第二章・豊臣家の女性〜『淀殿』〜
淀 殿(1569?〜1615年)
茶々・淀の方・西の丸殿・二の丸殿・藤原菊子。
子女:鶴松・秀頼
戦国時代から江戸時代初期の女性。
関白・太政大臣(のち太閤)、 豊臣秀吉の側室。
父は近江小谷城主・浅井長政。母は正室・織田信秀の娘(信長の妹)、 お市の方の長女。
同母妹に若狭国小浜藩初代藩主・京極高次室、お初(常高院)と江戸幕府第二代将軍・ 徳川秀忠の正室で三代将軍・徳川家光の生母、 お江与の方(崇源院)。
異母姉に松の丸殿(淀殿の従姉妹で秀吉側室)の侍女・くす(寶光院)、兄に万福丸(母は不明)、弟に
万寿丸(母は不明)がいる。
1573年に父・浅井長政と伯父・織田信長(母・お市の兄)が敵対関係に陥り、『一乗谷城の戦い』にて「小谷城」が落城し、父は自害(享年29歳)。
母や妹達と共に織田家の保護下に入る。
1582年、織田信長が『本能寺の変』により死去(享年49歳)。
1583年、母・お市が織田家家臣の柴田勝家と再婚すると、母とともに「越前北ノ庄城」へと移る。
伯父・信長の死後、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と義父・勝家が対立。
翌年、『賤ヶ岳の戦い』において義父が破れると、母・お市は勝家とともに自害。
浅井姉妹は逃がされて秀吉の保護を受けた。
1589年に長男・鶴松<棄>(秀吉の次男)を産む。
この時、「山城国は淀城」を与えられ、女城主となる。
1591年、鶴松が3歳で早世。
1593年、嫡男・『拾』(のちの豊臣秀頼)を出産。
1599年、秀吉が死去(享年62歳)。
秀吉の死後、秀頼の後見人として 豊臣家の実権を握った。
1600年、『関ヶ原の戦い』が起こる。
五奉行の石田三成が『関ヶ原の戦い』に際して「豊臣の旗(西軍)」を掲げた為。直接関与はしていないが、豊臣家の直轄領が大幅に削減される。
1603年に息子・秀頼と 徳川家康の孫娘・千姫](秀忠の長女)が結婚。
1614年、豊臣家が『京都の方広寺』の再建を果たしたが、その中の梵鐘の文字に問題が起こる。
『国家安康』『君臣豊楽』
「これは家康の名を半分に裂き、豊臣家を君となす」と徳川家]の滅亡を呪詛したものだとしてこれが発端となり。
『大坂冬の陣』が起こる。
同年、和議が成立。和睦の条件に大坂城の外堀の埋め立てるという条件があったが。徳川はこれを破棄。内堀と外堀の両方を埋め立てて、「大坂城」は裸同然の城となる。
1615年、『大坂夏の陣』が起こる。
同年、「大坂城」が落城。息子・秀頼や側近達と共に自害。享年49歳。
当時としては長身で夫・秀吉が150㎝程に対して、170㎝程あったという。息子・秀頼も197㎝程あり、父・浅井長政も母・お市の方も大柄であったと伝わる。
現在、大河『真田丸』では竹内結子さんが天真爛漫な少女として演じられています。
『江〜戦国の姫たち〜』では宮沢りえさんが自分の意志で秀吉に惹かれてもう一人の妻になるという役所でした。
『軍師官兵衛』では二階堂ふみさんが気位が高く、美貌の女性として描かれていました。
また、大河『功名が辻』では永作博美さんが好演されていらっしゃいました。
幼顔ながらも、秀吉を惑わし、傾国の美女という言葉が相応しい女性ですが。
彼女は二度の落城と父母を幼くしてなくし、やっと生まれた子・鶴松までも取り上げられ。
挙句に早くに亡くなってしまうという不運に陥ります。
私は彼女が後の世に「悪女」と勝手に仕立てあげられた女性としか思われてなりません。
彼女は後にお江与の方(徳川秀忠夫人)の子・完子(父は羽柴秀勝)を養育したり、仏教に深く帰依したり。
侍女たちにも大変慕われた女性でもありました。
この辺りでもう少し淀殿という女性を見直さなければいけない時が来たのではないでしょうか?
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