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こんばんわ。
まったく自然消滅的に更新してませんが、んんん〜〜忙しい。
ははは。
言い訳でございます。
やや負け状態(汗
題目不足(笑
まったく僕という人間は、少しは今月の御文を身で読むべきです
題目が足らんから、
ちょっと気がかりなことがあるだけで、
やることいっぱいあること自体がストレスになる。
つまらんゲームやって息抜きしようとしても、
現実のやること目の当たりにすると状況同じで、ストレスも同じかそれ以上になって帰ってきます(笑
前向きになることなく次のことやっても、小手先のやっつけで質が悪い。
そんでコレがまたストレスのもと(笑
題目あげて、大聖人や先生の素晴らしさを感じてると、
その素晴らしさに誠実であろうと頑張るし、
そんな仕事や活動は質も良くなるし、
頑張った自分には満足する。
そんな喜びもあって、次々とストレスがかかってもガンガン打破していける。
んん〜〜〜題目あげなきゃダメだ!
ま、忙しいことに愚痴も出つつですが、
やることない状態の恐怖を思い起こすと、忙しいことには感謝だね♪
以上、とてもお粗末で御文を一緒に載せることが憚られながら、今月の研鑽おしまい!
だらしないブログで訪問者数も少ないですが、
それでも訪問してくれる読者の皆様ありがとう♪
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先月は何も書かずにすみません。
書きたいことはいっぱいあって、自分でも書くのを楽しみにしていたのですが(汗
先々月の僕の研鑽の流れからいけば? 十方の価値観、幸福観というのは、現在ここに居る自分の真実の幸福観といえるのではないだろうか!? といったことを書きたかったのですが(汗 ある意味「自分が幸福である」という自覚は、
自分の生き方在り方の是非を占う鍵になってくるんじゃないかと思うんです。
オレはこのとおり、金も地位も持っていて幸福なのだ!
こんな感じに、自分の尊厳を主張し、見せつけるような幸福もあるでしょうし、
ふとした時に人の真心を感じて、身体に染み入るような幸福、胸にこみ上げる幸福もあると思います。
本当に自分が幸福であると感じるには、
幸福であることを主張するより、
やはり、幸福は感じるもの以外なにものでもないと思うのです。
ぜんぜん文章がまとまってませんが、そ〜んなことを書こうと思ってました。 今、大白が手元にないので、御文も現代語訳も載せられませんが(汗 今世の名聞=真実の幸福として考えてます。
三世の価値観に立つ、真実の幸福ですので、当然後世にも通じる幸福です。
だらしなくて書けなくてスミマセン。
書けるときがあったら、御文に照らして書き直します。
またね!
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あっという間に友好期間が終わってしまいました(笑
どうですか?みなさん? エンジンかかりました? 僕はどうでしょうねぇ〜。 すっかりノンビリが身体に染みついてしまったでしょうか? 日程表を見ると言葉が出なくなってしまいます(笑 まぁともかく、戦ってるときの方が生活が充実、仕事も順調。 後半戦といっても、11・18までは2カ月半しかありませんから、 またまたお尻に火をつけて頑張っていきたいと思います。 今日がうちの地区は座談会でございます。 今月の座談会御書の研鑽をしたいと思います。 【今月の座談会御書「千日尼御前御返事」の御文】
法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり、十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故なり、譬えば一の師子に百子あり・彼の百子・諸の禽獣に犯さるるに・一の師子王吼れば百子力を得て諸の禽獣皆頭七分にわる、法華経は師子王の如し一切の獣の頂きとす 【今月の座談会御書「千日尼御前御返事」の現代語訳】 法華経を供養する人の功徳は、十方の仏や菩薩に供養する功徳と同じである。十方の諸仏は妙の一字から生まれたからである。 たとえば、一頭の師子に百匹の子がいる。その百匹の子が諸々の禽獣に襲われているとき、(親である)一頭の師子王が吼えれば百匹の力は力を得て、諸々の禽獣は皆、頭が七つに割れるのである。 法華経は師子王のようなものであり、一切の獣の頂点に立つのである。 え〜。 どうもナマヌルイことしか書けそうにない予感がするのですが、 それでも研鑽を書いていきたいと思います。 最初に、 「法華経を供養する人は、十方の諸仏を供養するのと同じである。」と教えられています。 ところが、僕だけでしょうか? 「十方の諸仏」というものがどういうものか、確かなものと把握できておりません(汗 語訳に「十方」がありますので引用したいと思います。 十方・・・・・ 東西南北の四方と、東北・東南・西北・西南の四維と、上下の二方を合わせたもの。 空間的に全宇宙を表している。 そう。これはなんとなく子供の頃から知っています。 ただ、僕の子供の時から印象だと「全宇宙」ってところばかりが引っ掛かり、 「十方の仏菩薩」というと、この地球上ではない、違う星にいる仏菩薩?? みたいな印象がありました。 みなさん、そんなことないですか〜? うむ。みなさんはそうじゃないかもしれません。
僕は念仏宗の害毒が深く入り込んでしまっていたためか? あたかも、西方極楽浄土にでも居るありがた〜い仏さま菩薩さま? そんなイメージをなが〜い間持っておりました。 大人になって、ある程度この世の中というものを見てきたところ、
形式的な仏法において仏菩薩がどういうものであれ、 僕が思う、尊ぶべき対象は「苦しんでいる人を救う人」です。 救うといっても、 善人ぶった上から目線の施しや憐れみは、苦しむ人をより惨めにするように思え、こういうものはヘドが出ます。 人間を乞食にしてしまうように思えます。 お先真っ暗に思えている人が、真っ暗闇を打開するための前進を始める、そして続ける。 これへの力を与えてくれるものがあれば、 人間は皆、胸を張って生きていけるように思うのです。 真っ暗闇で苦しんでいる人が、胸を張って前進する姿となれば、 おそらくこれは既に、 同じく真っ暗闇に居ると思っている人々にとって光明になっているように思えます。 苦しい人と立場が入れ替わったら打つ手ナシ。
だから立場が入れ替わらないよう必死に頑張る。 こんな感じの方々も世の中にはたくさんいらっしゃるだろうと思います。 前進を阻んで、行く手が真っ暗闇であるかのように見せ、諦めを誘うような働きはたくさん有ろうかと思います。 <譬えば一の師子に百子あり・彼の百子・諸の禽獣に犯さるるに・一の師子王吼れば百子力を得て諸の禽獣皆頭七分にわる、法華経は師子王の如し一切の獣の頂きとす>
と、と、と。
これから座談会の準備をせねばならず、時間がなくなりました。 後半の御文をいきなりドーンと引用しちゃいます(笑 僕らは、どうしようもない苦境に立てば、必ず題目を唱えます。
法華経、南無妙法蓮華経の題目、御書、御指導。 僕らには、真っ暗闇となればなるほど、その有難さを痛感する、僕らに力を与えてくれるものを持っています。 諸々の禽獣に犯されても負けない。 本当に一人一人の幸福を心底願う真実。 この真実に照らされれば、 上辺の偽善で人を食い物に惨めに暗闇に落とし込む禽獣は悩乱すること請け合いです。 真実が味方。
これ以上の味方はありませんな!
ちょっとまとまってませんが、今月はおしまい。
またね〜♪
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今日は終戦記念日です。
あまりに多くの人々に不幸と悲惨を招いた「戦争」というものを、 現代日本人がもっとも意識高く考える日であろうと思いますし、 「二度と戦争を起こしてはならない!!」 そんな誓いとも言えるような、強い思いを抱く日ではないでしょうか? 政府閣僚の方々が靖国神社に参拝するか否か、といった話題も毎年のように報道されたりします。 戦前の日本において靖国神社とその思想(国家神道)が果たした役割を考えると、 日本から侵略された周辺国の反発は当然のものと思えます。 戦後、靖国神社と国家神道が切り離された(政教分離)とするのであれば、
政府要人が靖国神社に何かをするかしないか?という動きがあること自体、 まったくおかしな話であるに違いありません。 周辺諸国の方々も、日本国民をも戦禍に巻き込み不幸に陥れた「戦争」を二度と起こさない!
この「民」としての当然の同意を、
憲法改定の必要性も論議される今、一番大事なこの同意を、改めて確認をしたい思いになりました。 ちなみに・・・
靖国神社の「くに」は國という字。 「ロ(国構え)」に「或(戈<ほこ>を手にして国境を守る・武力を示します)」(大白増刊号P.5) 靖んずる国の中心に据えられるものが「武」となります。 靖国神社に祀られているのは主に軍人や軍属です。 一般庶民、一般の国民が祀られているわけではありません。 ははは。
あまり靖国神社のことを言うと、
「国のために散っていった軍人たちを祀ることのどこが悪いんだ! この非国民!」 とか言われますかね?(汗 このブログを読んでる人の中にそんな人が居るとも思えませんが、
僕の周囲にも居たそういう方々は、
必要以上に靖国神社を高く大きく評価されていらっしゃる場合もあるようです。 靖国神社は、国を靖んずる神社としては、
その起源が実に浅く、起源は明治時代初期。 明治維新の際に、政府・朝廷側の軍人等の戦没者を祀るところから始まっています。 話がやや逸れるかもしれませんが、 今年の大河ドラマは「会津藩」を舞台とする「八重の桜」というものがやってまして、 私も毎週楽しみに見ているわけですが、
靖国神社は、政府・朝廷側の戦没者を祀りますから、
なんと!会津の戦没者の方々は「対象外」! 「国を靖んずる」とするには、あまりに偏狭な措置と思えてしまいます。 西南戦争における西郷隆盛ら薩摩軍の方々も祀られておりません。 国、国民全体を靖んずる神として、コリャあんまりじゃありませんか!? あまりに朝廷・政府に偏って尊重する思想に、なんとも同意できません。 しかし、戦争によってお亡くなりになった軍人の皆さんへの思いを深くすればするほど、 そのご冥福をお祈りする気持ちは大きくなってまいります。 軍人となられた皆さんにも、本来お一人お一人に望む人生があったところ、 赤紙(召集令状)が届いて、泣く泣く軍人となって、亡くなっていかれた。 まさに不幸です。悲惨です。 国全体を覆う思想と、その思想に従って生きる人々の中で、 抗えない思いで、戦地に赴かれた方々も多かったことでしょう。 「この方々の思いを大事にする」という思いに立てば、 再びこのような不幸や悲惨が作られることのないよう、 悪しきものは悪しきものとして、 今後の時代に引き継がれないことを望まずにはおれません。 国の中心に武を据えるなんて思想は、進んで封じるべきです。
「立正安国」 「立正」 人々の中に「正法をうち立てる」。 人々の中に、本当のことそのままの正しき思想を打ち立てることにより 「安国」 人々が人の心を大事にし、ともに幸福を祈る思いで生活していく地域、国土を築くことができる。 国を安んずることが出来る。 夢のような世界に思っていた時もあります。
長年、強制力のある力以外は信じられないで生きてきました。 でも、自分の住んでいる地域からコレを始めてみると、 (とても全てがこの理念に基づいた生き方とはなっておりませんが(汗)、 それでも、決してこれが夢の世界ではないことは確認できました。 根性は要りますが、折角の人生ですから、 自分が本当にイイと思う理念に少しでも基づいた生き方をしていこうと思います。 大聖人は立正安国論を認められた際、
「国」を表すのに「ロ(国構え)に民」という文字を使われている。 というのは、もうかなり有名な話になっているみたいですね? 本日が終戦記念日であり、 先日「立正安国論」の研鑽を始めたことでもありますので、 大聖人の「民を中心に国を安んずる」という思想の素晴らしさと、 明治政府の「武を中心とした國を靖んずる」という思想の限界とを、 僕が考えられる範囲で、今日は破折中心に書いてみました。 武が中心となって、平和で幸福な世の中になるわけがありません。 戦争は絶対に反対。 周辺からの干渉が今後永劫無くなるという可能性は低いでしょう。 現今、そういった勢力と対峙しなければならない状況にあるかもしれません。 だからこそ、 僕らが「そういった勢力」になってはならない。 僕らから、武を中心とするような思想は、一切の排除を望みます。 そのうえで、干渉してくる勢力と交渉をしてほしいものです。 国や民族がが違っても、 武を中心とした社会にあって、威張る人、苦しむ人、それぞれあるわけです。 この中で、威張るのも嫌だし、威張られて苦しむのも嫌。 これ「武」が「金」に変わっても同じことですが。 だから「そういった勢力」は撲滅してもらわねば困ります。
「勢力」といっても、人で区分けされるものではなく、「思想」や「心」で区分けされる勢力。 靖国神社は、 日本において未だ「そういった勢力」の一つの核になっているように思われるのです。 活き活きとした人間社会を望む方が、愛国心を持つならば、
国は人の作るもので、人から成り立っているわけですから、 僕も含め、国への愛は、 目の前の国民への愛として表現されるようでなければと思います。 僕は、活き活きとした人間社会を作るものとは、 一人一人が自ら、目の前の一人の尊厳を守り讃え軽んじないことだと確信します。 ともかく僕はこれを頑張る。
それではまた♪
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