|
≪お大師様(弘法大師/空海)の生涯 〜2/4話〜≫
教海(きょうかい)様(弘法大師)は、20歳になると、勤操(ごんそう)大徳から授かった 「虚空蔵求聞持法」を修めるために、大峯山をはじめ、「伊予の国 石鎚山」 「阿波の国 大竜ヶ岳」など、切り立つ岩山の頂上で、ひたすら煩悩と闘い真理の追求に励み、 ご真言を唱え続けました。 『のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼりそわか』 来る日も来る日も毎日1万遍・・・唱え続けました。 そして、お大師様は真理の追求を自問自答し続けます 人には欲があるから不幸だという そして欲望を捨てて無になれ、空になれという この大空のように しかし・・・ この大空でさえ、夕には赤く、昼には青、 ときには風も吹き・・・雨も降る ましてや人間・・・ 欲を捨てて無色透明になれるのか? 闇に包まれた夜空とて無色ではない 赤、青、黄、さまざまな星がある それが大宇宙の生きてる証なのだ 人もまた・・・ 同じではないのか? 欲望は生きることの証であり 源ではないのか? 欲望があればこそ・・・ 日々努力する 私が仏門に生きたいと 願うのも欲望のひとつだ・・・ 私に宇宙の真理を・・・何卒なにとぞそして、怒涛逆巻く室戸岬の岩頭に座禅し、厳しい修行は絶え間なく続いたそうです。 ・・・ある日の明け方、虚空蔵菩薩が現れ よく見るがいい 宇宙にうかぶ無数の星々を おまえたち人間も 星の上に住んでいるのです 宇宙は生きているのです 人間と同じように 生まれてくる星 病にかかった星 死んでいく星 さまざまです そして、その星々も 星雲として 一つの形をとり 大宇宙となっている その・・・ たくさんの星雲が群れをなして これすべて 法身仏(ほっしんぶつ)の力です 宇宙万物 森羅万象 一切を司る 法身仏なのです そのとき、明星が教海様の口の中に飛び込んできたそうです。 「虚空蔵求聞持法」を修得した瞬間です。 そしてこの時、室戸岬の岩頭で「空」と「海」が一つになった瞬間を観られることとなり 後に、自らのお名前を「空海」とされる起因となったのです。 (御厨人窟=みくろど=御蔵洞 お大師様が「虚空蔵求聞持法」の苦行をしたとされる洞窟) 平城京から長岡京へと移った都は、さらに平安京へと遷都(せんと)された この頃、教海様は名を『如空(にょくう)』とかえられました。 師の勤操大徳がおられる奈良の大安寺で多くの経典を学び、 また諸国を修行の旅をされながらお寺を廻っておられました。 各お寺が経蔵(きょうぞう)される経典をみられたそうです。 真理の追求に励みますが、大命題には達せられないまま苦悶しました。 そうした中、東大寺の大仏殿に21日間参篭(さんろう)して一心に祈願され 霊感により、遂に「大和国(奈良県)高市郡・久米寺」にて 『大日経(だいにちぎょう)』七巻に辿り着きます。 お大師様は、このお経にこそ念願の教えがあると大変感激してました。 法身(ほっしん)大日如来との出会いです。 この時、空海24歳。 三教指帰(さんごうしいき)という、儒教・道教・仏教を比べて 仏教が最も優れていると確信され、やはり自分の進むべき道は 仏教であるという論文を書かれました。 そして以後、如空様は30歳に至るまで行方知れることなく 大日経の研究、修行の旅をされていました。 しかし、経典には梵語(ぼんご=印度古来の古語)があり難解を極めました。 当時、この難問を答えられる僧もなく如空様は困迷されたそうです。 お大師様は、大日経の説く「理論と実践の両面から成仏に至る道」を極めるには、 唐へ渡り、追及する以外に道はないと決意されたのでした。 如空様は恩師、奈良・大安寺・勤操大徳に相談いたしました。 固い意志と光臨な志に感動された勤操和尚は並々ならぬお世話を下さいました。 遣唐船に乗り唐(から)へ渡れるのは留学僧(るがくそう)といい
得度を受けた官僧でなければなりませんでした。 この時、得度権は奈良の東大寺にあり 勤操和尚が、東大寺の別当も兼ねておられたので 大安寺の僧として届出をしてくださったのです。 この時、法号を。。。 四国で虚空蔵求聞持法を成就したとき、室戸岬で「空」と「海」が、 自分を祝福してくれるがの如く一つになったことを思い 『空海』とされたのです。 この時、延暦22年(803年)空海30歳(4月桜咲く春であった) そして遂に、延暦23年(804年)入唐の勅許が下りました。 お大師様は同年5月12日難波津(なにわず)から唐へ向けて 遣唐大使藤原葛野(かどの)麻呂の遣唐船に乗ることとなったのです。 同年7月6日、第十六次遣唐使船四隻は田浦(たのうら)から唐に向かいます。 船団を組んだ四隻の中の第二船には、比叡山に天台宗を開いた、
後の伝教大師最澄も乗っていました。 船団は、揚子江から唐の都・長安(現在の西安)を目指し東支那海へ向け進路をとりました。 当時の航海は荒海を帆任せ、風任せ、波任せで渡るのですから・・・
その苦難と覚悟は言語に絶するものがあります。 遣唐船は、途中暴風雨にあい田浦を出て34日目の8月10日 長渓県赤岸鎮の南、赤岸渓の河口につきました。 入港すべき明州の港からは百里あまり(400km)も南へ流されていたのです。 一行は、船を応急修理し一路、台湾の対岸にある福州(福建省)へと向かいました。 10月3日、福州に到着しましたが役人達は、ボロボロになった船に破れた衣を身に まとった異様な人々を見て、上陸を許可しませんでした。 国使・藤原葛野麻呂は先の嵐で国書を失くしていましたので、 自筆で身分の証明、いきさつ等を書き提出いたしましたが・・・ やはり、認められず許可されませんでした。 そこで遣唐大使の依頼で、お大師様が陳述書を書くこととなりました。 素晴らしい文章と文字の陳情書は役人が驚かんばかりのもので、高名な方々に違いないと やっと上陸を許してもらえることになったのです。 筆一本で運命をかえることができたのです。 11月初め、一行は福州を旅立ちます。 福州(福建省)から唐の都・長安までの道程は、四百四十里(1760km) 福州から開封(かいふう)までの三百七十里(1480km)は川や運河をさかのぼり 開封から長安までの七十里(280km)は陸路で歩きました。 12月21日、一行は一ヵ月半後、初冬の長安に到着しました。 約半年をかけて到着して見た長安城は。。。 お大師様の感激は、如何ばかりであったことでしょう! 「西遊記」で有名な唐の玄奘三蔵(三蔵法師)が仏典を求めて
印度(インド)を往復された道も苦難の連続でしたが、 仏教は、このような苦難の積み重ねによって 三国(天竺・唐・日本)伝来が出来たのですね。 (^人^)感謝♪ そして、お大師様(空海)は運命導かれしお方 『恵果阿闍梨(けいかあじゃり)』と出会うこととなるのです。 時に、空海32歳の冬でした。 ・・・合(^人^)掌・・・ * 当記事とFLASHデーター及び作画等は、当「岡山護神会」WEB管理人(広報部長)に著作権を帰属し、
素材、原文等は≪BOSSの『BOSS/心の鏡 参之巻』≫が、作成したものです。 無断コピー並びに無断転載を原則的に禁じています。。。ので(=´ー`)ノ ヨロシクw ご必要な場合は、その旨のコメントをくださいませぇwww 尚、ご感想を頂けるとありがたいです(笑) 南無大師 (^人^) 遍照金剛 |
||||
全体表示
[ リスト ]


