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先週雨で延期したキャンプ実施に、一筋の希望の光が出てきている。
明日の朝、決定する。(今週の木曜金曜に実施予定)
さて、1学期もいよいよ終わりに近づいてきた。
今年の4月から通所してきている子どもたちの全体の課題は一体なんだろうか。
そんなことをふりかえる時期になってきた。
ところが、今年の子どもたちは、あまり全体の課題が見えてこないのだ。
自分の担当する、特に通所している個々の子どもの課題というのは確かにいろいろとあると思うし、
大いに成長も見られたところもあると思う。
ところで、私自身が昨年までのケースで全体に通所していた子どもで
1学期の期間に大事なことを見落としてきたことがあった。
その反省と教訓について少し書いてみたいと思う。
2年前の卒業生のAくんのケースが、まさにその典型であると思う。
Aくんは、中学2年生の3学期から時々通所しはじめた。
それまでは、ほとんど家にとじこもっていた子どもである。
3年生になってからは、毎日通ってきて全体活動に入り、みんなと毎日のように野球をしたりして、
それはそれは大した成長ぶりだったのである。母親もわが子の成長ぶりに驚いていた。
1学期の頃、そうしたAくんと関わらなかったわけではないが、どちらかというと、
子どもたちどうしの活動に参加していたので、全体の流れのなかでほとんど子どもたちに任せていたのである。
わざわざ個別の時間をとって話をしたりということもほとんどなかった。
Aくんには、担当が私であるという認識はあっても、朝から通所してもすぐに子ども同士でゲームし、マイタイムやスポーツでは野球をし、放課後もグランドを予約して練習したりということの繰り返しであったので、 Aくん自身から担当の私に相談するということもほとんどなかったし、私から個別に時間をとって話をするということもなかった。
私は、ほとんど見守るという程度の関係だった。
2学期になってもその様子は変わらなかった。行事である登山体験にも初めて参加し、
文化祭にも歌をグループで歌うなど、ずいぶんと活躍していた。
積極性も見られるようにもなった。
進路が近づいてきて、苦手な作文にもチャレンジし練習もし、学習も少しずつ継続して、ついには前期を迎えた。
前期は残念ながら不合格。幸いなことに後期は頑張って合格したのだが、
高校に入学後、不安が高まり授業についていけず、結局は1学期の途中から行けなくなり、退学。
今は、再び家にとじこもっている。
今から思うと、このケースは、私たちの取り組みに多くことを教えてくれたのである。
私たちが教訓的に学んだことは、日頃通うことができていて、みんなと全体活動しているから大丈夫、 毎日来ているからいいのではないのだということである。
パワーのなかった子どもが毎日通うことによって確かに元気になってきたことは事実であるが、
子どもの「内面の耕し」が果たしてできていたのかということである。
そして、子どもの「自分づくり」への支援ができていたのかということである。
毎日来ているという現象だけで、私たちは安心してはいけないのである。
今となってはそれこそたくさんのことが脳裏をよぎるのである。
たとえば、個人日記や個別学習ノートなりで毎日担当の先生と交換しているとか、
個別に呼んで内面の悩みを聴いたりしているとか、その子どもと定期的に「個別の時間」を持ち、
担当の先生とその子どもがしっかりとつながっているのだろうか。
これが、大事なポイントであると思う。
家庭訪問の子どもや、最初から個別の子どもは、ここらあたりが意外と
ていねいに段階を踏みながらステップアップできていることが実は多いのだ。
そういうラポール形成なしにはつながらないからである。
きわめて当たり前のことなのであるが、教育支援センターでの支援のポイントは、
まさにこの部分が大事だということなのである。
そして、もう一つ。
私には、これと対極的なケースがある。
どういうのかと言えば、私の所に通っているが、全体活動には入らず定期的な個別の時間の枠だけで
関わったケースである。(週に1回の定期的な枠としての訪問支援でも同じケースが多い。)
ある子どもとは、週に2回だけ。
それも個別の学習交換ノートだけの支援。
でも、そこでは、じっくりと個別での話を聴き、悩みも聴きながらの支援である。
その子どもたちが、卒業して高校では全体活動に入り、見事に継続しているケースがけっこう多いのである。
そういう風に考えてみると、なかなか複雑なものがある。
なにが大切な支援なのかということである。
数年先には「自立」という大きな目標があり、そのためのベースは、日頃の支援として「自分づくり」があり、 「肯定脳づくり」になるような働きかけというものがあるのである。
そのうえに、まずは、担当と子どもの「ラポール形成」の構築がある。
そして、仲間の広がりや社会への接近がある。
それが、いわゆる、自分から「触手」をのばして、自分から働きかけていくという主体強化による
「右手左手モデル」(受身飲み込まれ型から主体的選択的な自分がつかむ型)につながっていくのである。
そうした一連の動きのなかで、子どもたちは成長していくという流れを、もう一度ふりかえってみたいものである。
それと、最近の流行り言葉で言えば、「悩む力」
[姜尚中(カンサンジュン)著・新書のベストセラー]
が、私たちスタッフにも必要ではないか。
子どもも親も悩むのだが、やはり私たちスタッフも悩むのだ。
それなしには、やはり私たちは成長しないと思う。
時には、「悩まない力」も必要ではある。
でも、基本的には、悩まないというのはウソであると思う。
子どもの支援では、やはり悩むのである。
悩んで悩んだ末に、私たちは、初めてその子どもがけなげに思えたり、いとおしく見えてくるのではないだろうか。
私たちは、そういう日々の営みの繰り返しなのであるが、悲しむことや悩むことは、
その子ども自身の「力」になっていくことを謙虚にふりかえってみたいと思う。
こう書きながらも、私自身もやはり反省の繰り返しである。
いくら経験があったとしてもそれは同じことである。
経験があるということは、過去のケースの教訓が見えてくるだけのことであって、
やはり今年は今年の目の前の現実からなのである。
それが見えにくいというのは、私自身もどこか目が曇りつつあるということである。
キャンプが終わると、来週には、そういう「2学期への展望の職員会」が開かれる。
私たちの1学期の実践をふりかえるための「きっかけ」になればと思い、あえて書いてみた。 ああ有情。
(文責:コニヤン/2009.7.7七夕の日の早朝・記)
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おっしゃってること、よく解るような気がします。生きている人間を
対象にしたところでは、50人いれば50の個別の課題が存在します。それを例えばクラスという器に入れたとき、そのクラスとしての問題点は何かを考えるのに似てないでしょうか。私たちの学童保育所では、50人それぞれを特別扱いしようといい続けています。
2009/7/7(火) 午前 11:31
教育って 花々の栽培に似ているのでしょうか・・・
成長の早い遅い 結実の大小等
一人ひとり大事な子だけに 悩みも尽きないのですね
梅は梅の個性 桜は桜り持ち味 そしてチューリップはチューリップの独自性・・・その見究めは日々の努力の賜物なのでしょう
心労の多い職務 お察しします
(^ ^)v
ギター・深老・寝布・人
2009/7/7(火) 午後 1:54 [ ギター老人(ろうにん) ]
爺さんへ>
爺さんがいつも言っている五十人いたら
みんな特別扱いしようという発想がとっても
好きです。
そうなんですよね。
全体での支援というものも必要だし、
集団の力も必要ですが、
個別の支援も必ずいりますよね。
そうですそうです。
大賛成なのです。
ああ有情。
2009/7/7(火) 午後 5:52
ギターさんへ>
花にも土壌も水も必要ですよね。
その部分の耕しも。
みんなの力を借りながら
みんなで成長を支えていくということですよね。
決して一人でに花は咲かないのだということかも。
自立への花。
ああ有情。
2009/7/7(火) 午後 5:53