてくれるもので、あ

らためて、円空さんの偉大さを思わせてくれる内容でした。
 


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 ここで一つ和歌を紹介します。
 

  千早振る 扇は空に  円なる
  
          照る月と  再拝みつゝ

  この歌の意味は、

 「拝殿に掲げられた扇は、空に照る月のように美しい。

    い月が照らすは私の名でもある。

  私も、あの月のように、夜(世)を照らす教えを広めたいと、
 
  また、月を拝むのである。」


  自分自身を月に例えて読んだ歌ですが、仏の教えを民衆に広げよう

  と思う円空の気持ちを歌ったものだと思います。
 


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洞戸円空記念館に展示されている「和歌」は、すべて高賀神社所有のもので、

 円空さんが、高賀神社にあった傷んだ大般若経の修復にと、和歌を描いた和紙

 を経典の裏打ちに使っていました。 それを丁寧に剥がして、その一部を展示

 しています。


 
 ちなみに和歌の数は約1,500首余もあり、これほどの和歌が一か所にまとまって

 現存しているのはとても珍しいと思います。




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 円空聖人は、生涯12万体の仏像を彫ったことで名を馳せていますが、実は

 歌人でもあったという事実に、もう一つの顔を見ることができます。


 これだけの歌を詠みながら、同時に、鉈彫りの円空仏をも日々造りだして、

 仏の教えを民衆に広めようとしていたのではと思います。


 
 
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 時の権力者にはまったく媚びず、只ひたすらに、自分の目標とした12万体の

 造仏と、何千にも及ぶ和歌を詠い残すことで、民衆に仏の教えと、万民の救済

 を願った円空聖人。  

 その当時は、全く評価されていなかった円空仏や、存在さえ知られていなかった

 膨大な和歌の数々、・・・円空没後320年経った今あらためて、円空聖人の偉大

さに敬服の念を抱くのは私だけでしょうか? ・・・


この和歌集展は 平成27年9月30日 まで開催されています。

 興味のある方は是非出かけてみてくださいね。


 ■ 場 所  岐阜県関市洞戸高賀1212番地

           洞戸円空記念館  0581-58-2814 

          

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円空和歌集展

円空和歌集展に行ってきました!


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今年の「シルバーウィーク」は、5連休の方が多いのでは、もう少しかんばって9連休って方もいらっしゃるのではないでしょうか。

連休初日の今日は、秋晴れで風が心地よい一日でした。

関市洞戸高賀にある「洞戸円空記念館」では、「円空和歌集展」の初日となっていたのでちょっのぞていきました。

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円空さんは、江戸時代に12万体もの仏像を彫像したとされていて、現在全国で5,200体あまりの円空仏が発見されています。

その仏像の多さにも驚きますが、円空さんが残した和歌の数もこれまた多く、1,600首もあるそうです。

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その中でも、高賀神社の大般若経の裏打ちとして円空さんの和歌が貼り付けてあったものが最も多く、
今回の企画展は、それら円空さん直筆の和歌を展示しています。

中世の朝廷では、「歌」、「和歌」を読めない者は政ごとが出来ない教養の低い者として蔑まれていましたから、これだけの和歌を残している円空さんの才能は、やっぱり凡人ではありえないのでしょうね。

●円空の和歌を一首紹介します。

「立ち上る、天の御空の 神なるか

            高賀の山の 王かとそ念」


・・雨上がり直後の、霧が立ち上る高賀の里の神々しい風景を見て、それを絶賛した歌です。・・

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この円空和歌集展は、平成21年9月19日から10月4日まで開催しています。

●場 所 岐阜県関市洞戸高賀1212番地
     洞戸円空記念館  
     電話0581−58−2814  

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円空と雨乞い

高賀山頂で雨乞い・・・円空さん



円空さんが晩年滞在していた高賀山は、もともと五穀豊穣をもたらす水の神が宿る山として
信仰(後に十一面観音信仰へと変わっていきます。)を集めていました。

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太古の昔から、日照りが続き作物ができなくなると、高賀の山で雨乞い神事がおこなわれたと言われています。

その雨乞いをした事を裏付けるもの、つまり、円空さんが雨乞いをしたことを記したもの(懸仏)が、洞戸円空記念館に展示してあります。


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 七歳使者現玉
 元禄五年壬申卯月十一日
 此霊神成龍王天上
 一時過大雨降
 大龍形三尺余在
 此不可思議
 大般若真読誦時也
  円空 (花押)

    
元禄五(1692)年四月十一日、円空は高賀山の山頂近くにある峯稚児神社(高賀神社の奥の院)で、雨乞いの祈祷をしています。

円空さんが自ら書いて奉納した懸仏が高賀神社に残っていて、その懸仏の裏側には、
「雨乞いをしたところ、天上に、にわかに雲が出てきて大雨にめぐまれた」と記されています。

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祈祷と言えば、護摩を焚いて、念仏をひたすら唱える山伏の姿を思い浮かべるのですが、ここ洞戸にも明治の初めまで「宝寿院」と名のる山伏が、現在の矢作神社入り口に付近(現在は神社駐車場)にお堂を構えていたそうです。
そこへ円空さんが奈良の法隆寺での修行の帰り、高賀山を目指していく途中に「宝寿院」に泊まり、不動明王を彫り上げて行ったとされています。その像は洞戸円空記念館に保管されています。


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円空さんは、困っている人々を救済するために、木っ端仏を彫って人々に与えたり、病気の人への祈祷や
雨乞い神事等、普段誰もやらないことを、弱い村人たちのために率先して行っていたのですね。

 現代も「平成の円空さん」が現れたらいいのですが・・・


 

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円空と和歌集

歌人としての円空

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円空といえば、生涯12万体の仏像を彫ったとされ、その鉈彫りの荒々しい作風が頭に浮かんでくると思います。
でも、円空のもう一つ別の顔、「歌人」としての円空についてはまだ、あまり知られていないようです。

高賀神社には、円空の和歌が約、千五百首もあります。
そのほとんどが、大般若経を修復する時に、表紙裏に自作の和歌を貼りこんだもので、「元禄五年壬申暦五月吉日」(1692)の記銘があります。

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大般若経の和歌を貼りこむということは、経典とともに、自分の宗教観を残していこうという思いと、神への奉納の意味もあったのだろうと想像します。

千五百首の和歌のうち、「袈裟」(けさ)の二文字の付く歌、百首、「男童子」の二文字の付く歌、百首あるのが特徴のようです。

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○円空が歩いた高賀山頂から峯稚児神社への尾根道。

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○大岩の上に鎮座する峯稚児神社

『白ら山や神ノ形ハ小児なれや白馬に乗って弓矢持つつ』

 白山や高賀山峯稚児権現を詠んだ歌も数多くあります。

円 空 が使った硯

円空は、放浪の旅の最後の地として、ここ高賀神社を選んでいます。
生誕地とされる、羽島又は美並ではなく、洞戸の高賀なんですね。
ここで、多くの仏像を造り、そして和歌を書いています。
その時使っていた硯と、硯入れの箱が、高賀神社宮司宅に大切に保管されてきました。
(現在は洞戸円空記念館に展示してあります。(県重文))
硯の裏には「峯児」と彫ってあり、高賀山頂の峯稚児権現のことを表しています。

放浪の旅をやめて、高賀で修行すること三年。宮司に大切な硯を預けて、最後は関市池尻の長良川河畔で入定するまで、円空は、高賀の地で仏像と和歌を作り続けていたことになります。

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○円空の硯

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○硯箱
円空と同年代に生きた、 西鶴 芭蕉 は当時から高い評価を受けていました。それは、現代にまで読み継がれ名作となっています。
これに対して円空の評価は無いに等しいものでした。もっとも、作品を評価していた人が、都会の上級、中級の武士や商人たちであって、山村で活躍していた円空は、彼らと接することがなかったため、評価を得る機会さえなかったからなのでしょう。

膨大な数の円空仏が地方に保管されている事や、「飛州誌」や「近世奇人伝」、各寺院等で円空の名を留めていることから、円空が地方で高い評価をうけていたことを物語るものだと言えるでしょう。

元禄文化を語るに、西鶴や芭蕉らといささかもひけをとらないのではと思ってしまいます。

 

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