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[環境ルネサンス]変わる富士(4)遠望復活、喜べぬ理由

◇No.162
 東京都武蔵野市の静かな住宅街。成蹊学園の4階建て校舎の屋上に立つと、マンション群の先に富士山が浮かぶ。学園では44年間、歴代の理科教諭が1日も欠かさず観測を続けている。
 83キロ離れた富士山が肉眼で見えた日数は、1965年の22日が最低で、70年〜90年代は50日以上で推移。99年以降は、100日を超える年も相次ぐ。現在観測を担当する宮下敦教諭(47)は、「明治初期に東京・本郷から観測された記録に近づきつつある」という。
 朝焼けに染まり始めた北東の空に、豆粒ほどのシルエットが浮かんだ。手前に熊野灘が広がる。
 三重県に住むアマチュア写真家の京本孝司さん(56)、仲賢(まさる)さん(56)のコンビは、台風一過の2001年9月12日、322・9キロ離れた和歌山県那智勝浦町の小麦峠(標高900メートル)で富士山を初めてとらえた。この最遠望記録は、今も破られていない。
 富士山はどれくらい遠くから見えるのか――。火付け役は、筑波大付属高校(東京都文京区)の田代博教諭(57)が、パソコンで標高や地球の丸さを計算して作った「富士山可視マップ」だ。昨年末、八丈島で撮影に成功するなど、未確認だった地域からの報告が続く。田代さんは「最近は、遠くからよく見えるようになった」と実感している。
 高度成長期の68年、大気汚染防止法が制定されると、空気の汚れは改善に向かった。ただ、成蹊学園の宮下さんは、富士山が見えた日数が最近10年に急増した理由を、「ヒートアイランドに伴う湿度低下が影響している」と推測する。学園で測る年平均湿度が、50年間で5%下がったことに鍵があるとみるからだ。
 湿度の高い夏場は「もや」が発生しやすく、好天時も視界を妨げる。しかし、地表を覆うアスファルトや車・エアコンなどの排熱が都会の気温を上昇させるヒートアイランド現象で空気は乾燥し、湿度が下がる。富士山がよく見えても、手放しでは喜べない。
 富士山まで23キロの静岡県富士市役所で昨年度、頂上からすそ野までの山全体が見えたのは3日に1回だった。雲ひとつない快晴で、隣の富士宮、御殿場両市ではくっきり見えるのに、富士市からは見えない日もあった。製紙工場などの排煙が上空を覆う「富士スモッグ」が原因といわれる。
 そこで市は、富士山が見えづらくなる5〜10月に見える日数を、現在の17日から8年後に33日まで増やす目標を掲げた。02年から工場の煙突撤去費の3分の1を県と市で補助し、114本のうち24本を撤去するなど対策を進める。
 大気観測に最もふさわしい場所。それは、富士山そのものだ。周囲の汚染に影響されにくい独立峰は、遠くから運ばれてくる上空の汚染物質を正確に測れる。
 ごつごつした岩肌に囲まれた富士山頂の旧気象庁測候所で今夏、窓からチューブを突き出して大気を集め、硫酸や煤(すす)の濃度を分析する試験観測が行われた。ターゲットは、工業発展が著しい中国など東アジアから偏西風で運ばれてくる有害物質だ。
 マウナロア(米)やユングフラウヨッホ(スイス)など他国の3000メートル級観測所は、連携して越境汚染の監視を強めつつある。しかし、富士山頂では、研究費不足で通年の観測はまだできない。土器屋由紀子・江戸川大教授(環境化学)は「世界中から“アジアの監視塔”の役割を期待されている。富士山も監視網に加わるべきだ」と話す。


2007年 11月9日 読売新聞


[環境ルネサンス]変わる富士(5)人との共生探る時期

◇No.163
 木漏れ日が差す樹海を、千葉県から訪れた小学6年生十数人が歩く。木のチップを敷き詰めた遊歩道は、幅2メートルほどしかない。
 山梨県富士河口湖町の青木ヶ原樹海は、3000ヘクタール。標高1000メートルを超える富士山北西ろくに広がる。864年の貞観噴火で噴出した溶岩を厚さ3〜5センチのコケが覆う。その上に、ツガ、ヒノキなど針葉樹がむき出しの根を張る。
 「土がない樹海では、原生林がコケの水分を頼りに生きている。コケを踏めば、木も死んでしまうことがある」。ツアーを主催するNPO「富士山エコネット」のインストラクター、幅義則さん(43)がクギを刺すと、知らずにコケを踏んでいた子供が、慌てて足を遊歩道に戻した。
 樹海へのツアーが始まったのは1980年代。それまでは、住民がマキ拾いや、キノコ採りに入る程度だった。自然ブームで人気を集め、富士山エコネットのツアーには2006年のシーズン(5〜10月)中、120の学校・団体の1万8520人が参加した。5年前の1・5倍を超える。県によると、ツアーは20団体ほどが主催し、年間4〜5万人が歩く。
 「コケが踏まれ、なかったはずの道ができている」「樹木に赤いペンキで目印が付けられている」。03年ごろ、地元住民らの苦情が県に相次いで寄せられるようになった。
 県はツアーを主催する団体と協議して04年7月、ガイドラインを作成。ルートを外れず生き物を踏みつけない、1団体の参加人数は20〜25人に制限することなどを定めた。富士山エコネットの三木広理事長は「環境意識を高めるエコツアーで自然を荒らす愚は避けたい。小さなことから自然を守ることが私たちの役目」と話す。
 今夏の登山シーズン。過去最高の35万人余が山頂を目指した。5合目から上では42軒の山小屋が、登山客をもてなす。
 食堂には、電子レンジで温めたレトルトパックの牛丼やカレーが並び、冷蔵庫には冷えたビールもある。バイオトイレは、汚物を分解する微生物の適温に保たれている。どの山小屋でも、快適な生活を支えるのは軽油を燃料にした発電機だ。
 静岡県側の6合目にある宝永山荘は収容人員約80人。比較的小規模だが、それでも7月から10月のシーズン中に、軽油190リットル入りのドラム缶約20本をブルドーザーで運び上げる。
 環境省モデルで試算すると、宝永山荘だけでも1シーズンに約10トンの二酸化炭素が出ることになる。乗用車1台が326日間通してアイドリングを続けた場合の排出量と同じ。窒素酸化物やばいじんなども出る。
 山小屋の経営者らからは、より環境への負荷が少ない電力会社の電気を使うため、送電線を埋設するなどの改善策が持ち上がったこともある。しかし、国立公園特別保護地区の規制や、落雷の多い条件などがネックで立ち消えとなった。宝永山荘を経営する渡井正弘さん(66)は「環境に良くないので、何とかしたいんだが……」とため息をつく。
 富士山の環境を考えるNPO法人「富士山測候所を活用する会」は山小屋経営者らも招き、太陽光発電や燃料電池など、代替エネルギーを検討するシンポジウムを来春にも開く計画だ。
 浅野勝己理事長は「気候変動に伴う変化から、人との共生のあり方まで、富士山の環境を幅広い視点で考える時期に来ている。シンポジウムを、その契機にしたい」と語る。
 富士の環境を次代に引き継ぐ取り組みは、足元から始まっている。(おわり)(この連載は、甲府支局・前田遼太郎、地方部・高倉正樹、河合正人が担当しました)


2007年 11月10日 読売新聞

[環境ルネサンス]変わる富士(1)温暖化、解ける永久凍土

◇No.159
 スコップを手にした静岡大の学生らが、標高2500メートルの富士山5合目付近から3776メートルの山頂を目指した。平らな場所を見つけては、地表を覆う溶岩などを50センチほど掘り、温度計を埋める作業を続ける。頂上まで計200個が埋められた温度計は、地温を20分おきに記録する。
 山頂の真下には、一年中解けない「永久凍土」の層がある。静岡大は8、9月、静岡県の委託で6年ぶりとなる凍土調査に着手。結果は、1年後に出る。
 永久凍土が徐々に解けている――。国立極地研究所(東京)に、富士山の温暖化を物語るデータがある。
 1976年の永久凍土の下限は南側斜面で標高3200メートル前後だったが、2001年までの25年間で約300メートル上昇。北側斜面でも2800メートルから約100メートル上がったとみられる。
 北極圏など極地に存在する永久凍土。国内では富士山のほか、北海道・大雪山系と北アルプス・立山で確認された。富士山では、地中50センチ〜数十メートルにあるとみられる。標高が高くなれば地温は下がるが、永久凍土がある地点では地温の下がり方が急激だ。その変化で、永久凍土の下限がとらえられる。
 76年からの25年間で、山頂の平均気温は年に0・038度のペースで上がった。特に冬場(12〜2月)は0・064度。このペースで100年たつと、6・4度も上昇する計算だ。極地研の藤井理行(よしゆき)所長は、「この7年間で温暖化は加速しており、南斜面の永久凍土の下限が上がっているのは間違いない」と言う。
 西側斜面の「大沢崩れ」では全長2100メートル、最深150メートルにわたって溶岩などが崩落、大規模な土石流が絶えず発生している。硬軟の層が重なっているために崩れやすく、京都大の水山高久教授(砂防学)は「季節によって凍結と融解を繰り返すようになれば、土壌は不安定になり、浸食が加速するだろう」とみる。
 凍土の融解は、山の姿を変えてしまうかもしれない。
 ふもとの山中湖ではかつて、全面結氷する1か月間でスケート靴を履いた子どもたちがはしゃぎ回り、公式大会も開かれた。富士山噴火で誕生した富士五湖の一つで、面積は約6・8平方キロ。湖面標高は981メートルあり、冬は厚さ30〜50センチの氷で覆われていた。
 人口6000人規模の山梨県山中湖村は、数多くの選手を輩出した。富士急監督として橋本聖子、岡崎朋美両選手らを育てた長田照正さん(58)も、幼いころは友達と湖上を滑るのが日課だった。
 しかし、湖は1984年を最後に全面結氷しなくなった。22年ぶりの全面結氷で沸いた2006年も、1週間たたないうちに解けた。長田さんは「湖はスケート人生の原点。ふるさとの競技人口も減り、大切な文化を失った気分」と話す。
 湖畔で貸しボート屋を営む高村徳江さん(55)の倉庫には、100基余りの「ワカサギ小屋」が眠る。釣り人が木製の小屋で暖を取りながら、氷の穴からワカサギを釣る姿は、風物詩だった。最盛期には20〜30店が小屋を貸し出したが、湖が凍結しなくなってほとんどの店が廃棄した。
 「小屋を処分してしまったら、湖が二度と凍らないと認めてしまうような気がする」。高村さんの目に涙が浮かんだ。


2007年 11月6日 読売新聞



[環境ルネサンス]変わる富士(2)上昇続ける「森林限界」

◇No.160
 富士山北ろくの河口湖畔にある畑の一角に、濃い紫色に熟したブドウの房が揺れていた。山梨県富士河口湖町で10月中旬、赤ワインの原料となる「ピノノワール」が収穫された。地元の子供たちも手伝い、丁寧に摘み取った。
 「果樹王国」の山梨だが、同町では10年前には見られなかった光景だ。標高870メートル前後。冷え込みが厳しく、果樹栽培には適さないとされてきた。ブドウ作りを試みて失敗した農家もあった。
 同町の年間平均気温は1948年に10度を超えたことがあったが、9度台が当たり前だった。ところが、89年以降は一度も10度を下回っておらず、最近は11度を超える年も珍しくない。
 遊休農地活用と観光資源発掘を模索していた町は94年、寒冷地に比較的強いというブルーベリーの栽培を試みて成功した。ブドウ、サクランボと広げ、2002年には地元農家によるブドウ生産組合を設立した。
 約2ヘクタールの畑で収穫されたブドウから生まれたワインは、「河口湖ノワール」として売り出されている。堀内維貞組合長(81)は「最初は半信半疑だったが、温暖化に後押しされて夢が広がった」と話す。
 標高2500メートルの5合目付近で山腹を一周する「御中道(おちゅうどう)」。周辺には、枝が横に伸びたカラマツが目立つ。
 山梨県環境科学研究所(富士吉田市)の中野隆志研究員(植物生態学)によると、樹木が密生する上限の「森林限界」に生えるカラマツの特徴だ。強風を遮る樹木もない厳しい環境にさらされ、まっすぐ生育しないためだ。
 ところが、実際には御中道から約100メートル上まで樹木が密生、森林限界は徐々に上がっている。中野さんは「森林限界の上昇は、温暖化で加速された可能性がある」と話す。
 ふもとから見上げる夏の東斜面は、日の出とともに、岩肌が絵の具を塗りつけたような赤に染まった。画題として知られる〈赤富士〉。長くて2分のショーだ。
 「緑が上へ延びている気がする。いつか赤富士が見られなくなる日が来るのだろうか」。20年以上、富士を撮り続けている富塚晴夫さん(60)もこう感じる。森が上がれば、赤く染まる岩肌の面積は減る。
 森林限界をはるかに超えた山頂近く。大小の溶岩が転がり、生命の存在を否定するかのような風景の中で、コケが溶岩に張り付くようにして生きていた。
 ここには、ほかに南極でしか確認されていないバクテリアとコケの共存関係がある。バクテリアの一種のらん藻はヤノウエノアカゴケに付着し、適度な温度と湿度を保つ。コケは、らん藻が死んだ際に放出する窒素を養分に生きる。静岡大の増沢武弘教授(植物生態学)が7年前に発見した共存関係は、気温が低く養分に乏しい環境が生み出した。
 らん藻の付着したコケは黒く変色する。ところが、今年8月に登った増沢さんは黒いコケが減ったことに気付いた。増沢さんは「山頂付近が暖かくなり、環境が穏やかになって、コケとらん藻の共存が崩れているのでは」とみる。
 ふもとのブドウ畑から、山頂のささやかなコケの営みまで、植物の生態は変わりつつある。100年後の富士はどうなっているのか――。日本一の孤峰は、温暖化の影響を見る格好の指標でもある。


2007年 11月7日 読売新聞



[環境ルネサンス]変わる富士(3)わき水浪費、突然の枯渇

◇No.161
 標高1030メートル、山梨県富士吉田市の浅間神社近くに「泉瑞(せんずい)」と呼ばれる池がある。昨年12月、細い管を通じて絶え間なくわき出ていた水が突然、一滴も出なくなった。
 江戸時代は富士山の登山者が体を清め、今は水道の源泉の一つ。汚染防止に覆いをかぶせた池から細い管が地面の上へ延び、誰でも天然水をくめた。市によると、地下水の水位低下が原因で、今も回復していない。
 富士山の広大なすそ野では、雪解け水が清らかなわき水をはぐくんできた。その水が今、各地で危機にひんしている。
 養殖ニジマスの生産量が年1500トンと日本一を誇る静岡県富士宮市。尾中裔真(すえまさ)さん(67)の養鱒(ようそん)場では、深さ8メートルからくみ上げた地下水が、人工池に流れ込んでいる。水温は14度。手を入れると、ひんやりと冷たい。
 池の脇ではポンプ13台が24時間稼働している。120万匹が泳ぐ池に、1日3万トン前後の地下水をくみ上げるためだ。月50万円の電気代は痛いが、尾中さんは「水の供給が止まれば、30分でニジマスのほとんどが死に絶える。きれいな水は生命線なんです」。
 富士宮市や業界団体などでつくる地下水対策協議会によると、同市を含む富士山西南側のわき水は、1955年に1日あたり177万トンあった。しかし、減少傾向が続き、2006年は79万トン。わき水の枯渇を補うため、養鱒業者はポンプでくみ上げざるを得ない。
 富士養鱒漁協の組合員らは6年前、市郊外にブナ・ケヤキなど13種計4000本の広葉樹を植え、「にじますの森」と名づけた。広葉樹の自然林は、積もった腐葉土が保水力を高め、「天然ダム」の働きをする。スギなど針葉樹林の拡大で、この機能が失われつつあることも、水の枯渇に拍車をかける。毎年のように草刈りに汗を流す岩城善宣・常務理事(55)は「森林を元に戻すためのささやかな試み」と言う。
 静岡県は、高度成長期に進出した製紙・パルプ工場などが大量に取水し、わき水が枯渇したとみる。県は77年、枯渇が危ぶまれる地域で取水パイプの口径を制限したが、抜本的な改善にはなっていない。最盛期に60以上の養鱒場がひしめいていた富士宮市だが、今は17軒を残すのみとなった。
 同じようにわき水の恩恵を受ける静岡県三島市は、中心部に小川が流れ、水車や噴水の涼しげな音が響く。しかし、市立公園「楽寿園」の小浜池では平均水位が61年の144センチから低下し続け、97年には池の底からさらに213センチ下までしか上がらなかった。豊かに見える川も、工場で取った水の一部を戻してもらい、かろうじて水量を保つ。
 市は「すそ野の田畑がコンクリートの宅地になり、雨が地下に浸透しなくなった」と話す。そこで、市民団体「三島ゆうすい会」は「まずは市内でできることを」と、雨水を下水道に流さずに地中に逃がす「雨水浸透ます」の普及に取り組む。市も最大6万円を補助し、昨年度までに一般家庭524か所に設置された。
 三島市など富士山周辺は、全国で水道料金が最も安い地域でもある。水質が良く、最低限の浄水設備で済むためだ。三島市民1人が1日に使う水は378リットル(04年度)と、全国平均の314リットルを大きく上回る。
 「富士の雪解け水は豊富にあって当たり前、と思い込んできた。水を浪費する暮らしを、足元から変えなければいけない」。ゆうすい会の塚田冷子会長(72)は訴える。

2007年 11月8日 読売新聞

[環境ルネサンス]自然再生(4)鉄鋼スラグでコンブ「養殖」

バス停「鰊(にしん)御殿」。その前には、がっしりした2階建ての建物があり、今も旅館として使われていた。北海道の南西部、日本海に面した寿都町。「町がニシンの大漁に沸いたのは明治の話です」と寿都町漁協の木村親志(ちかし)専務(49)は話す。
 人口3700人の町にとって、漁業は産業の柱。近年はカキやホタテの栽培漁業が軌道に乗り、昨年は7000トンを超えるホッケの豊漁に沸いた。だが、先行きは明るくない。
 「白くなっているのが見えるでしょう」。木村さんが数十メートル先の海を指さす。沿岸部の海底が、石灰藻と呼ばれる白く硬い殻のような海藻で覆われる「磯焼け」だ。
 磯焼けや不漁の原因の一つには、ダムなどで川が分断され、森から出た腐植土や鉄分が海まで届きにくくなっていることが挙げられている。森や川から切り離されたら、海は死んでしまう。弘仁12年(821年)の太政官符は、農民による山の樹木伐採を一部禁止しているが、日本人は昔からこうした関係をよく理解していた。
 町や漁協が手をこまぬいていたわけではない。「国や道の支援を受け、総額数十億円の対策を行ってきた。ウニやアワビが増えるだろうと、ブロックや石を沈めたりしたが、効果は続かなかった」と木村さん。そうした中、期待のかかる事業が10月から始まった。
 話は昨年の夏にさかのぼる。片岡春雄町長(58)は、東京駅近くの新日鉄本社を訪ねていた。鉄鋼スラグと、発酵させた木材チップの混合物を、北海道増毛町の海岸に沈めたところ、沿岸域にコンブが豊かに育った――と報じた地元紙の記事が頭から離れなかった。コンブはウニの餌になり、ニシンの産卵場所としても重要だ。
 事業を担当する3人と向き合った片岡町長は「いいことは何でもまねしたい。寿都でもお願いしたい」と頼み込んだ。
 増毛町の海に、新日鉄などのグループが鉄鋼スラグを設置したのは2004年10月。スラグには腐植土が混ぜられており、ヤシで作った袋に詰めて25メートル幅に配置した。半年後、沖合30メートルほどの範囲に1平方メートル当たり1・6キロのコンブが繁殖した。何もしなかった場合の220倍の量だ。
 鉄鋼スラグは鉄鋼の製造工程から出る副産物。アルカリ性で鉄、カルシウムを豊富に含み、赤潮の原因になるリンや硫化水素を吸着する働きもある。北海道大の本村泰三教授(藻類学)は「環境に配慮しながら行われており、漁獲高の不振に悩む他地域でも、試す価値はある」と評価する。
 一見遠回りだが、寿都町漁協は10年ほど前から、海のための植林も行ってきた。10月にもイタヤカエデを80本植えた。木村さんは話す。「すぐ成果が出るわけではないが、植樹は、人の心に木を植える作業でもある。海から恩恵を受けている町なんですから」(室靖治、写真も)


2007年 11月2日 読売新聞



[環境ルネサンス]自然再生(5)ヤマネの森 つなぐつり橋

◇No.158
 山梨県北杜市・八ヶ岳連峰の南麓(なんろく)、清里高原。森林を割るように延びる市道の上に、一本の「橋」が架かっている。全長14メートル、幅25センチのつり橋で、人は渡れない。利用するのは、国の天然記念物ヤマネやヒメネズミたちだ。
 周辺では、リスがよく車にひかれた。ヤマネも、この道路によって生活圏が分断されている可能性が高かった。「アニマルパスウエイ(動物の通り道)研究会」が彼らのための橋を設置したのは7月下旬。自慢の改良型で、1か月に70回の往来が確認されている。
 研究会のメンバーは国内のヤマネ研究者と清水建設、大成建設など。3年前に結成を呼び掛けたのは、同市などで環境教育活動を展開している「キープやまねミュージアム」館長の湊秋作さん(55)。湊さんが小動物を守る活動を始めたのは、和歌山県で小学校教諭をしていた10年前にさかのぼる。
 当時、清里高原ではヤマネが生息する森を切り崩して有料道路を建設する計画が進んでいた。ヤマネは体長10センチ未満と小柄だが行動範囲が広い。地上を歩くのは不得手で、木の枝を移動する。現地でヤマネの生態研究を続けていた湊さんは、道路設置者の山梨県道路公社に猛烈に抗議した。
 「ヤマネは夜間に樹上で生活していて、普段は観察の目が届きにくい。この特性がわかっておらず、配慮がまったくない」
 この発言をきっかけに、道路に橋を架けることが決まったが、公社も動物用の橋作りは未体験。苦労の末、高さ1・5メートルと大ぶりな金網製のトンネルができた。ヤマネやリスが渡る姿が確認され、効果は実証されたが、建設費は2000万円にのぼった。
 全国に普及させるには高すぎる。「もっと安く、いろんな小動物が行き来できる汎用(はんよう)性の高い橋はできないものか」と悩んだ湊さん。建設会社も巻き込み研究会を設立し、ヤマネを使った実験を繰り返し、橋の形状や材質を絞り込んだ。
 完成したのは、金網をつなげた三角形の筒状の橋。幅が25センチと小型化された。三角形にしたのは、狭い隅っこが好きなヤマネでも、閉所恐怖症のリスでも渡れるように配慮したから。雪の重みにも強い。
 北杜市が負担した建設費は210万円。「初号機」の10分の1だ。清水建設地球環境部の岩本和明部長は「商売は度外視。それぞれの生態に合わせた設計を心がけた」と話す。湊さんらは今後、国や鉄道会社などにも働きかけて普及を図っていきたいという。
 交通事故に遭う野生動物が多い北海道の帯広市で2002年、道路下にトンネルのある高規格幹線道路が開通した。トンネルはエゾモモンガやコウモリ用の通路で、この設置を提案したのは帯広畜産大学の柳川久・准教授だった。
 これらの夜行性動物が生息する防風林を分断するルートだったのに、当初計画には対策がなかった。柳川准教授は指摘する。「夜行性動物の生態は、環境調査でも見落としがちになる。これからは、夜の生態系へも十分配慮する必要がある」(科学部・野依英治、写真も)(おわり)
 


2007年 11月3日 読売新聞

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[環境ルネサンス]自然再生(1)ダム撤去、共同で森再生

◇No.154
 心臓が破れそうだった。登り続けて45分、やっと目指す高台に立った。
 「で……、保全地域はどこまで……ですか」。あえぎながら尋ねると、林野庁関東森林管理局の担当者が平然と言った。「ここから見える範囲全部です。あの山の向こうは新潟県です」
 群馬県みなかみ町北部に広がる約1万ヘクタールの国有林「赤谷(あかや)の森」。利根川水系の赤谷川が流れ、ツキノワグマやイヌワシ、クマタカが生息する。
 この豊かな自然を、住民と自然保護団体、林野庁の3者で共同管理するというユニークな取り組みが行われている。森を、手をつけず原自然に戻す地域、人工林管理の研究・実践を行う場所、環境教育のフィールドなど6区域に分け、総合的な保全・利用を目指すプロジェクトだ。
 約20年前、一帯にはスキーリゾート開発とダム建設の構想があった。日本自然保護協会の調査で、希少な動植物の存在が判明。反対運動が高まり、両構想は2000年に頓挫した。
 「この自然をさらに豊かにする取り組みを、住民と一緒に始めませんか」。同協会理事の横山隆一さんらが連携を呼びかけた相手は、国有林を管理する関東森林管理局だった。広大な生態系を守るには、立場の違いを超えて知恵を出し合うべきだと考えたからだ。両者は04年、協定を交わす。
 同局計画部長の藤江達之さんは「赤谷は、地域と共に森林のあり方を総合的に考えていく実験場になっている」と評価する。
 象徴的な事業は、赤谷川の支流・茂倉沢に17基ある治山ダムの一部撤去だ。早ければ来年、老朽化によって底部が壊れている1基(幅25メートル、高さ7メートル)の中央部10メートルを壊し、魚が川をのぼれるようにする。
 治山ダムは、戦前・戦中の大規模伐採が行われた山で土砂崩れなどが起こるのを防ぐ目的で終戦直後から設置されたが、植林した木が育ち、一部撤去しても災害の恐れはないと判断された。自然再生の効果や安全性などを見ながら、数十年かけて撤去を拡大していくことになる。
 横山さんは「治山と自然保護は両立できる。ここで成功すれば全国にダム撤去の動きが広まる可能性がある」という。
 また小出俣エリアでは、50年前に植林した約3ヘクタールのカラマツ林を半分伐採し、天然林に戻していく実験が行われている。今年1月から、生えてくる木の種類の変化や、土壌、日照との関係などを探る科学的データの収集が始まった。観察は10年程度続けられる。
 住民代表で老舗温泉旅館を営む岡村興太郎さんは言う。「いま出ているお湯は数十年前に降った雨や雪。温泉も山も、時間のかかる資源なんです」
 日本の森林は、広葉樹林を切ってスギ、ヒノキなどの人工林に換えられてきた。逆の経験は少なく、この基礎データは貴重なものとなる。赤谷プロジェクトで得られた知見に関し、協定はこう定める。「希少動植物の生息場所などを除き、広く一般に公開する」
 日本の森林再生の未来が、赤谷の森から見える。(編集委員・柴田文隆)
         ◇
 これまでにない斬新な発想で、開発にさらされた生態系の再生に挑む人々の姿を紹介する。


2007年 10月30日 読売新聞



[環境ルネサンス]自然再生(2)流れ配慮し再工事、魚戻る

◇No.155 
 「アマゴ、ウグイ、オイカワ……。15種類はいる」。案内してくれた町職員の豊田庄二さん(55)は誇らしげに魚の名前を挙げた。
 「四万十源流点の村」の看板が目を引く高知県津野町。ここを流れる北川(きたがわ)川は四万十川の支流だが、「最後の清流」というイメージはない。1973〜79年度に、はんらんを防ぐための工事が行われたためだ。
 「川からは一時、魚が姿を消したのです」。豊田さんは振り返る。840メートルの蛇行部分を140メートルに縮めた結果、数メートルの落差が生じた。魚道が設けられたが土砂がたまり、魚は遡上(そじょう)できなくなった。
 憤った住民たちは、県に工事のやり直しを求めた。訴えに耳を傾けたのは、94〜95年度に須崎土木事務所工務第一課長だった安田広さん(59)。県の治水担当部署と協議し、了解を取りつけた。さっそく、岩盤を一部削り、石を置くといった工事を行い、魚が行き来できるようになった。
 当時としては画期的な再生事業だった。安田さんは99年の退職後も、太平洋に面した大月町から毎年、この川を訪れる。「判断は間違っていなかった」
 工事をやり直す際、県が参考にしたのが「近自然工法」だ。高知市の建設コンサルタント、福留脩文(しゅうぶん)さん(64)が20年前に提唱し、全国500か所以上で手がけている。
 この工法では、川底は平らにせず、蛇行による水際もできるだけ残す。ふちは魚の避難場所になり、瀬は藻類が繁殖し、水生昆虫や魚の産卵場所になる。「どうすれば水が自然に流れやすくなるか配慮しながら工事をする。治水とも両立できます」
 近自然工法を知ったのは86年。父の土木建設会社に入って20年がたち、治水最優先の河川工事に疑問を持ち始めた時、スイスに住む大学講師の弟から「こっちで普及している」と、この工法を聞いた。現地も視察し、感銘を受けた。
 生態学者の桜井善雄・信州大名誉教授(79)は福留さんの手法を「川を局所的ではなく、絶えず動く全体の流れの中で見ており、生態学的にも理にかなっている」と評価する。
 日本の河川行政も90年代以降、「できるだけまっすぐにし、素早く流す」という治水一辺倒から、生態系保全型に大きく転換する。86〜90年に旧建設省治水課で建設専門官などを務めた青山俊樹・水資源機構理事長(63)も、省幹部の勉強会で福留さんの話に引き込まれた一人だ。
 90年には同省が「多自然型川づくり」への取り組みを宣言。97年の改正河川法では「河川環境の整備と保全」という文言が盛り込まれ、昨年には「多自然」を一層推し進めることを決めた。国土交通省によると、こうして施工された川は2万8000か所を超える。
 福留さんは、生きものへの配慮が河川工事の常識となったことを喜ぶ。「これからも、川の訴えに耳を傾けていきたい」


2007年 10月31日 読売新聞



[環境ルネサンス]自然再生(3)荒れる里山救う「王国」

◇No.156 
 ササをかき分け、落ち葉を踏み、長靴姿の稲葉洋(はるか)さん(60)が先を行く。足元でトノサマガエルが跳ねた。
 福井県越前市西部地区の雑木林。わき水が流れる細い溝は所々埋まっていて、稲葉さんはスコップで丁寧に、深さ5〜10センチに整えながら進んでいく。
 「この流れは、生まれたばかりのアベちゃんが春先に降りてきて暮らす『小さな谷』なんです」。アベちゃん、とは環境省が絶滅危惧(きぐ)1A類に指定するアベサンショウウオ。体長10センチほどの両生類だ。
 兵庫県北部と京都府丹後半島だけにすむとされていたが、福井県両生爬虫(はちゅう)類研究会の長谷川巌会長(64)が7年前、越前市内で生息を確認した。
 西部地区の里山にすむ希少生物はアベちゃんだけではない。サギソウ、メダカなど40を超える国指定の絶滅危惧種、準絶滅危惧種が確認されている。
 各地の希少生物を守る運動は、自然保護団体など一部の人々によって行われていることが多いが、越前市の里山では、地域の人たちが一丸となって小さな命を見守っている。その愛情の注ぎ方も尋常ではない。
 サギソウの自生地復元に取り組む住民有志は2000年、ついに「さぎ草王国」を樹立。国旗や国歌まで作ってしまった。王国だから「国王」もいる。初代の永当(えいとう)保さん(67)は「サギソウ保護をきっかけに、住民の連帯感が深まれば」と肩の力は抜けている。
 昨年は「水辺と生物を守る農家と市民の会」も結成された。農薬を使う農家は、生き物をかわいいと思っても、行動は起こしにくいものだが、地区全体での農薬空中散布をやめた。
 スイカやコシヒカリを作っている恒本明勇(あきお)さん(60)は今年、田んぼのいもち病防除用の農薬を3分の1に減らした。「できることからやっていきたい」
 県希少野生生物保全指導員の肩書を持つ稲葉さんも実は農家。農作業の合間にアベちゃんの環境が荒らされていないか、草花が盗掘されていないか、見回っているのだ。
 日本の国土の4割は里地・里山といわれる。人間が薪や炭焼き用に木を切り、手を加えることで維持されてきた生態系だが、燃料が石油に切り替わった1960年代以降は放置され、急速に荒れた。環境省もモデル事業を通し新たな里山像を模索しているが、「着地点は、まだ描けていない」(自然環境計画課)。
 4月、合同会社を作って里山を再生させる試みが山形県飯豊(いいで)町で始まった。ここには国内最大級、1万2000ヘクタールの共有林がある。
 会社を興したのは、町の第3セクター「緑のふるさと公社」常務だった安部弘さん(49)。ナラなどを毎年15ヘクタールずつ切り出し、建材や燃料用のペレット、キノコ栽培用おがくずを生産し、年間売り上げ5000万円を目指す。
 「担い手不足でも里山は守れる、収益もあげられることを示したい」と安部さんは意気込んでいる。(室靖治、写真も)


2007年11月1日 読売新聞

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[環境ルネサンス]限界集落に生きる(3)間伐不足で「死んだ水」

◇No.148
 戦前、氷もあまりなかったころ、山村の余能(よのう)集落(高知県仁淀川(によどがわ)町)で海の幸といえば、イワシの干物とチリメンジャコだった。
 藤原君子さん(80)は魚をあまり食べない。が、昔からジャコは「毎朝、ご飯に乗せて食べる」という。
 そのジャコの原料、シラス漁に異変が起きている。
 余能近辺の沢は、数々の支流とともに仁淀川の本流にぶつかり、最後は土佐湾へと流れ込む。
 「上流から死んだ水が流れてくる」
 河口にある春野町漁協の岡崎雄幸組合長は、危機感を募らせる。「栄養のある、ええ水が川から流れて来んようになって、魚が集まらなくなった。海と川が交わる河口あたりは、一番の好魚礁やったが……」
 1977〜80年ごろ、春野町漁協では年3億円を超す水揚げ高があった。シラスが取れすぎて加工が追いつかず、泣く泣く捨てたものだ。しかし、平成に入って水揚げが激減し、収益も5分の1以下になった。
 川のアユ漁師も同じような異変に気づいている。
 仁淀川は、水が透き通り、上流から下流まで、川底の石の一つ一つがきれいに見える。しかし、その支流で長年、投げ網漁をしている細川治雄さん(68)は「そういえば最近、岩が滑るんよ」と言う。川底にコケではなく泥が積もっている。おかげで、よく転ぶようになった。緩やかな流れの中を歩くと、その泥が浮いて、水が濁る。
 余能集落から車で25分。小川(こがわ)川で、細川さんのアユ漁を見せてもらった。勢いよく放り投げた網はきれいな弧を描き、手繰り寄せると、15センチの小ぶりのアユが白い腹をくねらせた。30分の釣果は4匹。ひと投げで20匹以上かかったこともあったが、4、5年前からめっきり取れなくなった。
 川よりまず山が変わったというのが、趣味で狩猟もする細川さんの説だ。「スギ・ヒノキの間伐が不十分で、地面に日が当たらないから、下草が全くない。惨たんたる死の世界やね。雨が降れば、山の泥がだーっと川に流れ込む」
 下流の春野町でも、アユ漁は壊滅的だった。
 「昔は簡単に大小30〜40匹は取りよったが、今は2時間やっても1、2匹。ゼロの時もある。5匹取ったらえらいもんじゃ」と証言するのは、60年来の川漁師、深瀬早夫さん(72)だ。ここ10年で、川底にごろごろあった直径10〜20センチの石がすっかり消えた。急激な増水で押し流されたのだろうか。砂利や小石ばかりだから、アユの餌となるコケが生えない。以前は一面のコケで茶色だった川底が、今は真っ白だ。
 「最近のアユは細いきね、30センチの大物はめったにお目にかからなくなった」
 農林水産省のまとめでは、仁淀川流域のアユの漁獲量は74年の550トンをピークに減少が続き、2005年は100トンに落ち込んだ。
 高知大の深見公雄教授(生物海洋学)の調べでは、仁淀川の栄養分は、窒素やケイ素に比べてリンが不足し、バランスを欠いているという。異変の原因究明はこれからだが、「上流域で山の手入れができなくなったことが影響しているのは間違いない」とみる。
 05年秋、川全域を管轄する仁淀川漁協の組合員40人が、上流の仁淀川町の山林で間伐作業に汗を流した。今年も参加者を募り、山に入る。「山がようならなければ、川もようならない。漁師もできることをやろうと思いまして」と、麻岡博組合長は話した。
 小ぶりになったと嘆く深瀬さんのアユを、宿泊先の近くの料理店で塩焼きにしてもらった。締まった身が、ほんのりと甘かった。(高倉正樹)

2007年 9月21日 読売新聞


[環境ルネサンス]限界集落に生きる(4)豊かな農作物、販路なく

◇No.149
 「なーんもない田舎ですきね」というのが、余能(よのう)集落(高知県仁淀川(によどがわ)町)の住人の口癖だ。でも、一つだけ、自慢できるものがある。
 「香りが高く、コクもある」。20年以上も前、余能のお茶が町の大衆食堂で評判になった。仕入れ先を聞きつけ、余能まで茶を買いにやってくる人もいた。
 余能の急斜面に、青々とした茶畑が連なる。その畑の間の石段を抜け、藤原君子さん(80)の家で、自家製の冷たいお茶をいただいた。のどに残る独特の渋みが心地いい。「余能は朝から晩まで日当たりがいいけぇ、おいしいの」と言って、君子さんはまぶしそうに青空を見上げた。
 スイカは目に染みるような鮮やかな紅色。ニンニクも強烈なにおいがする。農作物のほとんどが自家消費だと聞いて驚いた。
 「農協さんが車で集めたころは、みんな売りに出しよりましたけどねえ」
 地元の池川町農協(現・コスモス農協)は1990年、高知市内に店を開き、集荷車で各農家を回って集めた農作物を売った。しかし、3年前、事業は中止された。「辺境の地に2時間かけて1、2パック分の野菜を取りに行くのは効率が悪い」と農協は言う。
 「自分の名前と住所を書いて、きれいに包装して、売値の札をつける。毎日、それが楽しみでねえ」。君子さんは残念がる。価格を100円と決めれば、25円は農協で、75円が君子さんの取り分。ジャガイモ、ニンジン、キャベツ、ニラ……。何でもよく売れた。
 農協は茶も買いつけていたが、これもやらなくなった。6軒あった余能のお茶農家は今、2軒だけ。当時からの「お得意様」の個人注文に細々と応じている。
 最近、君子さんは自宅で食べきれないタイモ(里芋)を野菜作りの堆肥(たいひ)に回すようになった。
 8キロ離れた町中心部。国道439号沿いに、野菜の無人直売所がある。20か所に仕切られた棚のうち、キュウリやピーマンが並ぶのは5、6か所だけ。直売所ができた15年前には、棚は連日埋まっていた。農家の人々が年を取り、野菜をここまで運べなくなった。
 直売所の近くにある地元最大のスーパー「Aコープ池川店」の野菜コーナーをのぞいた。群馬産キャベツ、長崎産ジャガイモ、香川産タマネギ。同じ町内の余能でも作っている野菜が並ぶ。遠くから運ばれた野菜を客が買い求めていく光景は、どこか奇妙だ。
 同じ高知県の四万十町十和地区(旧十和村)はシイタケ栽培で知られる。余能のように山に囲まれているが、車で走ると若者の姿が目につき、雰囲気も明るい。
 50年代、農家の現金収入源として、地元農協はシイタケに目をつけた。組合長自らが大阪や神戸に赴き、販路開拓に奔走した。国の拡大造林政策に抵抗してナラを伐採せずに残し、シイタケ菌を植える「ほだ木」にした。
 「現金収入の道を守ったおかげで、若い後継者が村を出ずに済んだ」。シイタケ農家の安藤精馬さん(83)は言う。十和地区に、限界集落はない。
 仁淀川町も地元産の茶のブランド化を模索する。「手をかけて作る少量のお茶がスローフードの時代に合うのではないか」(片岡広秋・町企画課長)。生産者組合を交えた検討も始まった。
 その動きは余能に伝わっていない。「茶作りは楽しいですよ。釜で炒(い)って、赤ちゃんの肌のような柔らかい葉をもんでね。でも足も悪いし、そろそろやめようかなあ、思うてるんです」と君子さんは打ち明ける。
 限界集落の振興は、時間との戦いでもある。(高倉正樹)


2007年 9月22日 読売新聞

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