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各地には、様々著名人がおられますが、ここ「ごせまち」の著名人は、役行者、桑山元晴、浅田松堂、奥野四郎平の4名を挙げさせていただきます。
役行者はご存知の通り山岳宗教の開祖として日本各地に足跡を残した方です。ごせまちの東のはずれに吉祥草寺というお寺がありそちらの生まれとされます。
浅田松堂は、「大和がすり」の考案者として伝えられます。1711年(正徳元)〜1776年(安永6)16世紀の方です。名は 操 と言い、通称 新七と言いました。後ほど紹介いたしますが、岸本邸の元の住人でした。材木の中継問屋を営み手先が器用な上、文武に秀でたと伝えられます。彫刻をたしなみ、自作木彫像が県立御所工業高校に残されています。(御所工業高校は、創立時 染色専門高校として発足しているので、大和絣の発案者の木彫をシンボルにしていたそうです。)また、書道の達人で、大和三筆(三堂)として著名でした。三堂とは、松堂・梅堂・竹堂と言い吉祥草寺には松堂の筆塚があります。
後ほど紹介いたしますが、町なかにも松堂の書を所蔵されているご家庭があります。
その他、弓の達人でもあったそうです。当時 江戸城で開かれた全国大会において 入賞されたとのことです。
確かではありませんが・・・、桑山元晴は関が原の戦い以降に領地を与えられた紀州徳川家の流れの武将で、東御所の辺りにあったと言われる初代御所藩主。「ごせまち」を今の形に作り上げたと考えられます。
奥野四郎平は奥野誠亮(元衆議院議員)さんのおじいさん・奥野信亮(現衆議院議員)さんのひいおじいさんに当ります。明治初期の元県会議員。(噂によると誠亮さんよりも大人物やったような。)当時、水利関係から御所を初めとするいくつかのまちが大阪府(堺県?)に統合されていたのを、奥野四郎平を中心に県内の県会議員が立ち上がり、現在の奈良県の形を整えたとされます。
この運動を「再設置運動」と言う。当時の総理大臣(たぶん伊藤博文)に直談判をしたそうです。あまり有名ではありませんが、考えようによれば、奈良県の生みの親ともいえます。
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