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みなさん、こんにちは。
慶長6年(1601)、徳川家康は、宿駅伝馬制度を整え、日本橋を起点に5街道を整備して1里(約3.927㎞)ごとに一里塚を設置しました。甲州街道は、当初、その終点は甲府でしたが、慶長15年(1610)、下諏訪まで延長して中山道に接続されました。総行程54里、現在そのうち36について、一里塚が残り、または、標柱、石碑、説明板が設置されています。
私は、旧甲州街道を完歩し
長野編2/2は、諏訪市と諏訪郡下諏訪町内の一里塚の紹介です。一里塚は現存しませんが、いずれについても石碑と説明板が立てられているのが特長です。
51/54里:四賀神戸
長野県諏訪市四賀神戸。旧甲州街道は、国道20号から「茅野上原」郵便局
52/54里:片羽(かたわ)
長野県諏訪市諏訪1丁目12-8。旧甲州街道は、国道20号を進み、JR東日本
53/54里:富部(とんべ)
長野県諏訪郡下諏訪町五官。旧甲州街道は、片羽一里塚のある脇道をそのまま道なりです。威徳寺へ入る道の約50m手前に、石碑と看板があります。“この塚は江戸(現、東京)より53番目。甲州街道中最終のもの。あと11町(1100m)で賑やかな下諏訪宿に着き、中山道につながる。”(左右
54/54里:下諏訪
長野県諏訪郡下諏訪町横町木の下。甲州街道はここで終点、中山道に接続します。一里塚はありませんが、現在、「甲州道中・中仙道合流之地」の記念碑が建てられています。記念碑の左横の里程表示板には、「旧甲州道中 ð江戸 五十三里十一町」、「旧中山道中 ï江戸 五十五里七町 京都七十七里三町ò」と、各々の街道の出発点(終着点)までの距離
が記されています。(左右
「旧甲州街道を完歩しました−全ての一里塚」シリーズ
また、私のブログ
なお、よろしければ、バック・ナンバーもご覧
1.東京:12/8/3-5 2.神奈川:12/8/26
3.山梨:12/9/15-17 4.長野:12/10/7-8
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旧甲州街道を完歩しました。
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みなさん、こんにちは。
慶長6年(1601)、徳川家康は、宿駅伝馬制度を整え、日本橋を起点に5街道を整備して1里(約3.927㎞)ごとに一里塚を設置しました。甲州街道は、当初、その終点は甲府でしたが、慶長15年(1610)、下諏訪まで延長して中山道に接続されました。総行程54里、現在そのうち36について、一里塚が残り、または、標柱、石碑、説明板が設置されています。
私は、旧甲州街道を完歩し
長野編1/2は、諏訪郡富士見町と茅野市内の一里塚の紹介です。
46/54里:平岡
長野県諏訪郡富士見町落合平岡。国道20号の左側、「ドライブイン赤石
なお、旧甲州街道を歩く
47/54里:重修(塚平)
長野県諏訪郡富士見町富士見塚平。平屋家屋(「若宮高原治療院」の看板あり)のすぐ手前、三菱マテリアル建材の敷地(空き地)の約100m手前の空き地。右塚のみ現存して、榎が植えられています。塚の前には石碑が置かれています。近くには、道祖神の石碑、「甲州街道コース」と「標高950m」という標識があります。(左右
なお、旧甲州街道は、三菱マテリアル建材の敷地を横断していましたが、私有地のために、現在は周りを迂回する必要があります。
48/54里:御射山神戸(みさやまごうど)
長野県諏訪郡富士見町御射山神戸。国道20号から左の脇道に入り、「御射山ハイツ」の先約100m。道の両側に塚があり、“道路の東塚にはエノ
キが、西塚にはケヤキが育っていたが、東塚のエノキは明治初期に枯れてしまったという。”現在、東側には、新たに塚の上に榎が植えられて、説明板も設置されています。(左右
一方、“残っている西塚のケヤキは、塚が作られた慶長年間に植えられていたものと推定され、樹齢はおよそ380年を数える。現在では目通り高で幹の太さが周囲6.9メートル、樹高は約25mの巨木となり、長い歳月と風雪にたえて堂々たる風格をそなえ、樹勢もなおさかんである。甲州街
49/54里:大池
長野県茅野市金沢大池。国道20号「矢の口」交差点
その後、旧甲州街道は「貴舟」交差点で国道20号に合流して、約500m先の右側の坂道から脇道に入ります。私が2012年8月に歩いた時に、軽自動車
50/54里:茅野
長野県茅野市宮川4768-3。茅野一里塚は、旧甲州街道の一部が通行不可能
再び細い階段の下に戻って、更に脇道を進んで(旧甲州街道を戻って)みました。約200mで通行止め。左側にJR東日本
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みなさん、こんにちは。
慶長6年(1601)、徳川家康は、宿駅伝馬制度を整え、日本橋を起点に5街道を整備して1里(約3.927㎞)ごとに一里塚を設置しました。旧甲州街道は、当初、その終点は甲府でしたが、慶長15年(1610)、下諏訪まで延長して中山道に接続されました。総行程54里、現在そのうち36について、一里塚が残り、または、標柱、石碑、説明板が設置されています。
私は、旧甲州街道を完歩し
29/54里:日影
山梨県甲州市大和町日影。日影一里塚は、旧甲州街道の一部が通行不可能
そのフェンスから約120m直進する(旧甲州街道を戻る)
更に道を進んで(旧甲州街道を戻って)
30/54里:横吹
山梨県甲州市大和町初鹿野。横吹一里塚も、通行困難
付近一帯は葡萄畑
31/54里:恋塚:現存しません。
32/54里:等々力:現存しません。
33/54里:南田中:現存しません。
34/54里:石和:現存しません。
35/54里:板垣:現存しません。
36/54里:荒川橋(甲府):現存しません。
37/54里:竜王:現存しません。
38/54里:志田:現存しません。
39/54里:韮崎:現存しません。
40/54里:祖母石:現存しません。
41/54里:下円井:現存しません。
31里から41里迄の11の一里塚は、いずれも現存しません。また、その呼び名も一定していません。
42/54里:武川
山梨県北杜市武川町牧原。旧甲州街道が国道20号と合流する地点(国道20号「宮脇」交差点
43/54里:三吹
山梨県北杜市武川町三吹。旧甲州街道が国道20号と合流する地点(国道20号「上三吹」交差点
43里10町/54里:台ヶ原(白須)
山梨県北杜市白州町台ヶ原。旧甲州街道は、国道20号を「台ヶ原下」交差点
44/54里:荒田:現存しません。
45/54里:上教来石:現存しません。
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慶長6年(1601)、徳川家康は、宿駅伝馬制度を整え、日本橋を起点に5街道を整備して1里(約3.927㎞)ごとに一里塚を設置しました。旧甲州街道は、当初、その終点は甲府でしたが、慶長15年(1610)、下諏訪まで延長して中山道に接続されました。総行程54里、現在そのうち36について、一里塚が残り、または、標柱、石碑、説明板が設置されています。
私は、旧甲州街道を完歩し
山梨編2/3は、大月市内の全一里塚の紹介です。
22/54里:上鳥沢
山梨県大月市富浜町鳥沢。国道20号右側。「鳥沢駅前」交差点
ただ、更に100m手前、国道20号右側「鳥沢小学校
23/54里:殿上(猿橋)
山梨県大月市猿橋町殿上19。国道20号右側。「ENEOS長田燃料店
24/54里:下花咲
山梨県大月市大月町花咲1652。国道20号左側、「スーパー公正屋大月店」の向いです。元の一里塚は、明治13年からの国鉄
25/54里:丸山:現存しません。
26/54里:白野
山梨県大月市笹子町白野。国道20号から分れて「笹子公民館白野分館」につづく右脇道の手前約30mに、「白岩大権現神社」へつづく滝子川沿いの細道があります(右)。人通りはほとんどありません。滝子川は幅約1m、水深約30㎝の小川です。JR東日本
27/54里:黒野田
山梨県大月市笹子町黒野田。国道20号右側、黒野田橋北西。「普明禅院」の門前、向って左側に木柱(「一里塚跡 黒野田」)、右側に石柱(「江戸日本橋ヨリ二十五里」)があります。(左
28/54里:笹子峠(矢立):現存しません。
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私は、旧甲州街道を完歩し
今回は、旧甲州街道中に現存する全ての一里塚を紹介します。
山梨編1/3は、上野原市内の全一里塚の紹介です。上野原市内の一里塚の特長は、4か所全てに説明板が設置されていることです。
18/54里:塚場
山梨県上野原市上野原1013。県道520号の右側、「疱瘡神社」鳥居の左前に説明板、お社(赤色)の右奥に一里塚があります。
19/54里:大椚(おおくぬぎ)
山梨県上野原市大椚字大浜167。道路の左側。鳶ケ先橋を渡って約100m。その先約200mの道路左側の駐車場
20/54里:荻野
山梨県上野原市野田尻1028。北久保橋を渡り脇道から県道30号と合流して約150m、右カーブのあたりです。右土手の上に標柱(「上野原市指定史跡 荻野一里塚跡」)と説明板がありましたが、昨年、標柱は残して説明板だけがその先約10mに移設されました。
“一里塚の標柱が現在地から東に約10mの県道脇に建てられていますが、この付近の街道両側に一里塚があったと言われています。古老の話によると、北側の塚の上に「ヒラマツ」と呼ばれた老松がありました。”昭和47年3月22日上野原市史跡に指定されています。(上右左
山梨県上野原市犬目1353-8。道路左(南)側。脇道から県道30号に合流し、右カーブの中央あたりです。左塚だけが現存して、説明板が設置されています。右塚は道路の拡幅工事で削られてしまいました。“塚はよく原形を残しており、直径約12m、高さ約5mの円丘です。昔は街道を挟んで北側にも塚がありました。もともと付近は峰続きでしたが、旧街道を作る時に掘割りにしたため、道の両側に小高い場所ができました。この地形を利用して一里塚が築かれたものと考えられています。…平成18年大雨によって塚の西側斜面が崩れたため復旧工事を行いました。”『甲州道中宿村大概帳』には「左右の塚共大目宿地内木立左杉、右松」とあります。
なお、甲州街道の一里塚に、国の史跡はありません。ここ恋塚の一里塚は、唯一、山梨県の史跡です(長野県の史跡として48/54里:御射山神戸(みさやまごうど)があります)。平成14年7月4日に指定されました。(左右
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