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春日大社の元宮司、葉室頼昭さんの、「神道と<ひらめき>」を読む。
祝詞を何度も何度も唱えているうちに、「肌でわかる」ことがある、とあった。
茶道も同じだ。何度も稽古するうちに、体でわかる瞬間がある。
医師でもあった葉室さんによると皮膚は脳の延長器官なのだそうだ。
他の臓器は他人のものを移植することも可能だが、皮膚だけは、本人のものでなければくっつかない。
西洋文明は、論理的に何でも頭で分かろうとして、皮膚感覚を置き去りにしてきたが、肌でわかることがあることを古来から日本人は知っていた。心と体は、二つのものではないのだ。
茶道のみならず、日本のお稽古ごとはたいがい「型」を重んじ、繰り返すことを重視している。
これは、体が主で、後で頭を従わせるアプローチなのだと思う。
言葉では伝えられないものを、型によって代々受け継いていく。不立文字なのだ。
私もここでは、あれこれ蘊蓄を語っているが、これはある意味本道ではない、邪道なのだ。
稽古場では、ただ袱紗や柄杓の扱いなど、身体の動きと、歴史的なこと、道具のこと、語られるのはほぼ事実のみで、私も今のところ人に教える時は、それ以上のことには踏み込まない。(将来的なことは分からないが・・・。)
ただ、軸に書かれた禅語や、銘に託して語るのみである。
何ごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
西行法師が詠んだように、神仏は肌で感じるものなのだ。頭で考えてもわからない。
日常の諸問題も頭で考えると方法論に陥って行き詰まりがちだが、皮膚感覚を頼りに進んで行けることもあるのではないだろうか。
「考えるな、感じろ」で。
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私も、何年も茶道をしているうちに、点前の型の大切さに気が付きました。その後、合気道、仕舞としているうちにその大切さを実感します。
型は常に、いろいろなところにあり、強弱や速さで意味合いが違ってきます。その違いの意味も、この年になり少しだけ分かった気がします。理屈を捏ねる前に、稽古の世界ですね。
2011/10/22(土) 午後 3:24
合気道、仕舞も、きっと体でわかることの多い分野だと思います。
型についてのensyuuさんの話の蘊蓄も、一度お聞きしてみたいです。
2011/10/23(日) 午前 0:04 [ 洞中庵 ]