辛口なんでも評論

良き友を持つものに人生の落伍者はいない

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変わった所では、テレビの仕事で制作部に配属され、いくつかの芸能番組や視聴者参加番組を担当した時のことだ。
ケイは芸能関係の仕事は余り好まないことは既に述べた通りだ。でも、それを避けることが出来ないので、それなりに頑張ってお付き合いし、ケイなりの得意分野をその中で生かせるように努力した。
 
番組を通じて懇意になった一人に和田アキ子さんが居る。
彼女はホリプロというプロダクションでも筆頭の芸能人で、世間ではその体格の大きさや、気性などから女親分のようなタイプだと思われている。ところが、決してその様なことはない。彼女はとても優しく、思いやりがあって涙もろい人だ。
和田アキ子さんがメインの司会をしているテレビ番組の制作責任者を3年ほど続ける間に、何度か食事やお酒の付き合いをしながら直接話をする機会が度々あった。お酒が入るとアキ子さんは、大胆になり、行動も、仕草も大きくなる。しかも、彼女の優しさは一段と加速して、まるで誰もが母親のように感じてくる程、性格が変貌する。
確かにお酒が好きだ。それほど強いと私は思わない。と言うのは、かなりの量のアルコールが入るとアキ子さんは、或る時は口調が乱暴になり、また或る時は声がドスの利いた姉御のようになる。でもそれは、愉快な飲み方だった。お酒に飲まれないし、楽しい酔い方だった。
 
番組の録画の仕事が終わるとよく夕食をご一緒した。既に夜も更けていることが多かった。そんな時間に彼女は満足して宿泊予定のホテルの部屋に入ることはまずなかった。それから、ホテル内のバーやクラブに出掛けて、そこでとことん満足の行くまで、飲むのが習慣だった。或る時は「ぐでんぐでん」になるまで、飲み続けた。しかし、そこで寝込んだり、倒れたりするようなことはなかった。それだけは立派だった。
 
夜中を過ぎて自分の部屋に戻られたが、その時接待役の私を捉まえ「おい!ケイ、俺の部屋へ来い!」と、命令することがよくあった。
悪い癖なのか、それとも気遣いの細やかさなのか、アキ子さんは夜中を過ぎているというのに「今からお前の嫁に電話する」と言っては、本当に電話することがあった。本人はお酒が入り過ぎてよく覚えていないのか知らないが、私の家内はある程度「和田アキ子さんを迎えて仕事がある日は、半ば諦めていたようだ」と、思う。アキ子さんと仕事をする機会が無くなってから、そのようなことを話していた。
電話では随分可愛いことを言っていた。「今夜はご主人を預かっている。もうすぐ返すが、それで良いか」と。
 
みのもんたさんもテレビの番組制作を介して親しくなった一人だ。
みのさんは当時、2週間に一度の割合で東京から大阪に来て、テレビのクイズ番組を司会していた。ケイはその番組責任者だったため、局への到着から無事帰られる迄お相手していた。
 
彼のバイタリティーは世間でも知られている通り、どこからそんな元気が出て来るのかと首を傾げるほど、言葉にも行動にも一杯漲っていた。水を得た魚のように、何の問題もなくすいすいと、過酷とも言えるスケジュールを簡単に熟した。私的にも仕事が終わった後は、夜遅くまでテレビ局やタレント仲間を誘って、豪遊するのが慣習だった。
 
個性が強いために、好き嫌いが多かったようだ。みのさんを知る知人も好きと嫌いで大きく分かれていた。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきり断言され、とても男らしかった。仕事となると、分け隔てなく付き合われた。私はそんなみのさんを高く評価していた。
 
彼と仕事をするスタッフには、我儘な性格に賛同する者、ちょっと敬遠して身を引く者と、相反する二通りが居た。でも、みのさんは、一流の社交家だったために、相手とはうまく付き合い、仕事に関しては全く問題なく、テレビ局の若者であっても、少し年配の責任者であっても、うまく力を合わせて最高の作品を作るべく、終始努力された珍しい司会者だ、と評価している。ケイは多くのことを彼から学ぶことも出来た。
 
2006年には早朝から夜のゴールデン・アワーまで、数多くの番組の司会や制作に携わり、一週間に最も長時間生番組の仕事をする司会者として「ギネス・ブック」に登録、承認される栄誉を授かった。そんな無理が祟ったのか、腰を痛め「脊柱管狭窄症」と診断された。手術を受けるため、暫くテレビ番組から姿を消し話題となった。手術は成功、再度司会者に復帰されて現在は益々の順風満帆振りである。ケイも同じ病を患い手術をしたので、病を抱えての司会者のみのさんが、手術を受けられる迄如何に辛く、大変だったかがよく分かる。
 
みのさんと親しくなったのは、京都での食事や粋なお座敷での遊びを通じてである。それは、京都祇園でのお茶屋遊びだ。みのさんは番組が終わった日の夜、必ず京都の祇園に出て、馴染みのお茶屋のお座敷に舞妓と芸者を呼び、一時を過ごすのが趣味であり、楽しみであった。京都に着くのはいつも夜8時か9時を回っていた。まず、簡単に料理を頂きながら、舞妓の舞を観賞し、芸者の弾く三味線の音に耳を傾けて疲れを癒した。その雰囲気は京都ならではのものであり、お座敷でなければ味わえなかった粋なひと時だった。
 
みのさんはお酒が好きで、かなりいける。と言うより、お酒の飲みっぷりは、彼の右に出る者はないほどの酒豪だ。私は下戸で、一口飲むだけで顔が真っ赤になる程アルコールは弱かった。いつもお酒の飲める、みのさんと対等にお付き合いが出来る部下のM君を伴って京都に出掛けた。
 
また、みのさんは、クイズ番組に出演された女優や著名なタレントにも声を掛けて、京都へ誘っておられた。局を後にしてタクシーで京都に向かうのだが、タクシーに乗る直前になって初めてその顔ぶれが判明した。でも、それらのタレントはスケジュールの都合もあり、お茶屋さんでの食事と優雅な舞やしっとりした三味線の音を観賞して、我々とは別れ、京都駅から新幹線で東京に戻られた。
 
1時間から2時間ほどでそのお茶屋遊びは終わり、二次会というか、まだ飲み足らないのか、いつもその後は祇園の行付のクラブだった。和風から洋風への転換で、酒好きの人は改めて飲み直しという感じだろうか、意気が大いに揚がった。座敷での日本酒やビールの次は、洋酒だった。ケイは、どれもこれも残念ながらお付き合い出来ず、ウーロン茶を頂いてみのさんとのお付き合いを続けた。さぞかし、みのさんは不満だっただろうと、いつも帰宅してから後悔の念に駆られた。
 
京都での夜はそれでは終わらなかった。クラブからみのさんは必ず馴染みのお好み焼き屋さんに電話を入れ、席の予約とお好みの品を人数分注文した。そうした心遣いは、酔っ払っていても必ず忘れずに実行されたのには、頭が下がる思いだった。
 
散々、飲み食いしてそろそろお互いが疲れを感じる時間だが、みのさんは決して疲れたとは言わなかった。むしろ「もう一軒行こうか」といった感じで、私は「みのさんの体を気遣って、そろそろお暇しましょうか」と言うのが、精一杯だった。
 
お好み焼き屋に着いた頃にはもう夜中を回り、いつも午前1時か2時近くになっていた。
私は、もうくたくただった。気を遣うし、何か間違いがあっては責任者として許されないからだ。みのさん推薦のお好み焼きを頂き、やっと解散の時間となった。もちろんその時間からみのさんは東京へ帰れるはずもない。列車はとっくに最終が出た後だ。
どこに泊まられるのか、長いお付き合いの間、私はそんな野暮なことは聞かなかった。当然、みのさんのことだから、行きつけの宿舎がある筈だ。誰か親しい友人もおられるに違いない。
タクシーを3台、お好み屋のママに呼んで貰った。夜の風がアルコールで火照る身体を冷やしてくれて、心地良かった。毎回同じコースだったが、そんな祇園のサラリーマンでは味わえない一面を、みのさんと一緒に味わった。
 
みのさんはとても金銭的には綺麗な人だった。まあ、それに値する多くの収入があったのだから問題はなかっただろうが、それにしても祇園のお茶屋で“豪遊”となると、それなりにかなりの費用が掛かっただろう。「有難う、みのさん」。
 
みのさんが司会をしていたクイズ番組が終了した。それを機会に関西に来られる機会はなくなった。
ケイはその後、アメリカ・ニューヨークに赴くことになり、みのさんとの仕事は望めなくなった。僅かの間だったが、有能で、頭の回転が速く、何でもこなす万能司会者みのさん。ケイは仕事の中で教えられることが多く、なかなかそれに代わる人がいない程の貴重なタレントだった。これからも、益々の活躍を期待して止まない。

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