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どうも皆さんお久しぶりです。
前回の記事から期間が空いてしまいましたね。自分は筆不精なもので、ちょっと気を抜くとすぐこうなってしまう……現在色々と炭鉱ネタを収集してはいるのですが、どうぞ暫しお待ちを。
さて、自宅の物置を漁っていると、祖父&親父が大夕張に住んでいた頃の写真がごっそりと出てきた。とは言っても、その写真のほとんどは宴会だったり慰安旅行だったり葬儀だったり結婚式だったりと、このブログにアップをしても全く意味のないものばかり(俗に言う「ハレの日」の写真だ)。
そうだよな…半世紀近く前だと、写真はおいそれと気軽に撮影できるものではなかっただろう。カメラそのものが高価だったし、フィルムの撮影枚数も限られていたからだ。今みたいにデジカメやスマホでちょっと気になる風景を100枚単位でパシャパシャ、とはいかない時代だったのだ。
だがそれらの中にも興味深い写真が何枚かあったので、アップをしてみたいと思います。
この写真は、鹿島小学校の裏手にある高台から栄町〜代々木町方面を撮影したもの。右手前に見える野球のバックネットは鹿島小学校のグラウンド。
画像中央部には木造の炭住に囲まれるようにたたずむ、コンクリート4階建ての代々木アパートが見える。
制服姿の子が多数いるので、何らかの催し物(遠足?)であろうか。現在この撮影場所はシューパロダム(2015年完成)の湖底である。
ちなみに親父曰く、生前の祖父は酒のツマミを獲ってくると称して、鉱員仲間達と大夕張ダム直下の出水口へ行き、壁面に貼り付いているスナヤツメを真上からタモですくい取って持ち帰り、鍋にして食べていたそうな。
とても危ないので真似しないように。
ここは以前の記事でもチラッと書いたが、自分の親父が若かりし頃に一時期働いていた工場だ。坑内のガス抜きボーリングで吸い取った濃厚なメタンガスは、パイプを伝って地上へ送られ、反応塔で化学処理をされメタノールとなった。そして製品となったメタノール(純度99.9%:工場関係者は『スリーナイン』と呼んだ)は三菱大夕張鉄道のタンク車に充填されて北海道各地に向けて出荷された。
1960年代中頃までは、大夕張の工場一つで全道のメタノール需要をほぼ賄えたという。
なお、この工場は1971年10月に操業停止・閉鎖されている。
湖面にはうっすらと氷が張っている。
大夕張神社の寒中禊。1962年12月31日撮影。
毎年大晦日の夜になると、炭鉱で働く鉱員・職員は褌一丁で頭には三菱の代紋が入った手ぬぐいを締め、足下はわらじを履き、鼻毛も凍る氷点下の大夕張神社へ年越し詣・新年詣で安全祈願をするのが伝統であった。
このイベントは後にNHKのゆく年くる年で全国中継もされた。
子供神輿の列。三菱大夕張の大きな幟があるので、大夕張神社の近くだろう。
現在の過疎化・高齢化が著しい夕張市では想像もつかないが、まだ複数の炭鉱が稼働していた当時はどこへ行っても大勢の子供がいた……と親父談。
同じく祭りの列。撮影場所不明(駅前通?)。
後続の飾られたトラックの荷台には、太鼓や笛のお囃子を担当する人間が乗り込んでいる。
4階建て鉄筋コンクリート製の代々木アパートは、完成当時大夕張で最もモダンな炭鉱住宅として人気があり、入居倍率はかなり高かったという。
烏帽子と白装束に身を固めた大人たちも神輿を担ぐ。
道路を行進しているのは、服装からするとボーイスカウトの一団だろうか。背後の道路上にあるのは鹿島地区唯一の歩道橋。
そして歩道橋のそばには大夕張鉄道の腕木式信号機が見える。ちなみに南大夕張駅〜大夕張炭山駅間は1973年12月廃止。
後ろのトラックはマイナーチェンジ後の初代三菱キャンター?
画像中央やや左にある立派な建物は、大夕張炭鉱労働組合の事務所。
炭山祭の間は炭鉱も採炭はせず、一部の保安職員・鉱員以外は全員休みとなる。そしてこの貴重な時期を使って普段はできない立坑や斜坑のワイヤー張り替えや、大型機材の修繕を行っていた。
撮影場所不明(緑町の集会所?)。
地面に座ってジュースを飲みながら休憩している子供達。瓶ジュースと実用自転車が時代を感じさせる。
この頃で10才前後の小学生だとすると、今では50代後半の年齢だろう。
大人(世話役?)の周りに集まる子供達。
以上、賑やかさと華やかさと生活感を感じる写真をアップしたが、この頃の大夕張地区には既に「閉山」という二文字が目前まで近づいていた。
祖父は大夕張炭鉱が閉山する直前に定年となり、それまで長年住んでいた炭住を引き払って札幌に退職金で家を建てて移住、親父も時を同じくして札幌にある会社へ就職して大夕張を離れた。
今では一部を除いて大部分が湖底へと沈んでしまった大夕張地区ですが、半世紀前までは大勢の人達が生活をしていた「街」があったのだ。
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炭鉱
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前回の続きです。
沼ノ沢駅を後にして、次に目指したのは清陵町の山奥にある夕張新鉱の跡地。
あれから2年の月日が流れた……。
12:35 PM
2年前に来た時は、ゲートが閉まっていたので奥まで行かずにそのまま引き返したが、今年は徒歩で新鉱の総合事務所・立坑跡まで向かうことを決めた。
肝心の駐車場所だが、ゲート手前にある農家の敷地内にズカズカと入り込んで停めるのはさすがに失礼なので、砂利道の脇にある、ちょっとした草地へ邪魔にならないよう長江を置いた。この場所から新鉱の跡地までは、自分の足だと15〜20分前後だろうか。
船のトランクから荷物を取り出している最中、ガス突出事故の発生時刻である12:41 PMを迎えた。
新鉱へと向かう林道のゲートは固く閉じられている(「もしゲートが開いていればそのまま奥まで乗り付けて…」と邪な期待をしていたが、現実は非情だ)。林業や工事関係者以外は車での進入はできないので、ここは素直に徒歩で向かうこととなる。ゲートの脇を通って奥へと進む。
ゲートを越えたら熊避けのために「あー!!」とか「おーい!!」などと数十秒ごとに叫びつつ、落ち葉が軽く積もった林道内を進んでいたちょうどその時、突然「パアァァァーーーン」と耳をつんざく音が右手から聞こえてきた。
!!…これは銃声だ!
瞬間的に姿勢を低くして身構える。
どうやら銃口をこちらへ向けて撃った訳ではない…とは思うが(もし撃たれたらシャレにならん)、射手は100mほど離れた北の沢林道の河原付近にいると感じた。一応は森の中でも目立つように派手なオレンジ色のジャケットを(遭難対策として)着てはいるが、こういう事態になると少々困る。
物騒だが、とりあえず気を取り直して林道を歩く(まだ後ろからは何発か発砲音がしている)。しばらくすると南の沢林道との分岐点にさしかかった。ここでは脇道へそれずに直進をする。
分岐を進むと右手にペンケマヤ川が見えた。川幅は狭く、水量はかなり少ない。
地図上で距離を計測すると、ゲートから新鉱跡地までは約1600mほどで大したことはないのだが、一人で薄暗い林道をトボトボと歩いているうちに、孤独感もあって妙に長く感じてくる。笹藪からヒグマが出てきたらイヤだなぁ……。
歩きながら色づいた木々を見やる。
当時の事故に関する書籍などを読むと、35年前のこの日、夕張新鉱周辺の山々は紅葉の最盛期で燃えるように鮮やかだったという。そしてその美しい紅葉の中、救急車がサイレンを鳴らしながらひっきりなしに林道を走り、上空には何機もの報道ヘリが飛来していた。
6年前の2010年に訪れた際には路肩が大きく崩落していたカーブ周辺も、今ではきちんと修復されていた。ただ、左側から沢水が流れ込んで路面を濡らしているのがちょっと気になる。地盤が緩んでまた崩れたりしないだろうか。
うげっ……この状況下で一番見たくないものが、いきなり視界に飛び込んできた。道の真ん中に落とされたヒグマのウンコである。知ってる人は知ってるとは思うが、夕張市内にある山林のほとんどがヒグマの生息域である。ただし、このウンコは排泄されてから5〜6日程度の時間が経過していることが救いだろうか(できたてホヤホヤだと至近距離にヒグマがいる可能性が高いので危険)。
せっかくなのでこのウンコをよく観察してみると、中には未消化の植物種子(ヤマブドウか?)が多数存在し、いくつかの小さな糞虫(フンコロガシの仲間)が忙しそうに取り付いていた。あと10日もするとこのウンコは分解されてかなり小さくなるだろう。
突然のヒグマのウンコで肝を冷やしたが、とりあえず気を取り直して林道を歩く。
しばらくするとカーブ手前の道路端左側に立てられた『警笛鳴らせ』の錆びた標識を発見。現在の同じ標識と比べると描かれ方が左右逆になっている(それとも設置時に作業員が逆につけてしまった?)。
北炭清水沢火力発電所から高圧鉄塔を経由して送られてきた電気は、ここにあった変電設備で変圧をされた後、坑内外の機械類を動かすのに使われた。
変電所跡からさらに200mほど歩くと通洞が出現。清陵町側のと比べると、ここの鉄柵はいかにも片手間で組み付けた感じがして、かなり雑な作りだ。稼働当時はこの通洞の横に腰をかけるベンチなどが置かれていた。
入口の手前5mほどに近づくと、通洞の奥から微かに泥とカビの臭いが合わさったような湿っぽい冷風が漂って、自分の身体を包み込んだ。正面に見える扉の金具には通洞内へ立ち入らないよう錠がガッチリとかけられている。
ふと足元を見ると、人一人が通れるくらいの幅で草が倒れており、しっかりとした踏み跡が確認できる。今でも自分みたいな人間がここへ訪れているのだろう。
通洞から北へ100mほど離れた場所にある爆薬の分配所。位置としては繰込所がちょうど目の前だ。
変電所から林道を挟んで向かいにあった爆薬庫から爆薬や雷管を出庫し、この分配所内で発破資格を持つ担当鉱員にその日の作業で必要な量の爆薬を渡していた。もしこの内部で不意に爆発をしても被害を最小限に食い止められるよう、建物はコンクリートで頑丈に固められ、斜面に半分埋まったトーチカみたいな構造となっている。
以前(2010年)来た時には入り口が土砂で塞がれていたが、いつの間にやら誰かが端をスコップで掘り込んだらしく、中に(体をよじれば)入れるようになっていた。自分も入ってみたい衝動に駆られたが、生憎手元にまともな照明器具が無く、しかも単独行なので無理は禁物。隙間から頭を突っ込んで覗き見る程度に留めた。
とりあえずミニライトで照らしてみると内部は深く、5〜10mほど奥行きがあるみたいだ。うーむ、これについては今後の課題としたい。
上部にはガス抜き用の錆びた放散塔が設置されている以外は、特にこれといったものはない。放散塔の根本にあるバルブも試しに回してみたが、長年風雨に晒されて完全に錆びついているため、ピクリとも動かなかった、
巻室側から立坑を見る。
さすがに総合事務所解体から30年以上の月日が立つと、人の手が一切入らないせいかコンクリが打設された場所にも樹木が生い茂ってしまう。所々に明るい水色のものが露出しているが、これは巻室の床面に塗られている塗料の色だ。
巻室と立坑の間に埋まっている新R型立坑櫓の基礎。その横で大きく成長しているシラカバにも注目。
巻室の周辺にいくつか転がっていた鉛バッテリー。ちなみに中身の硫酸は完全に抜けきっている。大きさとしてはティッシュ箱を一回り大きくした程度だが、持ち上げてみるとカーバッテリー並にずしりと重たい。
機械類の非常時動作用として使われたのだろうか?
この辺はセイタカアワダチソウが猛烈な勢いで茂っており、冬山のラッセルみたいに漕いで接近をした。
だけどせっかく近づいて撮影したこの画像、若干斜めに傾いているな……。
繰込所の中心部から立坑・扇風機風洞方面を望む。
繰込所に落ちていた鉱員用キャップライト。バッテリー上部の金具にあるはずの番号票は付いていなかった(軍隊において兵士の首から下げる個人認識票【ドッグタグ】と同じく、各鉱員のバッテリーには数字が刻印された5cmほどの小さな金属票が必ず貼り付けられる。これは坑内災害に被災した場合、判別がつかないほど損傷した遺体の氏名を確認するためだ)。
ふと、この捨て置かれたキャップライトを使用していた人は、今でも存命なのだろうか…と頭に浮かんだ。
完全に破壊された坑口浴場の浴槽。浴槽は全部で6個並んでいるが、この画像のと同じ大きさのが5つ、半分ほどの大きさのが1つ(変電所側)ある。
4年前に訪れた釧路コールマインの体験入坑後に入浴した浴槽と比較すると、大きさはほぼ同じくらいだが、こちらのは少し浅いような感じがする(浴槽内は瓦礫と雑草で埋めつくされているので詳しくは分からないが)。
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新鉱の跡地をデジカメ片手にあちらへふらふら、こちらへふらふらと気が向くままに彷徨いながら撮影をしていたが、ここで時間を確認すると13:20 PM。太陽もすでに斜めとなり、地面に落ちる影も次第に細長くなり始めていた。秋の日は短いので、探索はこの辺で切り上げて戻ることにしよう。
通洞から直線距離で400mほど離れた場所にある第二立坑跡にも行きたかったのだが、これから薄暗くなる時間帯だとヒグマに遭遇するのが怖いので、ここは素直に諦めることにした。
人気の全く無い山奥での単独探索は「命あって」のもの。あくまで「趣味」でやっている事なのだから、こういう時は臆病なくらいが丁度良い(と自分に言い聞かせる)。
新鉱跡から林道ゲートへ向けて歩いていると、途中の水たまりの近くに何やら小さな細いロープが落ちているのが見えた。「奥へ行く途中に捨てられたロープが落ちていたっけ…?」と思いながら近づいてみると、それはロープではなく泥の上で一休みをしているヘビだった。
長さ40cm、直径は2cmほどの小さなヘビ。生き物の同定は得意ではないが、アオダイショウやジムグリなどの幼蛇だろうか? いや、もしかするとヒバカリ? 休憩中に突然人間に近寄られて驚いたのか、このヘビはクネクネと這いながら林道脇に積もった落ち葉の山へと潜り込んでいった。邪魔してゴメンよ。
13:40 PM 林道ゲートへと無事到着。頭上を鬱蒼とした木々が生い茂る林道を抜けて農家や畑が視界に入るとホッとした。
長江の横でペットボトルのジュースを飲み、一息ついてから清陵町へと移動する。
林道ゲートから5分ほど走ると清陵町の通洞・慰霊碑前に到着。中央奥に見える建物は清陵町の公衆浴場(炭住アパートには風呂が無いため)。
いつもはほとんど人気の無いこの場所も、今日は事故の発生した日ということで、広場には慰霊碑に手を合わせに来たと思われる数台の車が駐車していた。
”我が新鉱をがつちり守ろう 出稼と 保安と 生産で”
昔と比べると色がかなり褪せてきた新鉱の標語看板塔。6年前に撮影した画像と比較すると一目瞭然だが、あと7〜8年もするとこの標語のペンキ文字は、ほとんど消え去ってしまうのではないだろうかと心配になる。書かれた標語をよく読むと「出稼」が一番で「保安」が二番目となっている。炭鉱を経営する会社が保安を蔑ろにするような傾向を持っていると、坑内災害の続発は必然であった(※)。
そしてこの標語と同じ構図は未だに日本の多くの企業や組織にはびこり、多数の労働者の生命を奪っているのは、ここ最近のニュースでも御存知の通り。事故から35年が経過していても大して変わらんのだ、この国は…。
※ 逆に釧路コールマイン(旧:太平洋炭鉱)では、過去に繰り返し発生した重大事故を教訓とし、坑内災害を防止するために、炭鉱でありがちな出炭量至上主義を捨てて「安全第一・生産第二」という標語を繰込所に掲げている。
夕張新鉱殉職者慰霊碑
碑の台座には、1970年の建設工事開始から閉山に至るまでの間に、夕張新鉱で命を落とした作業員120人の名が記されている。多くの者の命日である本日、ここへ来て花束や線香を供えていった遺族の胸中は如何許りか。
清陵町側の通洞入り口。
以前に訪れた時と比べると下草が刈られ、ある程度は整備されていた(10月16日ということもあるかもしれないが)。足元はグジュグジュとやや湿っているものの接近は容易。
周辺の町内会の人たちがわざわざ手入れをしたのだろう。頭が下がる思いだ。
次は通洞・慰霊碑から400mほど離れた場所にある、ボーリング(試掘)現場へと移動。
当然それらの周辺は工事関係者以外立入禁止であり、すぐそばへ行くことは不可能……だがカバー等で目隠しはされていないので、遠くの邪魔にならない場所から作業を(勝手に)見学することとした。
今年の春からテレビや新聞などで何度か報道されていたが、9月15日から旧清陵小学校跡地において、炭層中に含まれるメタンガス(コールベッドメタン CBM:Coalbed methane)を地上から吸い上げる試験が実施されている。
この試掘井の名称は夕張CBM-清陵1号井。ボーリングの目的は炭層内に含まれるメタンガス及びコアの採取と地質の確認、採掘に関連する様々なデータの収集と思われます。
発注者は夕張市(まちづくり企画室)、施工者はエスケイエンジニアリング、アドバイザーとしてNPO 地下資源イノベーションネットワークが参加をし、JAPEXと夕張地区のガス採掘権を保有するレアックスが共同で行っています。
掘る深さは960m、試掘にかかる費用は約2億円(うち1億円はJOGMECからの補助金)、工事期間は11月30日までとされています(掘削そのものは10月末頃には完了する予定)。
深さは960mということなので、夕張層の中でも厚く発達している平安8尺層、10尺上層、10尺層などの夕張新鉱でも掘られていた原料炭炭層(平安8尺は一般炭だが)で試験を計画しているみたいだ。
今回のボーリング調査の結果によっては、2017年度以降から試験生産を実施し、そのまま順調に進めばメタンガスを燃料とするガス発電や、周辺のメロン農家向けのビニールハウス暖房なども視野に入れているという。
この時はちょうどトラックのユニックでボーリングロッドを吊り上げ、順に装填して繋いでいる様子だった。ロッドの内径は30cm前後と思われ、遠目からでも結構な太さと長さがあるのがわかる。
この高さ30mの試掘井の櫓は、一通り掘り終わったら解体されると思われるので、興味がある人はなるべく早めに行ったほうが良い。20年ほど昔に苫小牧市郊外で見た巨大な石油ボーリング櫓あけぼのSK-1ほどではないにしても、ここは見る価値があるだろう。
だが、このメタンガス事業で肝心の夕張市の財政・収入が好転するかどうかは、まだ誰にもわからない。
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腕時計を見ると時刻は既に午後2時を回っていた。風も冷たく感じてきたことだし、そろそろ帰るとするか(実は南部方面にも行きたかったが…)。
帰り道は若菜から道道3号線を走って由仁を経由して北広島へと抜けた。途中、国道274号線とぶつかるY字交差点にあるコンビニで軽く休憩をとる。15:03 PM
だけど十年来のサイドカー乗りが老婆心ながら言わせてもらうと、いくらノーヘルが法の建前でOKと言われているトライクでも、乗る時にヘルメットは絶対に被った方がいいと思うぞ(全員ノーヘルだったので)。走行中にカーブで膨らんで転倒したり、虫が顔面にヒットしたら、間違いなくただでは済まないのだから……あー、自分も何だか説教臭い人間になってきたなぁ…。
とりあえず15分ほど休憩をした後、自宅に向けて出発。
この後は西の里や厚別で運良く渋滞にハマることもなくスムーズに帰ることができた(観光地からの帰りで混雑する日曜日夕方なのにね)。16:36 PM
以上、そんなこんなで35年目の10月16日の夕張の記録でした。
長江冬眠前にあと一回は走りたい気持ちもあるが、気温と天候を考えるとさすがにもう無理だろうか?
本日の走行距離:144km
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※ この日記は、本来ならば夕張からのツーリングを終えた10月16日当日の夜にアップをする予定でしたが、諸般の事情により1週間遅れとなってしまいました。
読者の皆様、どうかご了承下さい。
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ここ最近の晴れたり曇ったり雪が降ったりといった、短期間で温度と天気が猫の目のように忙しく変化する北海道内ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
さて、タイトルにも書かれている通り「10月16日」はあの北炭夕張新鉱でガス突出事故が発生した日です。そして今年は1981年からちょうど35年が経過した節目の年でもあります。
以上、本日はその夕張へ短時間ではありますが長江サイドカーでツーリングに行ってきたことを書き記してみたいと思います。
10月16日(日)
10月も中盤となり、太陽が顔を出している時間帯でも肌寒い日が増えてきた。そろそろ我が愛車の長江サイドカーも冬眠に向けて準備をする時期だろうか、などと考えながら朝6時半に起床。朝食を食べ身支度を整えて、7時半頃にいざ出発……と思っていたところ突然身内から電話があって色々とゴタゴタしてしまった。この騒動により出発が2時間以上遅れて9:50 AMに自宅を出ることに。
札幌新道から国道274号線へと入り、収穫の終わった田園地帯にある直線道路を長江は50km前後で駆け抜ける。体に当たる風は先月よりも少々冷たいが、その分エンジンの調子が上がった気がする。だけど右シリンダ付け根部分からのオイル漏れは本当にどうにかしないとな。右側の靴にベットリとオイルが染み込んでしまっているのはどうにも……。
とりあえず夕張行の途中にある道の駅マオイの丘を目指すとするか。
直売が開いていない春と冬を除いて、いつ来ても大勢の人で賑わっている道の駅マオイの丘(長沼町)。トイレ休憩とエンジンオイル冷却中の暇つぶしを兼ねてふらりと店頭を冷やかしてみるが、夏〜秋の天候不順の影響で売られている野菜が結構高い。
しかしそれでも札幌市内のスーパーよりは多少安いのだが…。
オイルを適温まで下げた後、ジロジロと刺さるような視線を感じながらエンジンを始動。夕張へと向かう。11:15 AM
マオイの丘を出発して夕張市紅葉山に至るまでの間、夕張川沿いの紅葉を楽しみにして走っていたのだが、途中の霧雨橋周辺からは葉が若干色づいている程度のやや期待はずれな紅葉であった。桜で例えると3分咲きといった感じか。
もう3〜4日ほど経てば葉の色も濃くなって絶景へと変化しているかもしれない。
昨今話題となっている夕張支線(夕張駅〜新夕張駅間)は、今年8月に開かれた夕張市長とJR北海道の協議により、3年後の2019年3月をもって廃線となることが(ほぼ)確定した。北海道内に赤字路線は多数あれど、この夕張支線は21世紀の今までよく持った方だろう。
夕張市内でまだ北炭と三菱の炭鉱が稼働していた当時、夕張支線には機関車と客車と石炭貨車が数え切れないくらい走っていた。そして踏切の遮断機も昼夜を問わずひっきりなしに上下していたであろう。
その踏切で発生する列車と人との事故を減らすために作られたのがこの跨線橋だ。
しかし度重なる閉山で夕張市から炭鉱が消え、利用者の減少により鉄道が消え、そしてこの跨線橋も今その役目を終えようとしている。今ではここの線路を通過する列車は、上りと下りの両方を合計しても1日10本しかないのだ。
「跨線橋を作らねばならないほど、沼ノ沢では列車の往来が激しかった」という過去を証明する遺構だが、完全な姿はここ数週間で見納めかと思われる。
ちょっと登ってみる。
階段は子供向けとして作られたのか段差が15cm前後と非常に低く(跨線橋のすぐそばには5年前に廃校となった夕張市立緑小学校(沼ノ沢小学校)がある)、左側には自転車を押して載せるための斜路となっている。段差の隙間には雑草がすごい勢いで生えており、まともに人が歩いた形跡はない。上の通路部も両端が雑草に占拠されている。
位置的にこれは沼ノ沢駅構内にあった北炭夕張新鉱専用線から本線へと繋がる線路跡……ではないだろうか?
上の画像だと右と左の倉庫は稼働当時から資材などを保管する倉庫として使われていた(真ん中のは不明)。なお、この位置からは死角になって見えないが、奥にも当時そのままの倉庫が現在でも利用されている。
しかし夕張新鉱の坑口事務所や立坑櫓が既に解体されてしまった以上、当時から残る新鉱の物証はこの倉庫や通洞、斜坑坑口、清陵町の団地くらいしか存在しない。
そして新鉱閉山後しばらくしてから選炭工場は解体され、跡地は沼ノ沢工業団地として分譲がされたが、左側に見える食品工場以外は思うように誘致が進んでいない。
跨線橋と倉庫を一通り見終わって沼ノ沢駅へ戻ってきたと同時に、正午を知らせる大音量のサイレンが鳴った。駅前にはいつの間にやらレストランおーやまを目当てに訪れた多数の車とバイクが停められていた。夕張ではかなりの知名度を誇る有名店だけあって、窓越しに見える店内も結構賑わっているみたいだ。
自分もここで食事をしたかったのだが、時間が押していたこともあり今回は残念ながらパス。
調理場の換気扇から漂ってくる旨そうな料理の匂いを嗅ぐだけに留めた。
車内をチラリと見てみると、意外にもそこそこの乗客がいた(失礼ながらもっとガラガラかと思っていた)。中には新聞やテレビで廃線を知り、記念で乗ってみた……という人もいるのかもしれない。
続きます
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前回の続きです。
清陵町の通洞跡を後にし、次の目的地へと向かいます。
その途中、清陵町の生協そばにあった夕張新鉱労働組合の旧事務所建物を見ようと寄り道をしたら……なんと、解体されて綺麗に更地(駐車場)となってました。Oh、なんてこったい。昨年までは現存していたみたいなので「まだ大丈夫だろう」などと安心していたら、まさかこんなことになっているとは。こうなるのだったら以前来た時にきちんと撮影をしておけばよかったよ…。今の夕張市は過去の記憶を否定するがごとく、炭鉱時代の建物を情け容赦無くガンガン解体しているなぁ。
仮に建物を維持・管理をするとして、それなりの費用がかかるのはわかりますが…もったいない。
解体という現実を目の当たりにし、足取りが少々重くなりましたが、とりあえず長江を走らせます。
そういえば清水沢のズリ山でアートイベントをやっているのをそらちヤマの記憶だよりで何回か告知していたことを思い出す。
このまま帰るのも何だし、せっかくだから寄っていくとするか。
ズリ山の登山口には看板が置かれ、頂上に展示されている作品の名前と、このズリ山の歴史が説明されています。
最初に説明を読んだ時「へぇ、ズリ山の頂上には人が上がれるフロアケ峰(ふろあけみね)という作品があるのか。……で『フロアケ』とはどういう意味なのだろう?」と数秒間頭をひねったが、何の事はない、正しくは「フロアヶ峰(ふろあがみね)」と読むのであった。
疲れてるのかなぁ俺。
それでは本日二度目のズリ山登山を開始。ここのズリ山を登るのは4年ぶりです。その頃は今みたいに階段や草刈りがされておらず、足元がかなり荒れた状況で登っていました。
道の途中には手軽に休憩ができるようベンチが設置されています。
登山道から左手側を見やる。
画像真ん中に見える広大な空き地は北炭清水沢炭鉱の選炭工場跡地。清水沢炭鉱が閉山してから既に30年以上経つが、ここは未だに空き地のままだ、
右手側には夕張川と清陵町の団地が見える。
上流にできたシューパロダムの貯水の影響なのだろう、夕張川は底が透けるくらいに水量が少なかった。
登山口から歩いて5〜6分で頂上に到着。ここは先ほど登った夕張新鉱のズリ山と違って景色が良いのだが、2つのズリ山を一時間も間隔を開けずに連続で登るとさすがに疲れる。息はゼーハー、首筋にはうっすらと汗が流れる。
おぉ、これが作品のフロアヶ峰か。たしかに板張りのフロアが設置されている。早速上がってみるか。
頂上の真下に見える北炭清水沢火力発電所跡。
稼働当時は北炭自慢の巨大な火力発電所だったが、現在では解体作業が進んでしまい、かなりこじんまりとした外見になってしまった。沢山あった煙突も今では一本が残るだけ。
しかし山の頂上部が切れてしまい、何とも締まらない画像に。トホホ…。
頂上で10分ほど撮影や休憩をした後、下山。
ふぅー、それにしてもしんどかった。のんびりとした休日のはずなのにいい汗をかいてしまった。
登山口そばに停めた長江に近づくと、カメラを持った男女の夫婦(カップル?)が熱心に車体を眺めていた。声をかけると「もしかして、このサイドカーって横のタイヤも一緒に動くのですか?」と質問をされた。どうやらウラルを知っているみたいだ。
「いや、このサイドカーはCJ750長江といって、横のタイヤは動かない1WDの中国製サイドカーで〜」としばしバイクネタで盛り上がった。
腕時計を見るとそろそろ2時になる頃合。
さて、もう日も傾いてきたし、暗くなる前に札幌へ帰るとするか……とその前に、以前から気になっている場所へと向かう。その場所とは日吉にある炭住だ。
清水沢にあった炭住のほとんどは取り壊されて1棟しか残っていないが、日吉には数棟が残っているらしい。
清水沢の市街地を抜けて平和運動場の横を通過し、線路をわたって旧北炭機械工場の前にある坂道を上り、途中にある分岐で右側へと進む(黄色いハンカチ広場とは反対の道)。道は狭くなり坂の角度もかなり急になる。
長江はギアを落としてえっちらおっちらと登ってゆく。
坂を上りきったところに突然炭住が目に飛び込んできた。
清水沢に残っているのとは少々作りは違うが、今でも実際に人が住んで手入れがされている炭住だ。ただし廃墟になって雪の重みで潰され朽ち果てている炭住も数棟あったが…。
だけどこのような場所(坂がきつくて市街地まで遠い)だと日常生活をするにはさぞ不便だろう。
ピンぼけになってしまったが、この半分潰れた廃墟は屋根が残っているだけまだマシである。古い木造建築物は住人がいなくなると崩れるのはあっという間だ。しかしここ日吉は狭くて解体用の重機が入り辛い場所なので、夕張市による撤去作業は後回しにされているのかもしれない。
ちなみに帰り道はすごい急な下り坂で肝を冷やした。ギアを1速にしてほぼアイドリング状態にまで回転数を落とし、エンジンブレーキを効かせても速度計の針がグングンと上がっていく恐怖感。この時ほど「前輪ブレーキはディスクのままにしておけばよかった」と後悔したことはなかった。
もし再びこの場所へ来る機会があるとすれば、黄色いハンカチ広場の駐車場に停めて徒歩で向かうことにしよう。
それぐらいに怖かった……はっきり言って寿命が確実に何年かは縮んだよ。
さて、日吉で背中に思う存分冷や汗を流した後(?)は、継立・由仁町経由でのんびりと走って札幌へ帰る。
夕方近くになると風が強くなり体が冷える。途中、用足し目的で道の駅に寄った。
道の駅マオイの丘。ここの名物は地元の採れたて野菜の対面販売だ。
それにしてもすんごい人の数。駐車場は常に満車で午前中に訪れたメロードの比ではない。札幌周辺に多数ある道の駅の中で一番儲かってるんじゃないのかな、ここは。
クイズ:この中に一台だけ仲間はずれがいます。
本当は南大夕張や夕張本町周辺も探索したかったが、何分時間がなかったので中途半端な探索となってしまった。この辺は来年の課題としたい。
……っていうか我が愛車はエンジンの右シリンダ根本からオイルが漏れ気味なのですが…、塗装作業の時にガスケット交換をすればよかった。
いよいよもって腰上をバラすしかないのか?
おしまい
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前回の続きから
沼ノ沢駅裏手で無事に夕張新鉱の斜坑抗口を発見することができ、次の目的地へと移動します。その目的地は斜坑から300メートルほど離れた場所にある橋です。
その名の通り夕張新鉱が営業開始をした時期に作られた橋です。反対車線側の欄干に付けられた銘板には、昭和50(1975)年12月竣工と文字が刻まれています。
当時の沼ノ沢駅には、夕張新鉱で掘り出された石炭を製品化するための巨大な選炭工場が建てられていました。
ここで積み込まれた石炭は苫小牧港まで送られた後、石炭運搬船に積み替えられて本州方面の製鉄所やガス会社へと出荷されました。夕張新鉱の地下深くで産出される石炭は世界でも稀にみる、極めて品質の良い原料炭であったため、主に製鉄用コークスや都市ガスの原料として使われました
……おや?背景に何か珍しいものが写っています。
荷台の形状からすると散水車か何かだろうか?
それほどボロくは見えないのでまだ現役のトラックなのでしょう。
立坑のある清陵町地区からは結構離れているため、ここには選炭工場で勤務する鉱員・職員が住んでいたのではないかと思われます。なお、今では夕張市の市営住宅となっています。
鉱員アパートを通り過ぎ、畑の中の道路を快適に走りつつも目は左右の脇道を見やる。うーん、たしかこの辺だったはず……お、それっぽい道を発見!左に曲がって入っていく。
結構急な登り坂、ギアを2速に落としアクセルを吹かせ気味にして駆け上ると、坂の上に一軒の小さな農家があった。そしてその脇には赤いトラクターに乗ったオジさんが「……誰だコイツは?」という顔でこちらを見ている。ここの家の人がいるのなら話は早い。自分は長江にまたがりながら本題を切り出した。
「あのーすいません、この奥にある夕張新鉱のズリ山を見たいのですが」
メガネをかけた小柄なオジさんはニヤリと笑ってこう言った。「見たいのかい?」
自分は「ハイ!」と即答した。
少々ぶっきらぼうな口調だが根は良さそうな人だ。ありがとうございますと礼を言い、畑にそって100メートルほど進むと、そこにズリ山があった。
以前から来たい来たいと思っていた夕張新鉱のズリ山。間近で見ると山にしてはあまり高さを感じず、のっぺりとした印象を受ける。
ズリ山のふもとは、ここの農家の農機具置き場と化しているみたいだ。自分の長江もここに置き、あとは徒歩で登ることにした。
うーん、だけど思っていたよりも傾斜がきついな。ジャケットを着たままだったので暑くて息が切れる。
だがこれでいいのだ、景観よりも「この場所にいる」事のほうが重要なので。
これが夕張新鉱の原料炭か……。ズリなので多少はカロリーが低いと思われるがよく燃えそうだ。
だけどまぁ、冬眠前のヒグマに遭わずに済んだと考えればよしとしよう。単独行なのであまり無理はできないし。
……来年の春になればゲートは開いているだろうか?
ここにあるのは夕張新鉱の清陵町側通洞だ。当時、鉱員達はここからトンネル内を走る電車に乗って立坑地区にある総合事務所へと通勤していた。
ここには今でも訪れる人が多いのだろう、足元に生えている草の多くは倒れており歩きやすくなっていた。
北炭が世界に誇る最新鋭の炭鉱として1975年に産声を上げ、1981年10月16日に大事故を起こし、1982年に消滅した。わずか7年の鉱命であった。
合掌
続きます。
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