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「所在地」:愛媛県松山市荏原町
「形 式」:平城
「遺 構」:曲輪、土塁、水堀
『この記事は2007年3月の記事をリメイクしました。』
荏原城は曲輪を取り巻く内堀がほぼ完存と思える姿で出迎えてくれます。中世の平城が神社や寺として利用されていないのに、よくこれだけの遺構が残っているなと感心します。
「歴 史」
この城跡は、室町時代から戦国期、伊予の豪族河野家18将の首位であった平岡氏代々の居城跡である。
高さ5mほどの土塁を周囲に築き方形の平地で長さは約東西130m、南北120m、堀の幅は北側20m西と東は14m、南は10mで南側で外とつながっている。
四隅に櫓があったらしく西南の隅に石積みがある。矢竹が植えられているのは、この期の城塁に共通する特色である。
建武2(1335)年忽那氏が「会原城」で戦ったという記録が「忽那一族軍忠次第」にあり、築城はそれ以前である。
土佐からの侵入を防ぐ拠点であったが、天正13(1585)年平岡道倚の時、秀吉の四国統一により、道後湯築城とともに落城した。
「現地案内板より」
曲輪を取り巻く土塁は高く約5mあり2段構造となっていた。しかしよくこれだけ完存と思われる遺構が市街地の中で良く残っているな〜と思う。
「荏原城訪問記」
この城は中世城郭の平城としては遺構がほぼ完存と思える貴重な城趾である。
徳島県内にも平城で内堀が残る勝瑞城があるが、勝瑞城は寺として利用されているが、ここは全くの農地である。
城趾が市街地の中で満々の水をたたえ出迎えてくれると感動すら覚える。
城としては、単郭を土塁と水堀で囲ったのみでさほど要害とは思えないが、周りを家臣の屋敷で固め、丘陵には支城を配し防御ラインを構成していたらしい。
この城では関ヶ原の合戦のおり河野家の旧臣が主家再興を賭し、東軍方であった加藤嘉明の居城松前城を攻めたが敗れ主家再興はかなわなかった。尼子氏もそうですが関ヶ原の戦いは主家再興を目指す浪人にはおおきなチャンスだったんですね。
曲輪内部は農地となっているが、訪問時は果樹と思える木が一部見られるものの、特に何も植えられてなく農地としてはもう利用されていないのかも。?
土塁の四隅は高台になっており、櫓が築かれていたと思われます。
「荏原城への道しるべ」
松山ICからなら、国道33号線を南下し重信川に架かる重信大橋を渡り高架の側道を降り拾町交差点を左折し県道23号にはいる。県道207号との交差点(交差点にコンビニサークルKあり)を右折し南下する。荏原郵便局が左にあり、その先の交差点を右折すると城趾。
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畑として利用するなら、普通は堀は埋めますよねえ。付近に土地がいくらでもあるからでしょうか。おかげでよく残ってくれたもんで、感謝もんです。水堀も見事です。
2009/5/1(金) 午後 9:09 [ あおれんじゃあ ]
ほぼ完璧に残っていて、見ていて気持ちが良いです。
もしかしたら、戦前まで実際に庄屋さんとか、地元の
有力者とかの屋敷が在ったのかもしれないですね。
何か使われて居る気配が無いのにないのに、これだけ
遺構が残っているのも珍しいですね。
2009/5/1(金) 午後 10:01 [ - ]
こんばんわ、はじめまして。お名前は何度も拝見しています。
山猫さんのブログでコメントさせて頂いたことがあるのですが、
荏原城に思わず興奮してコメさせてもらいました。
いつ見てもこの水堀はすごい!そして松山がなつかしい。
この航空写真もわかりやすっつって感じです!傑作です☆
2009/5/1(金) 午後 11:54
<あおさん。
どのような経緯があってかはわからないですが、とにかく良く残っているな・・・と感心せずにはいられない城でした。
2009/5/2(土) 午後 3:07
<クロコダイルさん。
方形の土居ですが、見事な遺構ぷりに感動を覚える城でした。
果樹の木が一部生えてるのですが、畑として使っている感じでもなく、県指定史跡になっているので県が管理しているのか・・?もわからないのですが、よく開墾もされずよく残っていたものです。
2009/5/2(土) 午後 3:12
<しゅうちゃんさん。
ポチありがとうございます。
松山におられたことがあるのですね。
ここは市街地から離れているとはいえ、よくぞここまで残っているなと感心する場所ですね。
ブログ拝見させて貰いましたが、城廻もされているんですね。
もう山城は季節的に厳しくなりましたんで、ちょっと不完全燃焼です。
2009/5/2(土) 午後 3:52