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「所在地」:愛媛県今治市桜井町国分(唐子山山頂) 「形 式」:山城 「遺 構」:曲輪、石垣 「歴 史」:南北朝時代に南朝方として新田義貞の弟「脇屋義助」が入城した。南朝方の精神的支えと期待されたが、しかし残念ながら脇屋義助は国分寺城入城後数十日後に病死したと伝えられる。 【現地案内看板より抜粋】 天正15年福島正則は越智郡以東11万石を与えられ、道後から国分山へ入った。正則はさらに清洲城へ移り、その後小川祐忠が移封されたが関ヶ原の戦いで西軍に味方したために領地を没収され、かわって藤堂高虎が入った。高虎は今治城を築いたがその際国分寺城の城壁の石を運び去った・・・・・・ 高虎は、局地的な戦略的城郭としては優れているが、20万石の領地を支配する政治的城郭としては城地が狭いために今治城を築いたとされる。 「訪問記」:国分寺城は唐子山山頂にある。唐子山には唐子山西側を通る県道沿いに唐子山への登山道の看板があるので登城路はわかりやすい。付近には国分寺もあり昔から歴史的重要拠点だったことがわかる。唐子山への登山道を歩くことで主郭に到達することが出来ます。主郭には今治市が設置した案内看板がある。資料では主郭周辺には石垣が残っているような記載があるが、資料にあるような主郭を取り巻くような石垣は発見できなかった。 主郭は、公園として整備された形跡があるが、主郭の前後には曲輪跡がはっきり確認できる。 国分寺城には福島正則や藤堂高虎などが城主となり、同時期には加藤嘉明が松山城主であり、愛媛には名将が配置されたことはいかに戦略的重要地点だったかがわかります。 「国分寺城への道しるべ」 詳しい地図で見る |
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先日テレビで山城調査の達人を見ていて貴方のことを思い出しました。
その人は岡山の方でしたが、和歌山五重の掘り切りのある山城を苦労して探し当てました。
中々たいへんな趣味のようですね。気をつけて調査してください。
2007/10/7(日) 午後 10:16
私もそのテレビ見ました。自分の歩幅で登山道を調べていましたね。
あそこまでは出来ません(笑)。しかし苦労して山登りをして遺構を発見できたときは感動を覚えます。
2007/10/8(月) 午後 7:41
山城がこんなに有ると知りませんでした。人の住んでいるところ何処にでもある。人はどんな歴史を辿ってきたのかね、学校では決して教えない、凄い真実が潜んでいるような気がしませんか?
2007/10/19(金) 午後 9:56
今では城跡も公園等に整備され団欒の場になっている所がありますが、歴史をさかのぼればそこは生死を争う場であったり、政治の拠点であったり、人知れず埋もれた歴史の場に立つ感慨が城跡へ訪問するきっかけにもなっていますね。
2007/10/20(土) 午前 11:01
南北朝時代に伊予の国は戦乱となりましたが、何故か愛媛には有名人の子孫が多いそうです。
新田義貞の弟、脇屋義助の子孫は、新田高校の創始者、新田長次郎氏だそうです。
鳥生村庄屋だった千氏は、千利休の弟の子孫。また、服部半蔵の子孫もいるそうです。
2009/9/8(火) 午前 0:27