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郷島の津島神社はスサノウノミコトを祀り、その昔尾張国津島神社より神霊を迎え奉り住民の崇教厚く毎年旧暦の6月14日提灯祭りが行われていました。
文政7年(1824年)6月14日提灯祭の夜、平七という者が悪病除祈願のため煙火を献発したのが郷島煙火の始まりで、その後毎年郷島村の人達によって自ら製造し奉納してきました。山村の部落で他に何の楽しみや遊び事のない部落民の大きな楽しみの一つとなって続けられてきました。
煙火献発の起源については、郷島に平七という者がいて、和田島村の竹次郎という賭博打の子分となって世間を渡り歩いていましたが、この男が天王祭の14日夜の提灯祭に際し、竹筒を造り花火に類似した物を打ち上げたのが始まりといわれています。当時は、幕府の火薬禁止令が厳しい時代でしたが、神社祭典の火薬許可令だけは特別な計らいがあり、役場を通じて願いを出し買い求めることができました。そこで、郷島村の若者連中が研究を重ね、鉄砲用の火薬を使って煙火を作るようになり、年々打ち上げの数も多くなりました。
煙火製造技術の研究については、菖蒲ケ谷の煙火に精通した者を雇い入れて製造した記録も残っています。また、天保7年(1836年)遠江国の売薬商人が来て、伊兵衛方に泊りこの男に煙火作りの知識があったのでいろいろ教えてもらったという記録もあります。
安政の頃(1854年)宮ケ崎の塗金という者が俵沢に移り住んでいて、この男が煙火製造に心得があり、お祭の夜、煙火三寸玉を筒と共に持ってきて奉納し、これがうまく打ち上がって多数の見物人を喜ばせたということです。したがって、この頃より本格的な打ち上げ煙火が始まったのではないかと思われます。
郷島の若者達も煙火の研究に熱心で、あらゆる所から技術や知識を習得して煙火の向上を図ってきました。彦兵衛という者は塗金に酒を呑ませて酔って寝込んだ隙に煙火玉の火の吸い込み口に紙を貼っておき、不発玉となって塗金が見捨てたのを持ってきて、玉を分解して中のずり玉の方法を得たという話もあります。
文久2年(1862年)青年と村方で煙火費用の件で紛議が起こり、この年一年煙火を止めたところ、赤痢病が流行り、村中の者が突然の病魔に襲われ大変苦労したということです。それより後は、物資のない時代でも津島神社への煙火奉納は一年も欠かすことなく現在まで続けられて来ました。
明治14年(1881年)源兵衛という煙火の研究に熱心な男が初めて『竜勢』を作り天に駆け昇らせました。その後、竜勢も多く作られ、孟宗竹をつけて轟音とともに相当の上空へ上がったということです。
明治17年より煙火打ち上げ規制の分達があり許可制となりました。明治18年2月20日、静岡県令大十三号を以て煙火製造の許可を得て製造を続けてきました。
明治31年7月より村総代の村松清左エ門が煙火製造人許可を得て、毎年村の青年に製造させていましたが、明治40年から青年の代表者が煙火製造人の許可を得るようになりました。
昭和6年より火薬の取り扱いがやかましくなったり、村に残る青年が少なくなったり、種々の事情によって煙火店より出来上がった玉を購入してきて打ち上げるようになり、現在まで続いています。
このような記録とともに天保の頃の煙火用火薬調合書等が村松忠治氏宅の古文庫に保存されています。また、津島神社の社には、昔使用した竹のタガで巻いた煙火打ち上げ用の木筒も数本保存されています。
資料提供 村松忠治氏より
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